七
第 7 章
森本は近頃身体のために酒を慎しんでいると断わりながら、注いでやりさえすれば、すぐ猪口を空にした。
しまいにはもう止しましょうという口の下から、自分で徳利の尻を持ち上げた。
彼は平生から閑静なうちにどこか気楽な風を帯びている男であったが、猪口を重ねるにつれて、その閑静が熱ってくる、気楽はしだいしだいに膨脹するように見えた。
自分でも「こうなりゃ併呑自若たるもんだ。明日免職になったって驚ろくんじゃない」と威張り出した。
敬太郎が飲めない口なので、時々思い出すように、盃に唇を付けて、付合っているのを見て、彼は、「田川さん、あなた本当に飲けないんですか、不思議ですね。酒を飲まない癖に冒険を愛するなんて。あらゆる冒険は酒に始まるんです。そうして女に終るんです」と云った。
彼はつい今まで自分の過去を碌でなしのように蹴なしていたのに、酔ったら急に模様が変って、後光が逆に射すとでも評すべき態度で、気※を吐き始めた。
そうしてそれが大抵は失敗の気※であった。
しかも敬太郎を前に置いて、「あなたなんざあ、失礼ながら、まだ学校を出たばかりで本当の世の中は御存じないんだからね。いくら学士でございの、博士で候のって、肩書ばかり振り廻したって、僕は慴えないつもりだ。こっちゃちゃんと実地を踏んで来ているんだもの」と、さっきまで教育に対して多大の尊敬を払っていた事はまるで忘れたような風で、無遠慮なきめつけ方をした。
そうかと思うと噫のような溜息を洩らして自分の無学をさも情なさそうに恨んだ。
「まあ手っ取り早く云やあ、この世の中を猿同然渡って来たんでさあ。こう申しちゃおかしいが、あなたより十層倍の経験はたしかに積んでるつもりです。それでいて、いまだにこの通り解脱ができないのは、全く無学すなわち学がないからです。もっとも教育があっちゃ、こうむやみやたらと変化する訳にも行かないようなもんかも知れませんよ」 敬太郎はさっきから気の毒なる先覚者とでも云ったように相手を考えて、その云う事に相応の注意を払って聞いていたが、なまじい酒を飲ましたためか、今日はいつもより気※だの愚痴だのが多くって、例のように純粋の興味が湧かないのを残念に思った。
好い加減に酒を切り上げて見たが、やっぱり物足らなかった。
それで新らしく入れた茶を勧めながら、「あなたの経歴談はいつ聞いても面白い。そればかりでなく、僕のような世間見ずは、御話を伺うたんびに利益を得ると思って感謝しているんだが、あなたが今までやって来た生活のうちで、最も愉快だったのは何ですか」と聞いて見た。
森本は熱い茶を吹き吹き、少し充血した眼を二三度ぱちつかせて黙っていた。
やがて深い湯呑を干してしまうとこう云った。
「そうですね。やった後で考えると、みんな面白いし、またみんなつまらないし、自分じゃちょっと見分がつかないんだが。――全体愉快ってえのは、その、女気のある方を指すんですか」「そう云う訳でもないんですが、あったって差支ありません」「なんて、実はそっちの方が聞きたいんでしょう。――しかし雑談抜きでね、田川さん。面白い面白くないはさておいて、あれほど呑気な生活は世界にまたとなかろうという奴をやった覚があるんですよ。そいつを一つ話しましょうか、御茶受の代りに」 敬太郎は一も二もなく所望した。
森本は「じゃあちょっと小便をして来る」と云って立ちかけたが、「その代り断わっておくが女気はありませんよ。女気どころか、第一人間の気がないんだもの」と念を押して廊下の外へ出て行った。
敬太郎は一種の好奇心を抱いて、彼の帰るのを待ち受けた。