十
第 20 章
彼はこの日必要な会見を都合よく済ました後、新らしく築地に世帯を持った友人の所へ廻って、須永と彼の従妹とそれから彼の叔父に当る田口とを想像の糸で巧みに継ぎ合せつつある一部始終を御馳走に、晩まで話し込む気でいたのである。
けれども田口の門を出て日比谷公園の傍に立った彼の頭には、そんな余裕はさらになかった。
後姿を見ただけではあるが、在所をすでに突き留めて、今その人の家を尋ねたのだという陽気な心持は固よりなかった。
位置を求めにここまで来たという自覚はなおなかった。
彼はただ屈辱を感じた結果として、腹を立てていただけである。
そうして自分を田口のような男に紹介した須永こそこの取扱に対して当然責任を負わなくてはならないと感じていた。
彼は帰りがけに須永の所へ寄って、逐一顛末を話した上、存分文句を並べてやろうと考えた。
それでまた電車に乗って一直線に小川町まで引返して来た。
時計を見ると、二時にはまだ二十分ほど間があった。
須永の家の前へ来て、わざと往来から須永須永と二声ばかり呼んで見たが、いるのかいないのか二階の障子は立て切ったままついに開かなかった。
もっとも彼は体裁家で、平生からこういう呼び出し方を田舎者らしいといって厭がっていたのだから、聞こえても知らん顔をしているのではなかろうかと思って、敬太郎は正式に玄関の格子口へかかった。
けれども取次に出た仲働の口から「午少し過に御出ましになりました」という言葉を聞いた時は、ちょっと張合が抜けて少しの間黙って立っていた。
「風邪を引いていたようでしたが」「はい、御風邪を召していらっしゃいましたが、今日はだいぶ好いからとおっしゃって、御出かけになりました」 敬太郎は帰ろうとした。
仲働は「ちょっと御隠居さまに申し上げますから」といって、敬太郎を格子のうちに待たしたまま奥へ這入った。
と思うと襖の陰から須永の母の姿が現われた。
背の高い面長の下町風に品のある婦人であった。
「さあどうぞ。もうそのうち帰りましょうから」 須永の母にこう云い出されたが最後、江戸慣れない敬太郎はどうそれを断って外へ出ていいか、いまだにその心得がなかった。
第一どこで断る隙間もないように、調子の好い文句がそれからそれへとずるずる彼の耳へ響いて来るのである。
それが世間体の好い御世辞と違って、引き留められているうちに、上っては迷惑だろうという遠慮がいつの間にか失くなって、つい気の毒だから少し話して行こうという気になるのである。
敬太郎は云われるままにとうとう例の書斎へ腰をおろした。
須永の母が御寒いでしょうと云って、仕切りの唐紙を締めてくれたり、さあ御手をお出しなさいと云って、佐倉を埋けた火鉢を勧めてくれたりするうちに、一時昂奮した彼の気分はしだいに落ちついて来た。
彼はシキとかいう白い絹へ秋田蕗を一面に大きく摺った襖の模様だの、唐桑らしくてらてらした黄色い手焙だのを眺めて、このしとやかで能弁な、人を外す事を知らないと云った風の母と話をした。
彼女の語るところによると、須永は今日矢来の叔父の家へ行ったのだそうである。
「じゃついでだから帰りに小日向へ廻って御寺参りをして来ておくれって申しましたら、御母さんは近頃無精になったようですね、この間も他に代理をさせたじゃありませんか、年を取ったせいかしらなんて悪口を云い云い出て参りましたが、あれもねあなた、せんだって中から風邪を引いて咽喉を痛めておりますので、今日も何なら止した方がいいじゃないかととめて見ましたが、やっぱり若いものは用心深いようでもどこか我無しゃらで、年寄の云う事などにはいっさい無頓着でございますから……」 須永の留守へ行くと、彼の母は唯一の楽みのようにこういう調子で伜の話をするのが常であった。
敬太郎の方で須永の評判でも持ち出そうものなら、いつまででもその問題の後へ喰付いて来て、容易に話頭を改めないのが例になっていた。
敬太郎もそれにはだいぶ慣れているから、この際も向うのいう通りをただふんふんとおとなしく聞いて、一段落の来るのを待っていた。
十一
そのうち話がいつか肝心の須永を逸れて、矢来の叔父という人の方へ移って行った。
これは内幸町と違って、この御母さんの実の弟に当る男だそうで、一種の贅沢屋のように敬太郎は須永から聞いていた。
外套の裏は繻子でなくては見っともなくて着られないと云ったり、要りもしないのに古渡りの更紗玉とか号して、石だか珊瑚だか分らないものを愛玩したりする話はいまだに覚えていた。
「何にもしないで贅沢に遊んでいられるくらい好い事はないんだから、結構な御身分ですね」と敬太郎が云うのを引き取るように母は、「どうしてあなた、打ち明けた御話が、まあどうにかこうにかやって行けるというまでで、楽だの贅沢だのという段にはまだなかなかなのでございますからいけません」と打ち消した。
須永の親戚に当る人の財力が、さほど敬太郎に関係のある訳でもないので、彼はそれなり黙ってしまった。
すると母は少しでも談話の途切れるのを自分の過失ででもあるように、すぐ言葉を継いだ。
「それでも妹婿の方は御蔭さまで、何だかだって方々の会社へ首を突っ込んでおりますから、この方はまあ不自由なく暮しておる模様でございますが、手前共や矢来の弟などになりますと、云わば、浪人同様で、昔に比べたら、尾羽うち枯らさないばかりの体たらくだって、よく弟ともそう申しては笑うこってございますよ」 敬太郎は何となく自分の身の上を顧みて気恥かしい思をした。
幸にさきがすらすら喋舌ってくれるので、こっちに受け答をする文句を考える必要がないのをせめてもの得として聞き続けた。
「それにね、御承知の通り市蔵がああいう引っ込思案の男だもんでござんすから、私もただ学校を卒業させただけでは、全く心配が抜けませんので、まことに困り切ります。早く気に入った嫁でも貰って、年寄に安心でもさせてくれるようにおしなと申しますと、そう御母さんの都合のいいようにばかり世の中は行きゃしませんて、てんで相手にしないんでございますよ。そんなら世話をしてくれる人に頼んで、どこへでもいいから、務にでも出る気になればまだしも、そんな事にはまたまるで無頓着であなた……」 敬太郎はこの点において実際須永が横着過ると平生から思っていた。
