彼岸過迄

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六

第 54 章
「おれはそう思うおもうんだ。だから少しすこしも隠すかくす必要ひつようを認めみとめていない。御前ごぜんだって健全けんぜんな精神せいしんを持っもっているなら、おれと同じおなじように思うおもうべきはずじゃないか。もしそう思うおもう事ことができないというなら、それがすなわち御前ごぜんの僻みひがみだ。解っわかったかな」「解りわかりました。善くよく解りわかりました」と市蔵いちぞうが答えこたえた。
僕ぼくは「解っわかったらそれで好いよい、もうその問題もんだいについてかれこれというのは止しよしにしようよ」と云っいった。
「もう止しよします。もうけっしてこの事ことについて、あなたを煩はんらわす日ひは来きないでしょう。なるほどあなたのおっしゃる通りとおり僕ぼくは僻んひがんだ解釈かいしゃくばかりしていたのです。僕ぼくはあなたの御ご話はなしを聞くきくまでは非常ひじょうに怖かっこわかったです。胸むねの肉にくが縮まるちぢまるほど怖かっこわかったです。けれども御ご話はなしを聞いきいてすべてが明白めいはくになったら、かえって安心あんしんして気きが楽らくになりました。もう怖いこわい事ことも不安ふあんな事こともありません。その代りかわり何なんだか急きゅうに心細くこころぼそくなりました。淋しいさびしいです。世の中よのなかにたった一人ひとり立ったっているような気きがします」「だって御ご母さんははさんは元もとの通りとおりの御ご母さんははさんなんだよ。おれだって今までいままでのおれだよ。誰だれも御前ごぜんに対したいして変るかわるものはありゃしないんだよ。神経しんけいを起しおこしちゃいけない」「神経しんけいは起さおこさなくっても淋しいさびしいんだから仕方しかたがありません。僕ぼくはこれから宅たくへ帰っかえって母ははの顔かおを見るみるときっと泣くなくにきまっています。今いまからその時じの涙なみだを予想よそうしても淋しくさびしくってたまりません」「御ご母さんははさんには黙っだまっている方ほうがよかろう」「無論むろん話しゃはなしゃしません。話しはなしたら母ははがどんな苦しいくるしい顔かおをするか分りわかりません」 二人ふたりは黙然もくぜんとして相対そうたいした。
僕ぼくは手持無沙汰てもちむさたに煙草盆たばこぼんの灰吹はいふきを叩いたたいた。
市し蔵くらはうつむいて袴はかまの膝ひざを見つめみつめていた。
やがて彼かれは淋しいさびしい顔かおを上げあげた。
「もう一いちつ伺っうかがっておきたい事ことがありますが、聞いきいて下さいくださいますか」「おれの知っしっている事ことなら何なんでも話しはなして上げるあげる」「僕ぼくを生んうんだ母ははは今いまどこにいるんです」 彼かれの実じつの母ははは、彼かれを生むうむと間まもなく死んしんでしまったのである。
それは産後さんごの肥こえ立たてが悪かっわるかったせいだとも云いいい、または別べつの病やまいだとも聞いきいているが、これも詳しいくわしい話はなしをしてやるほどの材料ざいりょうに欠乏けつぼうした僕ぼくの記憶きおくでは、とうてい餓えうえた彼かれの眼めを静めるしずめるに足りたりなかった。
彼かれの生母せいぼの最後さいごの運命うんめいに関するかんする僕ぼくの話はなしは、わずか二三にさん分ぶんで尽きつきてしまった。
彼かれは遺憾いかんな顔かおをして彼女かのじょの名前なまえを聞いきいた。
幸みゆきにして僕ぼくは御ご弓ゆみという古風こふうな名なを忘れわすれずにいた。
彼かれは次つぎに死んしんだ時じの彼女かのじょの年齢ねんれいを問うとうた。
僕ぼくはその点てんに関しかんして、何なんという確としかとした知識ちしきを有っあっていなかった。
彼かれは最後さいごに、彼かれの宅たくに奉公ほうこうしていた時分じぶんの彼女かのじょに会っかいった事ことがあるかと尋ねたずねた。
僕ぼくはあると答えこたえた。
彼かれはどんな女おんなだと聞き返しききかえした。
気の毒きのどくにも僕ぼくの記憶きおくはすこぶる朦朧もうろうとしていた。
事実じじつ僕ぼくはその当時とうじ十じゅう五ご六ろくの少年しょうねんに過ぎすぎなかったのである。
「何なんでも島田しまだに結っけつってた事ことがある」 このくらいよりほかに要領ようりょうを得とくた返事へんじは一いちつもできないので、僕ぼくもはなはだ残念ざんねんに思っおもった。
市し蔵くらはようやく諦たいらめたという眼つきめつきをして、一番いちばんしまいに、「じゃせめて寺てらだけ教えおしえてくれませんか。母ははがどこへ埋っうまっているんだか、それだけでも知っしっておきたいと思いおもいますから」と云っいった。
けれども御ご弓ゆみの菩提所ぼだいしょを僕ぼくが知ろうしろうはずがなかった。
僕ぼくは呻吟しんぎんしながら、已を得とくなければ姉あねに聞くきくよりほかに仕方しかたあるまいと答えこたえた。
「御ご母さんははさんよりほかに知っしってるものは無いないでしょうか」「まああるまいね」「じゃ分らわからないでもよござんす」 僕ぼくは市し蔵くらに対したいして気の毒きのどくなようなまたすまないような心持こころもちがした。
彼かれはしばらく庭にわの方ほうを向いむかいて、麗かうららかな日脚ひあしの中なかに咲くさく大きなおおきな椿つばきを眺めながめていたが、やがて視線しせんをもとに戻しもどした。
「御ご母さんははさんが是非ぜひ千代ちよちゃんを貰えもらえというのも、やっぱり血統けっとう上うえの考えかんがえから、身み縁えんのものを僕ぼくの嫁よめにしたいという意味いみなんでしょうね」「全くまったくそこだ。ほかに何になんにもないんだ」 市蔵いちぞうはそれでは貰おうもらおうとも云わいわなかった。
僕ぼくもそれなら貰うもらうかとも聞かきかなかった。
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