彼岸過迄

33/58

三

第 33 章
そのうち子供こどもがみんな学校がっこうから帰っかえって来きたので、今までいままで赤いあかいリボンりぼんに占領せんりょうされていた家庭かていが、急きゅうに幾いく色いろかの華やかはなやかさを加えくわえた。
幼稚園ようちえんへ行くいく七ななつになる男の子おとこのこが、巴ともえの紋もんのついた陣じん太鼓たいこのようなものを持っもって来きて、宵子よいこさん叩かたたかして上げるあげるからおいでと連れつれて行っいった。
その時じ千代子ちよこは巾着きんちゃくのような恰好かっこをした赤いあかい毛織けおりの足袋たびが廊下ろうかを動いうごいて行くいく影かげを見つめみつめていた。
その足袋たびの紐ひもの先さきには丸いまりい房ぼうがついていて、それが小しょういさな足あしを運ぶはこぶたびにぱっぱっと飛んとんだ。
「あの足袋たびはたしか御前ごぜんが編んあんでやったのだったね」「ええ可愛らしいかわいらしいわね」 千代子ちよこはそこへ坐っすわって、しばらく叔父おじと話しはなしていた。
そのうちに曇っくもった空そらから淋しいさびしい雨あめが落ちおち出しだしたと思うおもうと、それが見る見るみるみる音おとを立てたてて、空そら坊主ぼうずになった梧桐ごどうをしたたか濡らしぬらし始めはじめた。
松本まつもとも千代子ちよこも申し合せもうしあわせたように、硝子がらす越こしの雨あめの色いろを眺めながめて、手焙てあぶりに手てを翳しかざした。
「芭蕉ばしょうがあるもんだから余計よけい音おとがするのね」「芭蕉ばしょうはよく持つもつものだよ。この間まから今日きょうは枯れるかれるか、今日きょうは枯れるかれるかと思っおもって、毎日まいにちこうして見みているがなかなか枯れかれない。山茶花さざんかが散っちって、青桐あおぎりが裸はだかになっても、まだ青いあおいんだからなあ」「妙みょうな事ことに感心かんしんするのね。だから恒三こうぞうは閑人ひまじんだって云わいわれるのよ」「その代りかわり御前ごぜんの叔父おじさんには芭蕉ばしょうの研究けんきゅうなんか死ぬしぬまでできっこない」「したかないわ、そんな研究けんきゅうなんか。だけど叔父おじさんは内うちの御ご父さんちちさんよりか全くまったく学者がくしゃね。わたし本当ほんとうに敬服けいふくしててよ」「生意気なまいき云ういうな」「あら本当ほんとうよあなた。だって何なんを聞いきいても知っしってるんですもの」 二人ふたりがこんな話はなしをしていると、ただいまこの方ほうが御ご見えみえになりましたと云っいって、下女げじょが一いち通つうの紹介状しょうかいじょうのようなものを持っもって来きて松本まつもとに渡しわたした。
松本まつもとは「千代子ちよこ待っまっておいで。今いまにまた面白いおもしろい事ことを教えおしえてやるから」と笑いわらいながら立ち上ったちのぼった。
「厭いやよまたこないだみたいに、西洋せいよう煙草たばこの名ななんかたくさん覚えさせおぼえさせちゃ」 松本まつもとは何になんにも答えこたえずに客間きゃくまの方ほうへ出でて行っいった。
千代子ちよこも茶の間ちゃのまへ取っとって返しかえした。
そこには雨あめに降り込めふりこめられた空そらの光ひかりを補なうおぎなうため、もう電気灯でんきとうが点っともっていた。
台所だいどころではすでに夕飯ゆうはんの支度したくを始めはじめたと見えみえて、瓦斯がす七輪しちりんが二につとも忙がしくいそがしく青いあおい※を吐いはいていた。
やがて小供こどもは大きなおおきな食卓しょくたくに二人ふたりずつ向い合せむかいあわせに坐っすわった。
宵子よいこだけは別べつに下女げじょがついて食事しょくじをするのが例れいになっているので、この晩ばんは千代子ちよこがその役やくを引受けひきうけた。
彼女かのじょは小さいちいさい朱塗しゅぬりの椀わんと小皿こざらに盛っもった魚肉ぎょにくとを盆ぼんの上うえに載せのせて、横手よこてにある六ろく畳たたみへ宵子よいこを連れ込んつれこんだ。
そこは家いえのものの着き更さらをするために多くおおく用いもちいられる室むろなので、箪笥たんすが二につと姿見すがたみが一いちつ、壁かべから飛び出しとびだしたように据えすえてあった。
千代子ちよこはその姿見すがたみの前まえに玩具がんぐのような椀わんと茶碗ちゃわんを載せのせた盆ぼんを置いおいた。
「さあ宵子よいこさん、まんまよ。御ご待遠まちどおさま」 千代子ちよこが粥かゆを一いち匙さじずつ掬っすくって口くちへ入れいれてやるたびに、宵子よいこは旨しうましい旨むねしいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸げいを強いつよいられた。
しまいに自分じぶん一人ひとりで食べるたべると云っいって、千代子ちよこの手てから匙さじを受け取っうけとった時じ、彼女かのじょはまた丹念たんねんに匙さじの持ち方もちかたを教えおしえた。
宵子よいこは固よりもとより極めてきわめて短かいみじかい単語たんごよりほかに発音はつおんできなかった。
そう持つもつのではないと叱らしかられると、きっと御供ごくのような平たいひらたい頭あたまを傾げかしげて、こう?
こう?
と聞き直しききなおした。
それを千代子ちよこが面白おもしろがって、何なん遍へんもくり返さくりかえさしているうちに、いつもの通りとおりこう?
と半分はんぶん言いかけいいかけて、心持こころもち横よこにした大きなおおきな眼めで千代子ちよこを見上げみあげた時じ、突然とつぜん右みぎの手てに持っもった匙さじを放り出しほうりだして、千代子ちよこの膝ひざの前まえに俯伏になった。
「どうしたの」 千代子ちよこは何なんの気きもつかずに宵子よいこを抱き起しだきおこした。
するとまるで眠っねむった子こを抱えかかえたように、ただ手て応おうがぐたりとしただけなので、千代子ちよこは急きゅうに大きなおおきな声こえを出しだして、宵子よいこさん宵子よいこさんと呼んよんだ。
33/58