「余計な事ですが、少し目上の人から意見でもして上げるようにしたらどうでしょう。今御話の矢来の叔父さんからでも」と全く年寄に同情する気で云った。
「ところがこれがまた大の交際嫌の変人でございまして、忠告どころか、何だ銀行へ這入って算盤なんかパチパチ云わすなんて馬鹿があるもんかと、こうでございますから頭から相談にも何にもなりません。それをまた市蔵が嬉しがりますので。矢来の叔父の方が好きだとか気が合うとか申しちゃよく出かけます。今日なども日曜じゃあるし御天気は好しするから、内幸町の叔父が大阪へ立つ前にちょっとあちらへ顔でも出せばいいのでございますけれども、やっぱり矢来へ行くんだって、とうとう自分の好きな方へ参りました」 敬太郎はこの時自分が今日何のために馳け込むようにこの家を襲ったかの原因について、また新らしく考え出した。
彼は須永の顔を見たら随分過激な言葉を使ってもその不都合を責めた上、僕はもう二度とあすこの門は潜らないつもりだから、そう思ってくれたまえぐらいの台詞を云って帰る気でいたのに、肝心の須永は留守で、事情も何も知らない彼の母から、逆さにいろいろな話をしかけられたので、怒ってやろうという気は無論抜けてしまったのである。
が、それでも行きがかり上、田口と会見を遂げ得なかった顛末だけは、一応この母の耳へでも構わないから入れておく必要があるだろう。
それには話の中に内幸町へ行くとか行かないとかが問題になっている今が一番よかろう。
――こう敬太郎は思った。
十二
「実はその内幸町の方へ今日私も出たんですが」と云い出すと、自分の息子の事ばかり考えていた母は、「おやそうでございましたか」とやっと気がついてすまないという顔つきをした。
この間から敬太郎が躍起になって口を探している事や、探しあぐんで須永に紹介を頼んだ事や、須永がそれを引き受けて内幸町の叔父に会えるように周旋した事は、須永の傍にいる母として彼女のことごとく見たり聞いたりしたところであるから、行き届いた人なら先方で何も云い出さない前に、こっちからどんな模様ですぐらいは聞いてやるべきだとでも思ったのだろう。
こう観察した敬太郎は、この一句を前置に、今までの成行を残らず話そうと力めにかかったが、時々相手から「そうでございますとも」とか、「本当にまあ、間の悪い時にはね」とか、どっちにも同情したような間投詞が出るので、自分がむかっ腹を立てて悪体を吐いた事などは話のうちから綺麗に抜いてしまった。
須永の母は気の毒という言葉を何遍もくり返した後で、田口を弁護するようにこんな事を云った。
――「そりゃあ実のところ忙しい男なので。妹などもああして一つ家に住んでおりますようなものの、――何でごさんしょう。――落々話のできるのはおそらく一週間に一日もございますまい。私が見かねて要作さんいくら御金が儲かるたって、そう働らいて身体を壊しちゃ何にもならないから、たまには骨休めをなさいよ、身体が資本じゃありませんかと申しますと、おいらもそう思ってるんだが、それからそれへと用が湧いてくるんで、傍から掬くい出さないと、用が腐っちまうから仕方がないなんて笑って取り合いませんので。そうかと思うとまた妹や娘に今日はこれから鎌倉へ伴れて行く、さあすぐ支度をしろって、まるで足元から鳥が立つように急き立てる事もございますが……」「御嬢さんがおありなのですか」「ええ二人おります。いずれも年頃でございますから、もうそろそろどこかへ片づけるとか婿を取るとかしなければなりますまいが」「そのうちの一人の方が、須永君のところへ御出になる訳でもないんですか」 母はちょっと口籠った。
敬太郎もただ自分の好奇心を満足させるためにあまり立ち入った質問をかけ過ぎたと気がついた。
何とかして話題を転じようと考えているうちに、相手の方で、「まあどうなりますか。親達の考もございましょうし。当人達の存じ寄りもしかと聞糺して見ないと分りませんし。私ばかりでこうもしたい、ああもしたいといくら熱急思ってもこればかりは致し方がございません」と何だか意味のありそうな事を云った。
一度退きかけた敬太郎の好奇心はこの答でまた打ち返して来そうにしたが、善くないという克己心にすぐ抑えられた。
母はなお田口の弁護をした。
そんな忙がしい身体だから、時によると心にもない約束違いなどをする事もあるが、いったん引き受けた以上は忘れる男ではないから、まあ旅行から帰るまで待って、緩くり会ったら宜かろうという注意とも慰藉ともつかない助言も与えた。
「矢来のはおっても会わん方で、これは仕方がございませんが、内幸町のはいないでも都合さえつけば馳けて帰って来て会うといった風の性質でございますから、今度旅行から帰って来さえすれば、こっちから何とも云ってやらないでも、向うできっと市蔵のところへ何とか申して参りますよ。きっと」 こう云われて見ると、なるほどそういう人らしいが、それはこっちがおとなしくしていればこそで、先刻のようにぷんぷん怒ってはとうてい物にならないにきまり切っている。
しかし今更それを打ち明ける訳には行かないので、敬太郎はただ黙っていた。
須永の母はなお「あんな顔はしておりますが、見かけによらない実意のある剽軽者でございますから」と云って一人で笑った。
十三
剽軽者という言葉は田口の風采なり態度なりに照り合わせて見て、どうも敬太郎の腑に落ちない形容であった。
しかし実際を聞いて見ると、なるほど当っているところもあるように思われた。
田口は昔しある御茶屋へ行って、姉さんこの電気灯は熱り過ぎるね、もう少し暗くしておくれと頼んだ事があるそうだ。
下女が怪訝な顔をして小さい球と取り換えましょうかと聞くと、いいえさ、そこをちょいと捻って暗くするんだと真面目に云いつけるので、下女はこれは電気灯のない田舎から出て来た人に違ないと見て取ったものか、くすくす笑いながら、旦那電気はランプと違って捻ったって暗くはなりませんよ、消えちまうだけですから。
ほらねとぱちッと音をさせて座敷を真暗にした上、またぱっと元通りに明るくするかと思うと、大きな声でばあと云った。
田口は少しも悄然ずに、おやおやまだ旧式を使ってるね。
