彼岸過迄

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二

第 2 章
敬太郎けいたろうが留桶とめおけの前まえへ腰こしをおろして、三助さんすけに垢あか擦を掛けかけさせている時分じぶんになって、森本もりもとはやっと煙けむりの出るでるような赤いあかい身体しんたいを全くまったく湯ゆの中なかから露出ろしゅつした。
そうして、ああ好いよい心持こころもちだという顔つきかおつきで、流しながしの上うえへぺたりと胡坐こざをかいたと思うおもうと、「あなたは好いよい体格たいかくだね」と云っいって敬太郎けいたろうの肉付にくづけを賞めほめ出しだした。
「これで近頃ちかごろはだいぶ悪くわるくなった方ほうです」「どうしてどうしてそれで悪かっわるかった日ひにゃ僕ぼくなんざあ」 森本もりもとは自分じぶんで自分じぶんの腹はらをポンポンぽんぽん叩いたたいて見せみせた。
その腹はらは凹んへこんで背中せなかの方ほうへ引いんつけられてるようであった。
「何しろなにしろ商売しょうばいが商売しょうばいだから身体しんたいは毀すこわす一方いっぽうですよ。もっとも不養生ふようじょうもだいぶやりましたがね」と云っいった後あとで、急きゅうに思い出しおもいだしたようにアハハハあはははと笑っわらった。
敬太郎けいたろうはそれに調子ちょうしを合せるあわせる気味きみで、「今日きょうは僕ぼくも閑かんだから、久しぶりひさしぶりでまたあなたの昔話むかしばなしでも伺いうかがいましょうか」と云っいった。
すると森本もりもとは、「ええ話しはなしましょう」とすぐ乗気のりきな返事へんじをしたが、活溌かっぱつなのはただ返事へんじだけで、挙動きょどうの方ほうは緩慢かんまんというよりも、すべての筋肉きんにくが湯ゆに※でられた結果けっか、当分とうぶん作用さようを中止ちゅうししている姿すがたであった。
敬太郎けいたろうが石鹸せっけんを塗ぬりけた頭あたまをごしごしいわしたり、堅いかたい足あしの裏うらや指ゆびの股またを擦っすったりする間ま、森本もりもとは依然いぜんとして胡座あぐらをかいたまま、どこ一いちつ洗うあらう気色けしきは見えみえなかった。
最後さいごに瘠せやせた一塊いっかいの肉にく団だんをどぶりと湯ゆの中なかに抛り込むほうりこむように浸けつけて、敬太郎けいたろうとほぼ同時どうじに身体しんたいを拭きふきながら上っのぼって来きた。
そうして、「たまに朝湯あさゆへ来るくると綺麗きれいで好いよい心持こころもちですね」と云っいった。
「ええ。あなたのは洗うあらうんでなくって、本当ほんとうに湯ゆに這入るはいるんだからことにそうだろう。実用じつようのための入湯にゅうとうでなくって、快感かいかんを貪どんぼるための入浴にゅうよくなんだから」「そうむずかしい這入りはいり方ほうでもないんでしょうが、どうもこんな時じに身体しんたいなんか洗うあらうな億劫おっくうでね。ついぼんやり浸っひたってぼんやり出でちまいますよ。そこへ行くいくと、あなたは三さん層倍そうばいも勤勉きんべんだ。頭あたまから足あしからどこからどこまで実じつによく手落ておちなく洗いあらいますね。御負おまけに楊枝ようじまで使っつかって。あの綿密めんみつな事ことには僕ぼくもほとんど感心かんしんしちまった」 二人ふたりは連立れんりつって湯屋ゆやの門口かどぐちを出でた。
森本もりもとがちょっと通りとおりまで行っいって巻紙まきがみを買うかうからというので、敬太郎けいたろうもつき合うつきあう気きになって、横丁よこちょうを東ひがしへ切れるきれると、道みちが急きゅうに悪くわるくなった。
昨夕さくゆうの雨あめが土つちを潤じゅんかし抜いぬいたところへ、今朝けさからの馬うまや車くるまや人通りひとどおりで、踏みふみ返しかえしたり蹴上げけあげたりした泥どろの痕あとを、二人ふたりは厭ういとうような軽蔑けいべつするような様子ようすで歩いあるいた。
日ひは高くたかく上っのぼっているが、地面じめんから吸い上げすいあげられる水蒸気みずじょうきはいまだに微かかすかな波動はどうを地平線ちへいせんの上うえに描いえがいているらしい感じかんじがした。
「今朝けさの景色けしきは寝坊ねぼうのあなたに見せみせたいようだった。何しろなにしろ日ひがかんかん当っあたってる癖くせに靄もやがいっぱいなんでしょう。電車でんしゃをこっちから透かしすかして見るみると、乗客じょうきゃくがまるで障子しょうじに映るうつる影画かげえのように、はっきり一人一人ひとりひとり見分けみわけられるんです。それでいて御ご天道てんと様ようが向う側むこうがわにあるんだからその一人一人ひとりひとりがどれもこれもみんな灰色はいいろの化物ばけものに見えるみえるんで、すこぶる奇観きかんでしたよ」 森本もりもとはこんな話はなしをしながら、紙屋かみやへ這入っはいって巻紙まきがみと状袋じょうぶくろで膨らましふくらました懐ふところをちょっと抑えおさえながら出でて来きた。
表ひょうに待っまっていた敬太郎けいたろうはすぐ今いま来きた道みちの方ほうへ足あしを向け直しむけなおした。
二人ふたりはそのままいっしょに下宿げしゅくへ帰っかえった。
上靴うわぐつの踵かかとを鳴らしならして階段かいだんを二につ上りのぼり切っきった時じ、敬太郎けいたろうは自分じぶんの部屋へやの障子しょうじを手早くてばやく開けあけて、「さあどうぞ」と森本もりもとを誘っさそった。
森本もりもとは、「もう直じか午飯ごはんでしょう」と云っいったが、躊躇ちゅうちょすると思いの外おもいのほか、あたかも自分じぶんの部屋へやへでも這入るはいるような無雑むざつ作さくな態度たいどで、敬太郎けいたろうの後あとに跟いて来きた。
そうして、「あなたの室むろから見みた景色けしきはいつ見みても好いよいね」と自分じぶんで窓まどの障子しょうじを開けあけながら、手摺てすり付ふの縁板えんいたの上うえへ濡手ぬれて拭ぬぐえを置いおいた。
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