彼岸過迄

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八

第 56 章
若葉わかばの時節じせつが過ぎすぎて、湯上りゆあがりの単衣ひとえの胸むねに、団扇うちわの風かぜを入れいれたく思うおもうある日ひ、市し蔵くらがまたふらりとやって来きた。
彼かれの顔かおを見るみるや否いなや僕ぼくが第だい一いちにかけた言葉ことばは、試験しけんはどうだったいという一いち語ごであった。
彼かれは昨日きのうようやくすんだと答えこたえた。
そうして明日あすからちょっと旅行りょこうして来るくるつもりだから暇乞いとまごいに来きたと告げつげた。
僕ぼくは成績せいせきもまだ分らわからないのに、遠くとおく走るはしる彼かれの心理状態しんりじょうたいを疑っうたがってまた多少たしょうの不安ふあんを感じかんじた。
彼かれは京都きょうと附近ふきんから須磨すま明石あかしを経きょうて、ことに因るよると、広島ひろしま辺へんまで行きいきたいという希望きぼうを述べのべた。
僕ぼくはその旅行りょこうの比較的ひかくてき大袈裟おおげさなのに驚ろいおどろいた。
及第きゅうだいとさえきまっていればそれでも好かろうよかろうがと間接かんせつに不賛成ふさんせいの意いを仄めかしほのめかして見るみると、彼かれは試験しけんの結果けっかなどには存外ぞんがい冷淡れいたんな挨拶あいさつをした。
そんな事ことに気きを遣うつかう叔父おじさんこそ平生へいぜいにも似合わにあわしからんじゃありませんかと云っいって、ほとんど相手あいてにならなかった。
話しはなしているうちに、僕ぼくは彼かれの思いおもい立たてが及落きゅうらくの成績せいせきに関係かんけいのない別べつ方面ほうめんの動機どうきから萌しきざしているという事ことを発見はっけんした。
「実じつはあの事件じけん以来いらい妙みょうに頭あたまを使うつかうので、近頃ちかごろでは落ちついおちついて書斎しょさいに坐っすわっている事ことが困難こんなんになりましてね。どうしても旅行りょこうが必要ひつようなんですから、まあ試験しけんを中途ちゅうとで已めやめなかったのが感心かんしんだぐらいに賞めほめて許しゆるして下さいください」「そりゃ御前ごぜんの金きんで御前ごぜんの行きいきたい所ところへ行くいくのだから少しすこしも差支さしつかえはないさ。考えかんがえて見れみれば少しすこしは飛び歩いとびあるいて気きを換えるかえるのも好かろうよかろう。行っいって来るくるがいい」「ええ」と云っいって市し蔵くらはやや満足まんぞくらしい顔かおをしたが、「実じつは大きなおおきな声こえで話すはなすのも気の毒きのどくでもったいないんですが、叔父おじさんにあの話はなしを聞いきいてから以後いごは、母ははの顔かおを見るみるたんびに、変へんな心持こころもちになってたまらないんです」とつけ足しつけたした。
「不愉快ふゆかいになるのか」と僕ぼくはむしろ厳かおごそかに聞いきいた。
「いいえ、ただ気の毒きのどくなんです。始めはじめは淋しくさびしくって仕方しかたがなかったのが、だんだんだんだん気の毒きのどくに変化へんかして来きたのです。実じつはここだけの話はなしですけれども、近頃ちかごろでは母ははの顔かおを朝夕あさゆう見るみるのが苦痛くつうなんです。今度こんどの旅行りょこうだって、かねてから卒業そつぎょうしたら母ははに京きょう大阪おおさかと宮島みやじまを見物けんぶつさせてやりたいと思っおもっていたのだから、昔むかしの僕ぼくなら供ともをする気きで留守るすを叔父おじさんにでも頼みたのみに出かけでかけて来るくるところなんですが、今いま云っいったような訳わけで、関係かんけいがまるで逆ぎゃくになったもんだから、少しすこしでも母ははの傍そばを離れはなれたらという気きばかりして」「困るこまるね、そう変へんになっちゃあ」「僕ぼくは離れはなれたらまたきっと母ははが恋しくこいしくなるだろうと思うおもうんですが、どうでしょう。そう旨くうまくはいかないもんでしょうか」 市蔵いちぞうはさも懸念けねんらしくこういう問もんをかけた。
彼かれより経験けいけんに富んとんだ年長者ねんちょうしゃをもって自任じにんする僕ぼくにも、この点てんに関するかんする彼かれの未来みらいはほとんど想像そうぞうできなかった。
僕ぼくはただ自分じぶんに信念しんねんがなくって、わが心こころの事ことを他ほかに尋ねたずねて安心あんしんしたいと願うねがう彼かれの胸むねの裏うらを憐れあわれに思っおもった。
上部じょうぶはいかにも優しやさしそうに見えみえて、実際じっさいは極めてきわめて意地いじの強くつよくでき上っできあがった彼かれが、こんな弱いよわい音おとを出すだすのは、ほとんど例れいのない事ことだったからである。
僕ぼくは僕ぼくの力ちからの及ぶおよぶ限りかぎり彼かれの心こころに保証ほしょうを与えあたえた。
「そんな心配しんぱいはするだけ損そんだよ。おれが受合っうけあってやる。大丈夫だいじょうぶだから遊んあそんで来るくるが好いよい。御前ごぜんの御ご母さんははさんはおれの姉あねだ。しかもおれよりも学問がくもんをしないだけに、よほど純良じゅんりょうにできている、誰だれからも敬愛けいあいされべき婦人ふじんだ。あの姉あねと君きみのような情愛じょうあいのある子こがどうして離れはなれっ切りっきりに離れはなれられるものか。大丈夫だいじょうぶだから安心あんしんするが好いよい」 市蔵いちぞうは僕ぼくの言葉ことばを聞いきいて実際じっさい安心あんしんしたらしく見えみえた。
僕ぼくもやや安心あんしんした。
けれども一方いっぽうでは、このくらい根ねのない慰藉いしゃの言葉ことばが、明晰めいせきな頭脳ずのうを有っあった市し蔵くらに、これほどの影響えいきょうを与えあたえたとすれば、それは彼かれの神経しんけいがどこか調子ちょうしを失なっうしなっているためではなかろうかという疑ぎも起っおこった。
僕ぼくは突然とつぜん極端きょくたんの出来事できごとを予想よそうして、一いち人身じんしんの旅行りょこうを危ぶみあやぶみ始めはじめた。
「おれもいっしょに行こういこうか」「叔父おじさんといっしょじゃ」と市蔵いちぞうが苦笑くしょうした。
「いけないかい」「平生へいぜいならこっちから誘っさそっても行っいって貰いもらいたいんだが、何しろなにしろいつどこへ立つたつんだか分らわからない、云わいわば気きの向きむきしだい予定よていの狂うくるう旅行りょこうだから御ご気の毒きのどくでね。それに僕ぼくの方ほうでもあなたがいると束縛そくばくがあって面白くおもしろくないから……」「じゃ止そうよそう」と僕ぼくはすぐ申し出もうしでを撤回てっかいした。
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