見っともないじゃないか、ここの家にも似合わないこった。
早く会社の方へ改良を申し込んでおくといい。
順番に直してくれるから。
とさももっともらしい忠告を与えたので、下女もとうとう真に受け出して、本当にこれじゃ不便ね、だいち点けっ放しで寝る時なんか明る過ぎて、困る人が多いでしょうからとさも感心したらしく、改良に賛成したそうである。
ある時用事が出来て門司とか馬関とかまで行った時の話はこれよりもよほど念が入っている。
いっしょに行くべきはずのAという男に差支が起って、二日ばかり彼は宿屋で待ち合わしていた。
その間の退屈紛れに、彼はAを一つ担いでやろうと巧らんだ。
これは町を歩いている時、一軒の写真屋の店先でふと思いついた悪戯で、彼はその店から地方の芸者の写真を一枚買ったのである。
その裏へA様と書いて、手紙を添えた贈物のように拵えた。
その手紙は女を一人雇って、充分の時間を与えた上、できるだけAの心を動かすように艶めかしく曲らしたもので、誰が貰っても嬉しい顔をするに足るばかりか、今日の新聞を見たら、明日ここへ御着のはずだと出ていたので、久しぶりにこの手紙を上げるんだから、どうか読みしだい、どこそこまで来ていただきたいと書いたなかなか安くないものであった。
彼はその晩自分でこの手紙をポストへ入れて、翌日配達の時またそれを自分で受取ったなり、Aの来るのを待ち受けた。
Aが着いても彼はこの手紙をなかなか出さなかった。
力めて真面目な用談についての打合せなどを大事らしくし続けて、やっと同じ食卓で晩餐の膳に向った時、突然思い出したように袂の中からそれを取り出してAに与えた。
Aは表に至急親展とあるので、ちょっと箸を下に置くと、すぐ封を開いたが、少し読み下すと同時に包んである写真を抜いて裏を見るや否や、急に丸めるように懐へ入れてしまった。
何か急の用でもできたのかと聞くと、いや何というばかりで、不得要領にまた箸を取ったが、どことなくそわそわした様子で、まだ段落のつかない用談をそのままに、少し失礼する腹が痛いからと云って自分の部屋に帰った。
田口は下女を呼んで、今から十五分以内にAが外出するだろうから、出るときは車が待ってでもいたように、Aが何にも云わない先に彼を乗せて馳け出して、その思わく通りどこの何という家の門へおろすようにしろと云いつけた。
そうして自分はAより早く同じ家へ行って、主婦を呼ぶや否や、今おれの宿の提灯を点けた車に乗って、これこれの男が来るから、来たらすぐ綺麗な座敷へ通して、叮嚀に取扱って、向うで何にも云わない先に、御連様はとうから御待兼でございますと云ったなり引き退がって、すぐおれのところへ知らせてくれと頼んだ。
そうして一人で煙草を吹かして腕組をしながら、事件の経過を待っていた。
すると万事が旨い具合に予定の通り進行して、いよいよ自分の出る順が来た。
そこでAの部屋の傍へ行って間の襖を開けながら、やあ早かったねと挨拶すると、Aは顔の色を変えて驚ろいた。
田口はその前へ坐り込んで、実はこれこれだと残らず自分の悪戯を話した上、「担いだ代りに今夜は僕が奢るよ」と笑いながら云ったんだという。
「こういう飄気た真似をする男なんでございますから」と須永の母も話した後でおかしそうに笑った。
敬太郎はあの自働車はまさか悪戯じゃなかったろうと考えながら下宿へ帰った。
十四
自動車事件以後敬太郎はもう田口の世話になる見込はないものと諦らめた。
それと同時に須永の従弟と仮定された例の後姿の正体も、ほぼ発端の入口に当たる浅いところでぱたりと行きとまったのだと思うと、その底にはがゆいようなまた煮切らないような不愉快があった。
彼は今日まで何一つ自分の力で、先へ突き抜けたという自覚を有っていなかった。
勉強だろうが、運動だろうが、その他何事に限らず本気にやりかけて、貫ぬき終せた試がなかった。
生れてからたった一つ行けるところまで行ったのは、大学を卒業したくらいなものである。
それすら精を出さずにとぐろばかり巻きたがっているのを、向で引き摺り出してくれたのだから、中途で動けなくなった間怠さのない代りには、やっとの思いで井戸を掘り抜いた時の晴々した心持も知らなかった。
彼はぼんやりして四五日過ぎた。
ふと学生時代に学校へ招待したある宗教家の談話を思い出した。
その宗教家は家庭にも社会にも何の不満もない身分だのに、自から進んで坊主になった人で、その当時の事情を述べる時に、どうしても不思議でたまらないからこの道に入って見たと云った。
この人はどんな朗らかに透き徹るような空の下に立っても、四方から閉じ込められているような気がして苦しかったのだそうである。
樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても鮮かに見えながら、自分だけ硝子張の箱の中に入れられて、外の物と直に続いていない心持が絶えずして、しまいには窒息するほど苦しくなって来るんだという。
敬太郎はこの話を聞いて、それは一種の神経病に罹っていたのではなかろうかと疑ったなり、今日まで気にもかけずにいた。
しかしこの四五日ぼんやり屈託しているうちによくよく考えて見ると、彼自身が今までに、何一つ突き抜いて痛快だという感じを得た事のないのは、坊主にならない前のこの宗教家の心にどこか似た点があるようである。
もちろん自分のは比較にならないほど微弱で、しかも性質がまるで違っているから、この坊さんのようにえらい勇断をする必要はない。
もう少し奮発して気張る事さえ覚えれば、当っても外れても、今よりはまだ痛快に生きて行かれるのに、今日までついぞそこに心を用いる事をしなかったのである。
敬太郎は一人でこう考えて、どこへでも進んで行こうと思ったが、また一方では、もうすっぽ抜けの後の祭のような気がして、何という当もなくまた三四日ぶらぶらと暮した。
その間に有楽座へ行ったり、落語を聞いたり、友達と話したり、往来を歩いたり、いろいろやったが、いずれも薬缶頭を攫むと同じ事で、世の中は少しも手に握れなかった。
彼は碁を打ちたいのに、碁を見せられるという感じがした。
そうして同じ見せられるなら、もう少し面白い波瀾曲折のある碁が見たいと思った。
