二
第 12 章
須永はもとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を目標に、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上りに折れて、二三度不規則に曲った極めて分り悪い所にいた。
家並の立て込んだ裏通りだから、山の手と違って無論屋敷を広く取る余地はなかったが、それでも門から玄関まで二間ほど御影の上を渡らなければ、格子先の電鈴に手が届かないくらいの一構であった。
もとから自分の持家だったのを、一時親類の某に貸したなり久しく過ぎたところへ、父が死んだので、無人の活計には場所も広さも恰好だろうという母の意見から、駿河台の本宅を売払ってここへ引移ったのである。
もっともそれからだいぶ手を入れた。
ほとんど新築したも同然さとかつて須永が説明して聞かせた時に、敬太郎はなるほどそうかと思って、二階の床柱や天井板を見廻した事がある。
この二階は須永の書斎にするため、後から継ぎ足したので、風が強く吹く日には少し揺れる気味はあるが、ほかにこれと云って非の打ちようのない綺麗に明かな四畳六畳二間つづきの室であった。
その室に坐っていると、庭に植えた松の枝と、手斧目の付いた板塀の上の方と、それから忍び返しが見えた。
縁に出て手摺から見下した時、敬太郎は松の根に一面と咲いた鷺草を眺めて、あの白いものは何だと須永に聞いた事もあった。
彼は須永を訪問してこの座敷に案内されるたびに、書生と若旦那の区別を判然と心に呼び起さざるを得なかった。
そうしてこう小ぢんまり片づいて暮している須永を軽蔑すると同時に、閑静ながら余裕のあるこの友の生活を羨やみもした。
青年があんなでは駄目だと考えたり、またあんなにもなって見たいと思ったりして、今日も二つの矛盾からでき上った斑な興味を懐に、彼は須永を訪問したのである。
例の小路を二三度曲折して、須永の住居っている通りの角まで来ると、彼より先に一人の女が須永の門を潜った。
敬太郎はただ一目その後姿を見ただけだったが、青年に共通の好奇心と彼に固有の浪漫趣味とが力を合せて、引き摺るように彼を同じ門前に急がせた。
ちょっと覗いて見ると、もう女の影は消えていた。
例の通り紅葉を引手に張り込んだ障子が、閑静に閉っているだけなのを、敬太郎は少し案外にかつ物足らず眺めていたが、やがて沓脱の上に脱ぎ捨てた下駄に気をつけた。
その下駄はもちろん女ものであったが、行儀よく向うむきに揃っているだけで、下女が手をかけて直した迹が少しも見えない。
敬太郎は下駄の向と、思ったより早く上ってしまった女の所作とを継ぎ合わして、これは取次を乞わずに、独りで勝手に障子を開けて這入った極めて懇意の客だろうと推察した。
でなければ家のものだが、それでは少し変である。
須永の家は彼と彼の母と仲働きと下女の四人暮しである事を敬太郎はよく知っていたのである。
敬太郎は須永の門前にしばらく立っていた。
今這入った女の動静をそっと塀の外から窺うというよりも、むしろ須永とこの女がどんな文に二人の浪漫を織っているのだろうと想像するつもりであったが、やはり聞耳は立てていた。
けれども内はいつもの通りしんとしていた。
艶めいた女の声どころか、咳嗽一つ聞えなかった。
「許嫁かな」 敬太郎はまず第一にこう考えたが、彼の想像はそのくらいで落ちつくほど、訓練を受けていなかった。
――母は仲働を連れて親類へ行ったから今日は留守である。
飯焚は下女部屋に引き下がっている。
須永と女とは今差向いで何か私語いている。
――はたしてそうだとするといつものように格子戸をがらりと開けて頼むと大きな声を出すのも変なものである。
あるいは須永も母も仲働もいっしょに出たかも知れない。
おさんはきっと昼寝をしている。
女はそこへ這入ったのである。
とすれば泥棒である。
このまま引返してはすまない。
――敬太郎は狐憑のようにのそりと立っていた。