彼岸過迄

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四

第 52 章
「おれは御前ごぜんの叔父おじだよ。どこの国くにに甥おいを憎むにくむ叔父おじがあるかい」 市蔵いちぞうはこの言葉ことばを聞くきくや否いなやたちまち薄いうすい唇くちびるを反らしそらして淋しくさびしく笑っわらった。
僕ぼくはその淋しみさびしみの裏うらに、奥深いおくぶかい軽侮けいぶの色いろを透しとおし見みた。
自白じはくするが、彼かれは理解りかいの上うえにおいて僕ぼくよりも優れすぐれた頭あたまの所有者しょゆうしゃである。
僕ぼくは百ひゃくもそれを承知しょうちでいた。
だから彼かれと接触せっしょくするときには、彼かれから馬鹿ばかにされるような愚ぐをなるべく慎んつつしんで外そとに出さださない用心ようじんを怠らおこたらなかった。
けれども時々ときどきは、つい年長者ねんちょうしゃの傲るおごる心こころから、親しみしたしみの強いつよい彼かれを眼下がんかに見下しみくだして、浅薄せんぱくと心付こころづけながら、その場ば限りかぎりの無意味むいみにもったいをつけた訓戒くんかいなどを与えるあたえる折おりも無いないではなかった。
賢こいかしこい彼かれは僕ぼくに恥はじを掻かかかせるために、自分じぶんの優越ゆうえつを利用りようするほど、品位ひんいを欠いかいた所作しょさをあえてし得とくないのではあるが、僕ぼくの方ほうではその都度つど彼かれに対するたいするこっちの相場そうばが下落げらくして行くいくような屈辱くつじょくを感ずるかんずるのが例れいであった。
僕ぼくはすぐ自分じぶんの言葉ことばを訂正ていせいしにかかった。
「そりゃ広いひろい世の中よのなかだから、敵てき同志どうしの親子おやこもあるだろうし、命いのちを危きめ合うあう夫婦ふうふもいないとは限らかぎらないさ。しかしまあ一般いっぱんに云えいえば、兄弟きょうだいとか叔父おじ甥おいとかの名なで繋がっつながっている以上いじょうは、繋がっつながっているだけの親しみしたしみはどこかにあろうじゃないか。御前ごぜんは相応そうおうの教育きょういくもあり、相応そうおうの頭あたまもある癖くせに、何なんだか妙みょうに一種いっしゅの僻みひがみがあるよ。それが御前ごぜんの弱点じゃくてんだ。是非ぜひ直さなおさなくっちゃいけない。傍そばから見みていても不愉快ふゆかいだ」「だから叔父おじさんまで嫌っいやっていると云ういうのです」 僕ぼくは返事へんじに窮しきゅうした。
自分じぶんで気きのつかない自分じぶんの矛盾むじゅんを今市いまいち蔵くらから指摘してきされたような心持こころもちもした。
「僻みひがみさえさらりと棄てすててしまえば何なんでもないじゃないか」と僕ぼくはさも事こともなげに云っいって退けしりぞけた。
「僕ぼくに僻があるでしょうか」と市し蔵くらは落ちついおちついて聞いきいた。
「あるよ」と僕ぼくは考えかんがえずに答えこたえた。
「どういうところが僻んひがんでいるでしょう。判然はんぜん聞かしきかして下さいください」「どういうところがって、――あるよ。あるからあると云ういうんだよ」「じゃそういう弱点じゃくてんがあるとして、その弱点じゃくてんはどこから出でたんでしょう」「そりゃ自分じぶんの事ことだから、少しすこし自分じぶんで考えかんがえて見みたらよかろう」「あなたは不親切ふしんせつだ」と市蔵いちぞうが思い切っおもいきった沈痛ちんつうな調子ちょうしで云っいった。
僕ぼくはまずその調子ちょうしに度どを失っうしなった。
次つぎに彼かれの眼めの色いろを見みて萎縮いしゅくした。
その眼めはいかにも恨めしうらめしそうに僕ぼくの顔かおを見つめみつめていた。
僕ぼくは彼かれの前まえに一言ひとことの挨拶あいさつさえする勇気ゆうきを振い起しふるいおこし得とくなかった。
「僕ぼくはあなたに云わいわれない先さきから考えかんがえていたのです。おっしゃるまでもなく自分じぶんの事ことだから考えかんがえていたのです。誰だれも教えおしえてくれ手くれてがないから独りひとりで考えかんがえていたのです。僕ぼくは毎日まいにち毎夜まいよ考えかんがえました。余りあまり考えかんがえ過ぎすぎて頭あたまも身体しんたいも続かつづかなくなるまで考えかんがえたのです。それでも分らわからないからあなたに聞いきいたのです。あなたは自分じぶんから僕ぼくの叔父おじだと明言めいげんしていらっしゃる。それで叔父おじだから他人たにんより親切しんせつだと云わいわれる。しかし今いまの御ご言葉ことばはあなたの口くちから出でたにもかかわらず、他人たにんより冷れい刻こくなものとしか僕ぼくには聞こえきこえませんでした」 僕ぼくは頬ほおを伝わっつたわって流れるながれる彼かれの涙なみだを見みた。
幼少ようしょうの時じから馴染んなじんで今日きょうに及んおよんだ彼かれと僕ぼくとの間まに、こんな光景こうけいはいまだかつて一回いちかいも起らおこらなかった事ことを僕ぼくは君きみに明言めいげんしておきたい。
したがってこの昂奮こうふんした青年せいねんをどう取り扱っとりあつかっていいかの心得こころえが、僕ぼくにまるで無かっなかった事こともついでに断っことわっておきたい。
僕ぼくはただ茫然ぼうぜんとして手てを拱ぬいていた。
市し蔵くらはまた僕ぼくの態度たいどなどを眼中がんちゅうにおいて、自分じぶんの言葉ことばを調節ちょうせつする余裕よゆうを有ゆうたなかった。
「僕ぼくは僻んひがんでいるでしょうか。たしかに僻んひがんでいるでしょう。あなたがおっしゃらないでも、よく知っしっているつもりです。僕ぼくは僻んひがんでいます。僕ぼくはあなたからそんな注意ちゅういを受けうけないでも、よく知っしっています。僕ぼくはただどうしてこうなったかその訳わけが知りしりたいのです。いいえ母ははでも、田口たぐちの叔母おばでも、あなたでも、みんなよくその訳わけを知っしっているのです。ただ僕ぼくだけが知らしらないのです。ただ僕ぼくだけに知らしらせないのです。僕ぼくは世の中よのなかの人間にんげんの中なかであなたを一番いちばん信用しんようしているから聞いきいたのです。あなたはそれを残酷ざんこくに拒絶きょぜつした。僕ぼくはこれから生涯しょうがいの敵てきとしてあなたを呪いのろいます」 市蔵いちぞうは立ち上ったちのぼった。
僕ぼくはそのとっさの際さいに決心けっしんをした。
そうして彼かれを呼びとめよびとめた。
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