すると直須永と後姿の女との関係が想像された。
もともと頭の中でむやみに色沢を着けて奥行のあるように組み立てるほどの関係でもあるまいし、あったところが他の事を余計なおせっかいだと、自分で自分を嘲けりながら、ああ馬鹿らしいと思う後から、やっぱり何かあるだろうという好奇心が今のようにちょいちょいと閃めいて来るのである。
そうしてこの道をもう少し辛抱強く先へ押して行ったら、自分が今まで経験した事のない浪漫的な或物にぶつかるかも知れないと考え出す。
すると田口の玄関で怒ったなり、あの女の研究まで投げてしまった自分の短気を、自分の好奇心に釣り合わない弱味だと思い始める。
職業についても、あんな些細な行違のために愛想づかしをたとい一句でも口にして、自分と田口の敷居を高くするはずではなかったと思う。
あれでできるともできないとも、まだ方のつかない未来を中途半端に仕切ってしまった。
そうして好んで煮きらない思いに悩んでいる姿になってしまった。
須永の母の保証するところでは、田口という老人は見かけに寄らない親切気のある人だそうだから、あるいは旅行から帰って来た上で、また改めて会ってくれないとも限らない。
が、こっちからもう一遍会見の都合を問い合せたりなどして、常識のない馬鹿だと軽蔑まれてもつまらない。
けれどもどの道突き抜けた心持をしっかり捕まえるためには馬鹿と云われるまでも、そこまで突っかけて行く必要があるだろう。
――敬太郎は屈託しながらもいろいろ考えた。
十五
けれども身の一大事を即座に決定するという非常な場合と違って、敬太郎の思案には屈託の裏に、どこか呑気なものがふわふわしていた。
この道をとどのつまりまで進んで見ようか、またはこれぎりやめにして、さらに新らしいものに移る支度をしようか。
問題は煎じつめるまでもなく当初から至極簡単にでき上っていたのである。
それに迷うのは、一度籤を引き損なったが最後、もう浮ぶ瀬はないという非道い目に会うからではなくって、どっちに転んでも大した影響が起らないため、どうでも好いという怠けた心持がいつしらず働らくからである。
彼は眠い時に本を読む人が、眠気に抵抗する努力を厭いながら、文字の意味を判明頭に入れようと試みるごとく、呑気の懐で決断の卵を温めている癖に、ただ旨く孵化らない事ばかり苦にしていた。
この不決断を逃れなければという口実の下に、彼は暗に自分の物数奇に媚びようとした。
そうして自分の未来を売卜者の八卦に訴えて判断して見る気になった。
彼は加持、祈祷、御封、虫封じ、降巫の類に、全然信仰を有つほど、非科学的に教育されてはいなかったが、それ相当の興味は、いずれに対しても昔から今日まで失わずに成長した男である。
彼の父は方位九星に詳しい神経家であった。
彼が小学校へ行く時分の事であったが、ある日曜日に、彼の父は尻を端折って、鍬を担ついだまま庭へ飛び下りるから、何をするのかと思って、後から跟いて行こうとすると、父は敬太郎に向って、御前はそこにいて、時計を見ていろ、そうして十二時が鳴り出したら、大きな声を出して合図をしてくれ、すると御父さんがあの乾に当る梅の根っこを掘り始めるからと云いつけた。
敬太郎は子供心にまた例の家相だと思って、時計がちんと鳴り出すや否や命令通り、十二時ですようと大きな声で叫んだ。
それで、その場は無事に済んだが、あれほど正確に鍬を下ろすつもりなら、肝心の時計が狂っていないようにあらかじめ直しておかなくてはならないはずだのにと敬太郎は父の迂闊をおかしく思った。
学校の時計と自分の家のとはその時二十分近く違っていたからである。
ところがその後摘草に行った帰りに、馬に蹴られて土堤から下へ転がり落ちた事がある。
不思議に怪我も何もしなかったのを、御祖母さんが大層喜んで、全く御地蔵様が御前の身代りに立って下さった御蔭だこれ御覧と云って、馬の繋いであった傍にある石地蔵の前に連れて行くと、石の首がぽくりと欠けて、涎掛だけが残っていた。
敬太郎の頭にはその時から怪しい色をした雲が少し流れ込んだ。
その雲が身体の具合や四辺の事情で、濃くなったり薄くなったりする変化はあるが、成長した今日に至るまで、いまだに抜け切らずにいた事だけはたしかである。
こういう訳で、彼は明治の世に伝わる面白い職業の一つとして、いつでも大道占いの弓張提灯を眺めていた。
もっとも金を払って筮竹の音を聞くほどの熱心はなかったが、散歩のついでに、寒い顔を提灯の光に映した女などが、悄然そこに立っているのを見かけると、この暗い影を未来に投げて、思案に沈んでいる憐れな人に、易者がどんな希望と不安と畏怖と自信とを与えるだろうという好奇心に惹かされて、面白半分、そっと傍へ寄って、陰の方から立聞をする事がしばしばあった。
彼の友の某が、自分の脳力に悲観して、試験を受けようか学校をやめようかと思い煩っている頃、ある人が旅行のついでに、善光寺如来の御神籤をいただいて第五十五の吉というのを郵便で送ってくれたら、その中に雲散じて月重ねて明らかなり、という句と、花発いて再び重栄という句があったので、物は試しだからまあ受けて見ようと云って、受けたら綺麗に及第した時、彼は興に乗って、方々の神社で手当りしだい御神籤をいただき廻った事さえある。
しかもそれは別にこれという目的なしにいただいたのだから彼は平生でも、優に売卜者の顧客になる資格を充分具えていたに違ない。
その代り今度のような場合にも、どこか慰さみがてらに、まあやって見ようという浮気がだいぶ交っていた。
十六
敬太郎はどこの占ない者に行ったものかと考えて見たが、あいにくどこという当もなかった。
白山の裏とか、芝公園の中とか、銀座何丁目とか今までに名前を聞いたのは二三軒あるが、むやみに流行るのは山師らしくって行く気にならず、と云って、自分で嘘と知りつつ出鱈目を強いてもっともらしく述べる奴はなお不都合であるし、できるならば余り人の込み合わない家で、閑静な髯を生やした爺さんが奇警な言葉で、簡潔にすぱすぱと道い破ってくれるのがどこかにいればいいがと思った。
そう思いながら、彼は自分の父がよく相談に出かけた、郷里の一本寺の隠居の顔を頭の中に描き出した。
