一
第 49 章
それから市蔵と千代子との間がどうなったか僕は知らない。
別にどうもならないんだろう。
少なくとも傍で見ていると、二人の関係は昔から今日に至るまで全く変らないようだ。
二人に聞けばいろいろな事を云うだろうが、それはその時限りの気分に制せられて、まことしやかに前後に通じない嘘を、永久の価値あるごとく話すのだと思えば間違ない。
僕はそう信じている。
あの事件ならその当時僕も聞かされた。
しかも両方から聞かされた。
あれは誤解でも何でもない。
両方でそう信じているので、そうしてその信じ方に両方とも無理がないのだから、極めてもっともな衝突と云わなければならない。
したがって夫婦になろうが、友達として暮らそうが、あの衝突だけはとうてい免かれる事のできない、まあ二人の持って生れた、因果と見るよりほかに仕方がなかろう。
ところが不幸にも二人はある意味で密接に引きつけられている。
しかもその引きつけられ方がまた傍のものにどうする権威もない宿命の力で支配されているんだから恐ろしい。
取り澄ました警句を用いると、彼らは離れるために合い、合うために離れると云った風の気の毒な一対を形づくっている。
こう云って君に解るかどうか知らないが、彼らが夫婦になると、不幸を醸す目的で夫婦になったと同様の結果に陥いるし、また夫婦にならないと不幸を続ける精神で夫婦にならないのと択ぶところのない不満足を感ずるのである。
だから二人の運命はただ成行に任せて、自然の手で直接に発展させて貰うのが一番上策だと思う。
君だの僕だのが何のかのと要らぬ世話を焼くのはかえって当人達のために好くあるまい。
僕は知っての通り、市蔵から見ても千代子から見ても他人ではない。
ことに須永の姉からは、二人の身分について今まで頼まれたり相談を受けたりした例は何度もある。
けれども天の手際で旨く行かないものを、どうして僕の力で纏める事ができよう。
つまり姉は無理な夢を自分一人で見ているのである。
須永の姉も田口の姉も、僕と市蔵の性質が余りよく似ているので驚ろいている。
僕自身もどうしてこんな変り者が親類に二人揃ってできたのだろうかと考えては不思議に思う。
須永の姉の料簡では、市蔵の今日は全く僕の感化を受けた結果に過ぎないと見ているらしい。
僕が姉の気に入らない点をいくらでも有っている内で、最も彼女を不愉快にするものは、不明なる僕のわが甥に及ぼしたと認められているこの悪い影響である。
僕は僕の市蔵に対する今日までの態度に顧みて、この非難をもっともだと肯ずる。
それがために市蔵を田口家から疎隔したという不服もついでに承認して差支ない。
ただ彼ら姉二人が僕と市蔵とを、同じ型からでき上った偏窟人のように見傚して、同じ眉を僕らの上に等しく顰めるのは疑もなく誤っている。
市蔵という男は世の中と接触するたびに内へとぐろを捲き込む性質である。
だから一つ刺戟を受けると、その刺戟がそれからそれへと廻転して、だんだん深く細かく心の奥に喰い込んで行く。
そうしてどこまで喰い込んで行っても際限を知らない同じ作用が連続して、彼を苦しめる。
しまいにはどうかしてこの内面の活動から逃れたいと祈るくらいに気を悩ますのだけれども、自分の力ではいかんともすべからざる呪いのごとくに引っ張られて行く。
そうしていつかこの努力のために斃れなければならない、たった一人で斃れなければならないという怖れを抱くようになる。
そうして気狂のように疲れる。
これが市蔵の命根に横わる一大不幸である。
この不幸を転じて幸とするには、内へ内へと向く彼の命の方向を逆にして、外へとぐろを捲き出させるよりほかに仕方がない。
外にある物を頭へ運び込むために眼を使う代りに、頭で外にある物を眺める心持で眼を使うようにしなければならない。
天下にたった一つで好いから、自分の心を奪い取るような偉いものか、美くしいものか、優しいものか、を見出さなければならない。
一口に云えば、もっと浮気にならなければならない。
市蔵は始め浮気を軽蔑してかかった。
今はその浮気を渇望している。
彼は自己の幸福のために、どうかして翩々たる軽薄才子になりたいと心から神に念じているのである。
軽薄に浮かれ得るよりほかに彼を救う途は天下に一つもない事を、彼は、僕が彼に忠告する前に、すでに承知していた。
けれども実行はいまだにできないでもがいている。