彼岸過迄

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五

第 25 章
敬太郎けいたろうの胸むねにもこの疑はぎは最初さいしょから多少たしょう萌さきざさないでもなかった。
改あらためためて自分じぶんの心こころを解剖かいぼうして見みたら、彼かれら二人ふたりの間まに秘密ひみつの関係かんけいがすでに成立せいりつしているという仮定かていが遠くとおくから彼かれを操っあやつって、それがために偵察ていさつの興味きょうみが一段いちだんと鋭どくするどく研ぎ澄まさとぎすまされたのかも知れしれなかった。
肉にくと肉にくの間まに起るおこるこの関係かんけいをほかにして、研究けんきゅうに価あたいする交渉こうしょうは男女だんじょの間まに起りおこり得るうるものでないと主張しゅちょうするほど彼かれは理論家りろんかではなかったが、暖だんたかい血ちを有っあった青年せいねんの常つねとして、この観察かんさつ点てんから男女だんじょを眺めるながめるときに、始めはじめて男女だんじょらしい心持こころもちが湧いわいて来るくるとは思っおもっていたので、なるべくそこを離れはなれずに世の中よのなかを見渡しみわたしたかったのである。
年ねんの若いわかい彼かれの眼めには、人間にんげんという大きなおおきな世界せかいがあまり判はん切せつ分らわからない代りかわりに、男女だんじょという小さなちいさな宇宙うちゅうはかく鮮やかあざやかに映っうつった。
したがって彼かれは大抵たいていの社会的しゃかいてき関係かんけいを、できるだけこの一いち点てんまで切落しきりおとして楽らくんでいた。
停留所ていりゅうしょで逢っあった二人ふたりの関係かんけいも、敬太郎けいたろうの気きのつかない頭あたまの奥おくでは、すでにこういう一いち対たいの男女だんじょとして最初さいしょから結びつけむすびつけられていたらしかった。
彼かれはまたその背後はいごに罪悪ざいあくを想像そうぞうして要ようもないのに恐れおそれを抱くいだくほどの道徳どうとく家いえでもなかった。
彼かれは世間せけん並なみな道みち義心ぎしんの所有者しょゆうしゃとしてありふれた人間にんげんの一人ひとりであったけれども、その道みち義心ぎしんは彼かれの空想力くうそうりょくと違っちがって、いざという場合ばあいにならなければ働はたらけらかないのを常つねとするので、停留所ていりゅうしょの二人ふたりを自分じぶんに最ももっとも興味きょうみのある男女だんじょ関係かんけいに引き直しひきなおして見みても、別段べつだん不愉快ふゆかいにはならずにすんだのである。
彼かれはただ年齢ねんれいの上うえにおいて二人ふたりの相違そういの著るきるしいのを疑ぐっうたぐった。
が、また一方いっぽうではその相違そういがかえって彼かれの眼めに映ずるえいずる「男女だんじょの世界せかい」なるものの特色とくしょくを濃くこく示ししめしているようにも見えみえた。
彼かれの二人ふたりに対するたいする心持こころもちは知らしらず知らしらずの間まにこう弛んゆるんでいたのだが、いよいよそうかと正式せいしきに田口たぐちから質問しつもんを掛けかけられて見るみると、断然だんぜんとした返答へんとうは、責任せきにんのあるなしにかかわらず、纏まっまとまった形かたちとなって頭あたまの中なかには現われあらわれ悪かっわるかった。
それでこう云っいった。
――「肉体にくたい上うえの関係かんけいはあるかも知れしれませんが、無いないかも分りわかりません」 田口たぐちはただ微笑びしょうした。
そこへ例れいの袴はかまを穿いはいた書生しょせいが、一いち枚ばいの名刺めいしを盆ぼんに載せのせて持っもって来きた。
田口たぐちはちょっとそれを受取っうけとったまま、「まあ分らわからないところが本当ほんとうでしょう」と敬太郎けいたろうに答えこたえたが、すぐ書生しょせいの方ほうを見みて、「応接間おうせつかんへ通しとおしておいて……」と命令めいれいした。
先刻せんこくからよほど窮しきゅうしていた矢先やさきだから、敬太郎けいたろうはこの来客らいきゃくを好いよい機きに、もうここで切り上げようきりあげようと思っおもって身繕いみづくろいにかかると、田口たぐちはわざわざ彼かれの立たたたない前まえにそれを遮ぎっさえぎった。
そうして敬太郎けいたろうの辟易へきえきするのに頓着とんちゃくなくなお質問しつもんを進行しんこうさせた。
そのうちで敬太郎けいたろうの明瞭めいりょうに答えこたえられるのはほとんど一いちカ条かじょうもなかったので、彼かれは大学だいがくで受けうけた口答こうとう試験しけんの時じよりもまだ辛いつらい思いおもいをした。
「じゃこれぎりにしますが、男おとこと女おんなの名前なまえは分りわかりましたろう」 田口たぐちの最後さいごと断っことわったこの問もんに対したいしても、敬太郎けいたろうは固よりもとより満足まんぞくな返事へんじを有っあっていなかった。
彼かれは洋食店ようしょくてんで二人ふたりの談話だんわに注意ちゅういを払うはらう間まにも何々なになにさんとか何々なになに子ことかあるいは御ご何なんとかいう言葉ことばがきっとどこかへ交っかって来るくるだろうと心こころ待まちに待っまっていたのだが、彼かれらは特にとくにそれを避けるさける必要ひつようでもあるごとくに、御ご互たがいの名なはもちろん、第三者だいさんしゃの名なもけっして引合ひきあいにさえ出さださなかったのである。
「名前なまえも全くまったく分りわかりません」 田口たぐちはこの答こたえを聞いきいて、手焙てあぶりの胴どうに当てあてた手てを動かしうごかしながら、拍子ひょうしを取るとるように、指先ゆびさきで桐きりの縁えんを敲きたたき始めはじめた。
それをしばらくくり返しくりかえした後あとで、「どうしたんだか余よまり要領ようりょうを得とくませんね」と云っいったが、直言ちょくげん葉はを継いつづいで、「しかしあなたは正直しょうじきだ。そこがあなたの美点びてんだろう。分らわからない事ことを分っわかったように報告ほうこくするよりもよっぽど好いよいかも知れしれない。まあ買えかえばそこを買うかうんですね」と笑いわらい出しだした。
敬太郎けいたろうは自分じぶんの観察かんさつが、はたして実用じつように向かむかなかったのを発見はっけんして、多少たしょうわが迂闊うかつに恥じ入るはじいる気きも起っおこったが、しかしわずか二三にさん時間じかんの注意ちゅういと忍耐にんたいと推測すいそくでは、たとい自分じぶんより十じゅう層倍そうばい行き届いいきとどいた人間にんげんに代理だいりを頼んたのんだところで、田口たぐちを満足まんぞくさせるような結果けっかは得とくられる訳わけのものでないと固くかたく信じしんじていたから、この評価ひょうかに対したいしてそれほどの苦痛くつうも感じかんじなかった。
その代りかわり正直しょうじきと賞めほめられた事ことも大したたいした嬉しさうれしさにはならなかった。
このくらいの正直しょうじきさ加減かげんは全くまったくの世間せけん並なみに過ぎすぎないと彼かれには見えみえたからである。
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