それからふと気がついて、考えるんだかただ坐っているんだか分らない自分の様子が馬鹿馬鹿しくなったので、とにかく出てそこいらを歩いてるうちに、運命が自分を誘い込むような占ない者の看板にぶつかるだろうという漠然たる頭に帽子を載せた。
彼は久しぶりに下谷の車坂へ出て、あれから東へ真直に、寺の門だの、仏師屋だの、古臭い生薬屋だの、徳川時代のがらくたを埃といっしょに並べた道具屋だのを左右に見ながら、わざと門跡の中を抜けて、奴鰻の角へ出た。
彼は小供の時分よく江戸時代の浅草を知っている彼の祖父さんから、しばしば観音様の繁華を耳にした。
仲見世だの、奥山だの、並木だの、駒形だの、いろいろ云って聞かされる中には、今の人があまり口にしない名前さえあった。
広小路に菜飯と田楽を食わせるすみ屋という洒落た家があるとか、駒形の御堂の前の綺麗な縄暖簾を下げた鰌屋は昔しから名代なものだとか、食物の話もだいぶ聞かされたが、すべての中で最も敬太郎の頭を刺戟したものは、長井兵助の居合抜と、脇差をぐいぐい呑んで見せる豆蔵と、江州伊吹山の麓にいる前足が四つで後足が六つある大蟇の干し固めたのであった。
それらには蔵の二階の長持の中にある草双紙の画解が、子供の想像に都合の好いような説明をいくらでも与えてくれた。
一本歯の下駄を穿いたまま、小さい三宝の上に曲がんだ男が、襷がけで身体よりも高く反り返った刀を抜こうとするところや、大きな蝦蟆の上に胡坐をかいて、児雷也が魔法か何か使っているところや、顔より大きそうな天眼鏡を持った白い髯の爺さんが、唐机の前に坐って、平突ばったちょん髷を上から見下すところや、大抵の不思議なものはみんな絵本から抜け出して、想像の浅草に並んでいた。
こういう訳で敬太郎の頭に映る観音の境内には、歴史的に妖嬌陸離たる色彩が、十八間の本堂を包んで、小供の時から常に陽炎っていたのである。
東京へ来てから、この怪しい夢は固より手痛く打ち崩されてしまったが、それでも時々は今でも観音様の屋根に鵠の鳥が巣を食っているだろうぐらいの考にふらふらとなる事がある。
今日も浅草へ行ったらどうかなるだろうという料簡が暗に働らいて、足が自ずとこっちに向いたのである。
しかしルナパークの後から活動写真の前へ出た時は、こりゃ占ない者などのいる所ではないと今更のようにその雑沓に驚ろいた。
せめて御賓頭顱でも撫でて行こうかと思ったが、どこにあるか忘れてしまったので、本堂へ上って、魚河岸の大提灯と頼政の鵺を退治ている額だけ見てすぐ雷門を出た。
敬太郎の考えではこれから浅草橋へ出る間には、一軒や二軒の易者はあるだろう。
もし在ったら何でも構わないから入る事にしよう。
あるいは高等工業の先を曲って柳橋の方へ抜けて見ても好いなどと、まるで時分どきに恰好な飯屋でも探す気で歩いていた。
ところがいざ探すとなると生憎なもので、平生は散歩さえすればいたるところに神易の看板がぶら下っている癖に、あの広い表通りに門戸を張っている卜者はまるで見当らなかった。
敬太郎はこの企図もまた例によって例のごとく、突き抜けずに中途でおしまいになるのかも知れないと思って少し失望しながら蔵前まで来た。
するとやっとの事で尋ねる商売の家が一軒あった。
細長い堅木の厚板に、身の上判断と割書をした下に、文銭占ないと白い字で彫って、そのまた下に、漆で塗った真赤な唐辛子が描いてある。
この奇体な看板がまず敬太郎の眼を惹いた。
十七
よく見るとこれは一軒の生薬屋の店を仕切って、その狭い方へこざっぱりした差掛様のものを作ったので、中に七色唐辛子の袋を並べてあるから、看板の通りそれを売る傍ら、占ないを見る趣向に違ない。
敬太郎はこう観察して、そっと餡転餅屋に似た差掛の奥を覗いて見ると、小作りな婆さんがたった一人裁縫をしていた。
狭い室一つの住居としか思われないのに、肝心の易者の影も形も見えないから、主人は他行中で、細君が留守番をしているところかとも思ったが、店先の構造から推すと、奥は生薬屋の方と続いているかも知れないので、一概に留守と見切をつける訳にも行かなかった。
それで二三歩先へ出て、薬種店の方を覗くと、八ツ目鰻の干したのも釣るしてなければ、大きな亀の甲も飾ってないし、人形の腹をがらん胴にして、五色の五臓を外から見えるように、腹の中の棚に載せた古風の装飾もなかった。
一本寺の隠居に似た髯のある爺さんは固より坐っていなかった。
彼は再び立ち戻って、身の上判断文銭占ないという看板のかかった入口から暖簾を潜って内へ入った。
裁縫をしていた婆さんは、針の手をやめて、大きな眼鏡の上から睨むように敬太郎を見たが、ただ一口、占ないですかと聞いた。
敬太郎は「ええちょっと見て貰いたいんだが、御留守のようですね」と云った。
すると婆さんは、膝の上のやわらか物を隅の方へ片づけながら、御上りなさいと答えた。
敬太郎は云われる通り素直に上って見ると、狭いけれども居心地の悪いほど汚れた室ではなかった。
現に畳などは取り替え立てでまだ新らしい香がした。
婆さんは煮立った鉄瓶の湯を湯呑に注いで、香煎を敬太郎の前に出した。
そうして昔は薬箱でも載せた棚らしい所に片づけてあった小机を取りおろしにかかった。
その机には無地の羅紗がかけてあったが、婆さんはそれをそのまま敬太郎の正面に据えて、そうして再び故の座に帰った。
「占ないは私がするのです」 敬太郎は意外の感に打たれた。
この小いさい丸髷に結った。
黒繻子の襟のかかった着物の上に、地味な縞の羽織を着た、一心に縫物をしている、純然家庭的の女が、自分の未来に横たわる運命の予言者であろうとは全く想像のほかにあったのである。
その上彼はこの婦人の机の上に、筮竹も算木も天眼鏡もないのを不思議に眺めた。
婆さんは机の上に乗っている細長い袋の中からちゃらちゃらと音をさせて、穴の開いた銭を九つ出した。
敬太郎は始めてこれが看板に「文銭占ない」とある文銭なるものだろうと推察したが、さてこの九枚の文銭が、暗い中で自分を操っている運命の糸と、どんな関係を有っているか、固より想像し得るはずがないので、ただそこに鋳出された模様と、それがしまってあった袋とを見比べるだけで、何事も云わずにいた。
