一
第 11 章
敬太郎に須永という友達があった。
これは軍人の子でありながら軍人が大嫌で、法律を修めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義の男であった。
少くとも敬太郎にはそう見えた。
もっとも父はよほど以前に死んだとかで、今では母とたった二人ぎり、淋しいような、また床しいような生活を送っている。
父は主計官としてだいぶ好い地位にまで昇った上、元来が貨殖の道に明らかな人であっただけ、今では母子共衣食の上に不安の憂を知らない好い身分である。
彼の退嬰主義も半ばはこの安泰な境遇に慣れて、奮闘の刺戟を失った結果とも見られる。
というものは、父が比較的立派な地位にいたせいか、彼には世間体の好いばかりでなく、実際ためになる親類があって、いくらでも出世の世話をしてやろうというのに、彼は何だかだと手前勝手ばかり並べて、今もってぐずぐずしているのを見ても分る。
「そう贅沢ばかり云ってちゃもったいない。厭なら僕に譲るがいい」と敬太郎は冗談半分に須永を強請ることもあった。
すると須永は淋しそうなまた気の毒そうな微笑を洩らして、「だって君じゃいけないんだから仕方がないよ」と断るのが常であった。
断られる敬太郎は冗談にせよ好い心持はしなかった。
おれはおれでどうかするという気概も起して見た。
けれども根が執念深くない性質だから、これしきの事で須永に対する反抗心などが永く続きようはずがなかった。
その上身分が定まらないので、気の落ちつく背景を有たない彼は、朝から晩まで下宿の一と間にじっと坐っている苦痛に堪えなかった。
用がなくっても半日は是非出て歩るいた。
そうしてよく須永の家を訪問れた。
一つはいつ行っても大抵留守の事がないので、行く敬太郎の方でも張合があったのかも知れない。
「糊口も糊口だが、糊口より先に、何か驚嘆に価する事件に会いたいと思ってるが、いくら電車に乗って方々歩いても全く駄目だね。攫徒にさえ会わない」などと云うかと思うと、「君、教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の束縛だね。いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。それじゃ位地はどうでもいいから思う存分勝手な真似をして構わないかというと、やっぱり構うからね。厭に人を束縛するよ教育が」と忌々しそうに嘆息する事がある。
須永は敬太郎のいずれの不平に対しても余り同情がないらしかった。
第一彼の態度からしてが本当に真面目なのだか、またはただ空焦燥に焦燥いでいるのか見分がつかなかったのだろう。
ある時須永はあまり敬太郎がこういうような浮ずった事ばかり言い募るので、「それじゃ君はどんな事がして見たいのだ。衣食問題は別として」と聞いた。
敬太郎は警視庁の探偵見たような事がして見たいと答えた。
「じゃするが好いじゃないか、訳ないこった」「ところがそうは行かない」 敬太郎は本気になぜ自分に探偵ができないかという理由を述べた。
元来探偵なるものは世間の表面から底へ潜る社会の潜水夫のようなものだから、これほど人間の不思議を攫んだ職業はたんとあるまい。
それに彼らの立場は、ただ他の暗黒面を観察するだけで、自分と堕落してかかる危険性を帯びる必要がないから、なおの事都合がいいには相違ないが、いかんせんその目的がすでに罪悪の暴露にあるのだから、あらかじめ人を陥れようとする成心の上に打ち立てられた職業である。
そんな人の悪い事は自分にはできない。
自分はただ人間の研究者否人間の異常なる機関が暗い闇夜に運転する有様を、驚嘆の念をもって眺めていたい。
――こういうのが敬太郎の主意であった。
須永は逆わずに聞いていたが、これという批判の言葉も放たなかった。
それが敬太郎には老成と見えながらその実平凡なのだとしか受取れなかった。
しかも自分を相手にしないような落ちつき払った風のあるのを悪く思って別れた。
けれども五日と経たないうちにまた須永の宅へ行きたくなって、表へ出ると直神田行の電車に乗った。