彼岸過迄

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三

第 23 章
敬太郎けいたろうは今までいままで下町したまち出での旦那だんなを眼めの前まえに描いえがいていた。
それが突然とつぜん規律きりつずくめの軍人ぐんじんとして彼かれを威圧いあつして来きた時じ、彼かれはたちまち心こころの中心ちゅうしんを狂わしくるわした。
友達ともだちに対したいしてなら云いいい得るうる「君きみのためだから」という言葉ことばも挨拶あいさつも有っあっていたのだが、この場合ばあいにはそれがまるで役やくに立たたたなかった。
「ただ私わたくしの勝手かってで、時間じかんが来きてもそこを動かうごかなかったのです」 敬太郎けいたろうがこう答えるこたえるか答えこたえないうちに、田口たぐちは今いまのきっとした態度たいどをすぐ崩しくずして、「そりゃ私わたくしのために大変たいへん都合つごうが好かっよかった」と機嫌きげんの好いよい調子ちょうしで受けうけたが、「しかしあなたの勝手かってと云ういうのは何なんです」と聞き返しききかえした。
敬太郎けいたろうは少しすこし逡巡しゅんじゅんした。
「なにそりゃ聞かきかないでも構いかまいません。あなたの事ことだから。話しはなしたくなければ話さはなさないでも差支さしつかえない」 田口たぐちはこう云っいって、自分じぶんの前まえに引きつけひきつけた手提てさげ煙草盆たばこぼんの抽出ちゅうしゅつを開けるあけると、その中なかから角かくでできた細長いほそながい耳みみ掻を捜し出しさがしだした。
それを右みぎの耳みみの中なかに入れいれて、さも痒かゆゆそうに掻きかき廻しまわした。
敬太郎けいたろうは見みないふりをしてわざと自分じぶんを見みているような、また耳みみだけに気きを取らとられているような、田口たぐちの蹙面を薄うす気味きみ悪くわるく感じかんじた。
「実じつは停留所ていりゅうしょに女おんなが一人ひとり立ったっていたのです」と彼かれはとうとう自白じはくしてしまった。
「年寄としよりですか、若いわかい女おんなですか」「若いわかい女おんなです」「なるほど」 田口たぐちはただ一口ひとくちこう云っいっただけで、何なんとも後あとを継いつづいでくれなかった。
敬太郎けいたろうも頓挫とんざしたなり言葉ことばを途と切らしきらした。
二人ふたりはしばらく差向いさしむかいのまま口くちを聞かきかずにいた。
「いや、若かろうわかかろうが年寄としよりだろうが、その婦人ふじんの事ことを聞くきくのはよくなかった。それはあなただけに関係かんけいのある事ことなんでしょうから、止しよしにしましょう。私わたくしの方ほうじゃただ顔かおに黒子ほくろのある男おとこについて、研究けんきゅうの結果けっかさえ伺うかがいがえばいいんだから」「しかしその女おんなが黒子ほくろのある人ひとの行動こうどうに始終しじゅう入り込んはいりこんでくるのです。第一だいいち女おんなの方ほうで男おとこを待ち合わしまちあわしていたのですから」「はあ」 田口たぐちはちょっと思いおもいも寄らよらぬという顔つきかおつきをしたが、「じゃその婦人ふじんはあなたの御ご知合しりあいでも何なんでもないのですね」と聞いきいた。
敬太郎けいたろうは固よりもとより知合しりあいだと答えるこたえる勇気ゆうきを有ゆうたなかった。
きまりの悪いわるい思いおもいをしても、見みた事ことも口くちを利いきいた事こともない女おんなだと正直しょうじきに云わいわなければならなかった。
田口たぐちはそうですかと、穏かおだやかに敬太郎けいたろうの返事へんじを聞いきいただけで、少しすこしも追窮ついきゅうする気色けしきを見せみせなかったが、急きゅうに摧けくだけた調子ちょうしになって、「どんな女おんななんです。その若いわかい婦人ふじんと云ういうのは。器量きりょうからいうと」と興味きょうみに充ちみちた顔かおを提ひさげ煙草盆たばこぼんの上うえに出しだした。
「いえ、なに、つまらない女おんななんです」と敬太郎けいたろうは前後ぜんごの行きがかりいきがかり上うえ答えこたえてしまって、実際じっさい頭あたまの中なかでもつまらないような気きがした。
これが相手あいてと場合ばあいしだいでは、うん器量きりょうはなかなか好いよい方ほうだぐらいは固よりもとより云いいい兼ねけんねなかったのである。
田口たぐちは「つまらない女おんな」という敬太郎けいたろうの判断はんだんを聞いきいて、たちまち大きなおおきな声こえを出しだして笑っわらった。
敬太郎けいたろうにはその意味いみがよく解らわからなかったけれども、何なんでも頭あたまの上うえで大濤だいとうが崩れくずれたような心持こころもちがして、幾分いくぶんか顔かおが熱くあつくなった。
「よござんす、それで。――それからどうしました。女おんなが停留所ていりゅうしょで待ち合わしまちあわしているところへ男おとこが来きて」 田口たぐちはまた普通ふつうの調子ちょうしに戻っもどって、真面目まじめに事件じけんの経過けいかを聞こうきこうとした。
実じつをいうと敬太郎けいたろうは自分じぶんがこれから話すはなす顛末てんまつを、どうして握るにぎる事ことができたかの苦心くしん談だんを、まず冒頭ぼうとうに敷衍ふえんして、二につある同じおなじ名なの停留所ていりゅうしょの迷っまよった事ことから、不思議ふしぎな謎なぞの活きつきて働はたらけらく洋杖すてっきを、どう抱えかかえ出しだして、どう利用りようしたかに至るいたるまでを、自分じぶんの手柄てがらのなるべく重くおもく響くひびくように、詳しくくわしく述べのべたかったのであるが、会うあうや否いなや四よん時じと五ご時じとのいきさつでやられた上うえに、勝手かってに見張りみはりの時間じかんを延ばしのばした源みなもと因いんになる例れいの女おんなが、源みなもと因いんにも何になんにもならない見みず知らしらずの女おんなだったりした不味いまじいところがあるので、自分じぶんを広告こうこくする勇気ゆうきは全くまったく抜けぬけていた。
それで男おとこと女おんなが洋食屋ようしょくやへ入っはいってから以後いごの事ことだけをごく淡泊たんぱくり話しはなして見るみると、宅たくを出るでる時じ自分じぶんが心配しんぱいしていた通りとおり、少しすこしも捕まえつかまえどころのない、あたかも灰色はいいろの雲くもを一握りひとにぎり田口たぐちの鼻はなの先さきで開いひらいて見せみせたと同じおなじような貧しいまずしい報告ほうこくになった。
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