袋は能装束の切れ端か、懸物の表具の余りで拵らえたらしく、金の糸が所々に光っているけれども、だいぶ古いものと見えて、手擦と時代のため、派手な色を全く失っていた。
婆さんは年寄に似合わない白い繊麗な指で、九枚の文銭を三枚ずつ三列に並べたが、ひょっと顔を上げて、「身の上を御覧ですか」と聞いた。
「さあ一生涯の事を一度に聞いておいても損はないが、それよりか今ここでどうしたらいいか、その方をきめてかかる方が僕には大切らしいから、まあそれを一つ願おう」 婆さんはそうですかと答えたが、それで御年はとまた敬太郎の年齢を尋ねた。
それから生れた月と日を確めた。
その後で胸算用でもする案排しきで、指を折って見たり、ただ考がえたりしていたが、やがてまた綺麗な指で例の文銭を新らしく並べ更えた。
敬太郎は表に波が出たり、あるいは文字が現われたりして、三枚が三列に続く順序と排列を、深い意味でもあるような眼つきをして見守っていた。
十八
婆さんはしばらく手を膝の上に載せて、何事も云わずに古い銭の面をじっと注意していたが、やがて考えの中心点が明快纏まったという様子をして、「あなたは今迷っていらっしゃる」と云い切ったなり敬太郎の顔を見た。
敬太郎はわざと何も答えなかった。
「進もうかよそうかと思って迷っていらっしゃるが、これは御損ですよ。先へ御出になった方が、たとい一時は思わしくないようでも、末始終御為ですから」 婆さんは一区限つけると、また口を閉じて敬太郎の様子を窺った。
敬太郎は始めからただ先方のいう事をふんふん聞くだけにして、こちらでは喋舌らないつもりに、腹の中できめてかかったのであるが、婆さんのこの一言に、ぼんやりした自分の頭が、相手の声に映ってちらりと姿を現わしたような気がしたので、ついその刺戟に応じて見たくなった。
「進んでも失敗るような事はないでしょうか」「ええ。だからなるべくおとなしくして。短気を起さないようにね」 これは予言ではない、常識があらゆる人に教える忠告に過ぎないと思ったけれども婆さんの態度に、これという故意とらしい点も見えないので、彼はなお質問を続けた。
「進むってどっちへ進んだものでしょう」「それはあなたの方がよく分っていらっしゃるはずですがね。私はただ最少し先まで御出なさい、そのほうが御為だからと申し上げるまでです」 こうなると敬太郎も行きがかり上そうですかと云って引込む訳に行かなくなった。
「だけれども道が二つ有るんだから、その内でどっちを進んだらよかろうと聞くんです」 婆さんはまた黙って文銭の上を眺めていたが、前よりは重苦しい口調で、「まあ同なじですね」と答えた。
そうして先刻裁縫をしていた時に散らばした糸屑を拾って、その中から紺と赤の絹糸のかなり長いのを択り出して、敬太郎の見ている前で、それを綺麗に縒り始めた。
敬太郎はただ手持無沙汰の徒事とばかり思って、別段意にも留めなかったが、婆さんは丹念にそれを五六寸の長さに縒り上げて、文銭の上に載せた。
「これを御覧なさい。こう縒り合わせると、一本の糸が二筋の糸で、二筋の糸が一本の糸になるじゃありませんか。そら派手な赤と地味な紺が。若い時にはとかく派手の方へ派手の方へと駆け出してやり損ない勝のものですが、あなたのは今のところこの縒糸みたように丁度好い具合に、いっしょに絡まり合っているようですから御仕合せです」 絹糸の喩は何とも知らず面白かったが、御仕合せですと云われて見ると、嬉しいよりもかえっておかしい心持の方が敬太郎を動かした。
「じゃこの紺糸で地道を踏んで行けば、その間にちらちら派手な赤い色が出て来ると云うんですね」と敬太郎は向うの言葉を呑み込んだような尋ね方をした。
「そうですそうなるはずです」と婆さんは答えた。
始めから敬太郎は占ないの一言で、是非共右か左へ片づけなければならないとまで切に思いつめていた訳でもなかったけれども、これだけで帰るのも少し物足りなかった。
婆さんの云う事が、まるで自分の胸とかけ隔たった別世界の消息なら、固より論はないが、意味の取り方ではだいぶ自分の今の身の上に、応用の利く点もあるので、敬太郎はそこに微かな未練を残した。
「もう何にも伺がう事はありませんか」「そうですね。近い内にちょっとした事ができるかも知れません」「災難ですか」「災難でもないでしょうが、気をつけないとやり損ないます。そうしてやり損なえばそれっきり取り返しがつかない事です」
十九
敬太郎の好奇心は少し鋭敏になった。
「全体どんな性質の事ですか」「それは起って見なければ分りません。けれども盗難だの水難だのではないようです」「じゃどうして失敗らない工夫をして好いか、それも分らないでしょうね」「分らない事もありませんが、もし御望みなら、もう一遍占ないを立て直して見て上げても宜うござんす」 敬太郎は、では御頼み申しますと云わない訳に行かなかった。
婆さんはまた繊細な指先を小器用に動かして、例の文銭を並べ更えた。
敬太郎から云えば先の並べ方も今度の並べ方も大抵似たものであるが、婆さんにはそこに何か重大の差別があるものと見えて、その一枚を引っくり返すにも軽率に手は下さなかった。
ようやく九枚をそれぞれ念入に片づけた後で、婆さんは敬太郎に向って「大体分りました」と云った。
「どうすれば好いんですか」「どうすればって、占ないには陰陽の理で大きな形が現われるだけだから、実地は各自がその場に臨んだ時、その大きな形に合わして考えるほかありませんが、まあこうです。あなたは自分のようなまた他人のような、長いようなまた短かいような、出るようなまた這入るようなものを待っていらっしゃるから、今度事件が起ったら、第一にそれを忘れないようになさい。そうすれば旨く行きます」 敬太郎は煙に巻かれざるを得なかった。
いくら大きな形が陰陽の理で現われたにしたところで、これじゃ方角さえ立たない霧のようなものだから、たとい嘘でも本当でも、もう少し切りつめた応用の利くところを是非云わせようと思って、二三押問答をして見たが、いっこう埒が明かなかった。
敬太郎はとうとうこの禅坊主の寝言に似たものを、手拭に包んだ懐炉のごとく懐中させられて表へ出た。
おまけに出がけに七色唐辛子を二袋買って袂へ入れた。
翌日彼は朝飯の膳に向って、煙の出る味噌汁椀の蓋を取ったとき、たちまち昨日の唐辛子を思い出して、袂から例の袋を取り出した。
それを十二分に汁の上に振りかけて、ひりひりするのを我慢しながら食事を済ましたが、婆さんの云わゆる「陰陽の理によって現われた大きな形」と頭の中に呼び起して見ると、まだ漠然と瓦斯のごとく残っていた。
しかし手のつけようのない謎に気を揉むほど熱心な占ない信者でもないので、彼はどうにかそれを解釈して見たいと焦心る苦悶を知らなかった。
ただその分らないところに妙な趣があるので、忘れないうちに、婆さんの云った通りを紙片に書いて机の抽出へ入れた。
もう一遍田口に会う手段を講じて見る事の可否は、昨日すでに婆さんの助言で断定されたものと敬太郎は解釈した。
けれども彼は占ないを信じて動くのではない、動こうとする矢先へ婆さんが動く縁をつけてくれたに過ぎないのだと思った。
彼は須永へ行って彼の叔父がすでに大阪から帰ったかどうか尋ねて見ようかと考えたが、自動車事件の記憶がまだ新たに彼の胸を圧迫しているので、足を運ぶ勇気がちょっと出なかった。
電話もこの際利用しにくかった。
彼はやむを得ず、手紙で用を弁ずる事にした。
彼はせんだって須永の母に話したとほぼ同様の顛末を簡略に書いた後で、田口がもう旅行から帰ったかどうかを聞き合わせて、もし帰ったなら御多忙中はなはだ恐れ入るけれども、都合して会ってくれる訳には行くまいか、こっちはどうせ閑な身体だから、いつでも指定されて時日に出られるつもりだがと、この間の権幕は、綺麗に忘れたような口ぶりを見せた。
敬太郎はこの手紙を出すと同時に、須永の返事を明日にも予想した。
ところが二日立っても三日立っても何の挨拶もないので、少し不安の念に悩まされ出した。
なまじい売卜者の言葉などに動かされて、恥を掻いてはつまらないという後悔も交った。
すると四日目の午前になって、突然田口から電話口へ呼び出された。
二十
電話口へ出て見ると案外にも主人の声で、今直来る事ができるかという簡単な問い合わせであった。
敬太郎はすぐ出ますと答えたが、それだけで電話を切るのは何となくぶっきらぼう過ぎて愛嬌が足りない気がするので、少し色を着けるために、須永君から何か御話でもございましたかと聞いて見た。
すると相手は、ええ市蔵から御希望を通知して来たのですが、手数だから直接に私の方で御都合を伺がいました。
じゃ御待ち申しますから、直どうぞ。
と云ってそれなり引込んでしまった。
敬太郎はまた例の袴を穿きながら、今度こそ様子が好さそうだと思った。
それからこの間買ったばかりの中折を帽子掛から取ると、未来に富んだ顔に生気を漲ぎらして快豁に表へ出た。
外には白い霜を一度に摧いた日が、木枯しにも吹き捲くられずに、穏やかな往来をおっとりと一面に照らしていた。
敬太郎はその中を突切る電車の上で、光を割いて進むような感じがした。
田口の玄関はこの間と違って蕭条りしていた。
取次に袴を着けた例の書生が現われた時は、少しきまりが悪かったが、まさかせんだっては失礼しましたとも云えないので、素知らぬ顔をして叮嚀に来意を告げた。
書生は敬太郎を覚えていたのか、いないのか、ただはあと云ったなり名刺を受取って奥へ這入ったが、やがて出て来て、どうぞこちらへと応接間へ案内した。
敬太郎は取次の揃えてくれた上靴を穿いて、御客らしく通るには通ったが、四五脚ある椅子のどれへ腰をかけていいかちょっと迷った。
一番小さいのにさえきめておけば間違はあるまいという謙遜から、彼は腰の高い肱懸も装飾もつかない最も軽そうなのを択って、わざと位置の悪い所へ席を占めた。
やがて主人が出て来た。
敬太郎は使い慣れない切口上を使って、初対面の挨拶やら会見の礼やらを述べると、主人は軽くそれを聞き流すだけで、ただはあはあと挨拶した。
そうしていくら区切が来ても、いっこう何とも云ってくれなかった。
彼は主人の態度に失望するほどでもなかったが、自分の言葉がそう思う通り長く続かないのに弱った。
一応頭の中にある挨拶を出し切ってしまうと、後はそれぎりで、手持無沙汰と知りながら黙らなければならなかった。
主人は巻莨入から敷島を一本取って、あとを心持敬太郎のいる方へ押しやった。
「市蔵からあなたの御話しは少し聞いた事もありますが、いったいどういう方を御希望なんですか」 実を云うと、敬太郎には何という特別の希望はなかった。
ただ相当の位置さえ得られればとばかり考えていたのだから、こう聞かれるとぼんやりした答よりほかにできなかった。
「すべての方面に希望を有っています」 田口は笑い出した。
そうして機嫌の好い顔つきをして、学士の数のこんなに殖えて来た今日、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情を懇ごろに説いて聞かせた。
しかしそれは田口から改めて教わるまでもなく、敬太郎のとうから痛切に承知しているところであった。
「何でもやります」「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛を逃れるだけでも結構です」「そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。直という訳にも行きますまいが」「どうぞ。――まあ試しに使って見て下さい。あなたの御家の――と云っちゃ余り変ですが、あなたの私事にででもいいから、ちょっと使って見て下さい」「そんな事でもして見る気がありますか」「あります」「それじゃ、ことに依ると何か願って見るかも知れません。いつでも構いませんか」「ええなるべく早い方が結構です」 敬太郎はこれで会見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。
二十一
穏やかな冬の日がまた二三日続いた。
敬太郎は三階の室から、窓に入る空と樹と屋根瓦を眺めて、自然を橙色に暖ためるおとなしいこの日光が、あたかも自分のために世の中を照らしているような愉快を覚えた。
彼はこの間の会見で、自分に都合の好い結果が、近い内にわが頭の上に落ちて来るものと固く信ずるようになった。
そうしてその結果がどんな異様の形を装って、彼の前に現われるかを、彼は最も楽しんで待ち暮らした。
彼が田口に依頼した仕事のうちには、普通の依頼者の申し出以上のものまで含んでいた。
彼は一定の職業から生ずる義務を希望したばかりでなく、刺戟に充ちた一時性の用事をも田口から期待した。
彼の性質として、もし成効の影が彼を掠めて閃めくならば、おそらく尋常の雑務とは切り離された特別の精彩を帯びたものが、卒然彼の前に投げ出されるのだろうぐらいに考えた。
そんな望を抱いて、彼は毎日美くしい日光に浴していたのである。
すると四日ばかりして、また田口から電話がかかった。
少し頼みたい事ができたが、わざわざ呼び寄せるのも気の毒だし、電話では手間が要ってかえって面倒になるし、仕方がないから、速達便で手紙を出す事にしたから、委細はそれを見て承知してくれ。
もし分らない事があったら、また電話で聞き合わしてもいいという通知であった。
敬太郎はぼんやり見えていた遠眼鏡の度がぴたりと合った時のように愉快な心持がした。
彼は机の前を一寸も離れずに、速達便の届くのを待っていた。
そうしてその間絶ず例の想像を逞ましくしながら、田口のいわゆる用事なるものを胸の中で組み立てて見た。
そこにはいつか須永の門前で見た後姿の女が、ややともすると断わりなしに入り込んで来た。
ふと気がついて、もっと実際的のものであるべきはずだと思うと、その時だけは自分で自分の空想を叱るようにしては、彼はもどかしい時を過ごした。
やがて待ち焦れた状袋が彼の手に落ちた。
彼はすっと音をさせて、封を裂いた。
息も継がずに巻紙の端から端までを一気に読み通して、思わずあっという微かな声を揚げた。
与えられた彼の用事は待ち設けた空想よりもなお浪漫的であったからである。
手紙の文句は固より簡単で用事以外の言葉はいっさい書いてなかった。
今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十恰好の男がある。
それは黒の中折に霜降の外套を着て、顔の面長い背の高い、瘠せぎすの紳士で、眉と眉の間に大きな黒子があるからその特徴を目標に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。
敬太郎は始めて自分が危険なる探偵小説中に主要の役割を演ずる一個の主人公のような心持がし出した。
同時に田口が自己の社会的利害を護るために、こんな暗がりの所作をあえてして、他日の用に、他の弱点を握っておくのではなかろうかと云う疑を起した。
そう思った時、彼は人の狗に使われる不名誉と不徳義を感じて、一種苦悶の膏汗を腋の下に流した。
彼は手紙を手にしたまま、じっと眸を据えたなり固くなった。
しかし須永の母から聞いた田口の性格と、自分が直に彼に会った時の印象とを纏めて考えて見ると、けっしてそんな人の悪そうな男とも思われないので、たとい他人の内行に探りを入れるにしたところで、必ずしもそれほど下品な料簡から出るとは限らないという推断もついて見ると、いったん硬直になった筋肉の底に、また温たかい血が通い始めて、徳義に逆らう吐気なしに、ただ興味という一点からこの問題を面白く眺める余裕もできてきた。
それで世の中に接触する経験の第一着手として、ともかくも田口から依頼された通りにこの仕事をやり終せて見ようという気になった。
彼はもう一度とくと田口の手紙を読み直した。
そうしてそこに書いてある特徴と条件だけで、はたして満足な結果が実際に得られるだろうかどうかを確かめた。
二十二
田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉と眉の間の黒子だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下で、乗降に忙がしい多数の客の中から、指定された局部の一点を目標に、これだと思う男を過ちなく見つけ出そうとするのは容易の事ではない。
ことに四時と五時の間と云えば、ちょうど役所の退ける刻限なので、丸の内からただ一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の数だけでも大したものである。
それにほかと違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見世先に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら具えるやらして、電灯以外の景気を点けて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘定に入れなければなるまい。
それを想像して事の成否を考えて見ると、とうてい一人の手際ではという覚束ない心持が起って来る。
けれどもまた尋ね出そうとするその人が、霜降の外套に黒の中折という服装で電車を降りるときまって見れば、そこにまだ一縷の望があるようにも思われる。
無論霜降の外套だけでは、どんな恰好にしろ手がかりになり様はずがないが、黒の中折を被っているなら、色変りよりほかに用いる人のない今日だから、すぐ眼につくだろう。
それを目宛に注意したらあるいは成功しないとも限るまい。
こう考えた敬太郎は、ともかくも停留所まで行って見る事だという気になった。
時計を眺めると、まだ一時を打ったばかりである。
四時より三十分前に向へ着くとしたところで、三時頃から宅を出ればたくさんなのだから、まだ二時間の猶予がある。
彼はこの二時間を最も有益に利用するつもりで、じっとしたまま坐っていた。
けれどもただ眼の前に、美土代町と小川町が、丁字になって交叉している三つ角の雑沓が入り乱れて映るだけで、これと云って成功を誘うに足る上分別は浮ばなかった。
彼の頭は考えれば考えるほど、同じ場所に吸いついたなりまるで動くことを知らなかった。
そこへ、どうしても目指す人には会えまいという掛念が、不安を伴って胸の中をざわつかせた。
敬太郎はいっその事時間が来るまで外を歩きつづけに歩いて見ようかと思った。
そう決心をして、両手を机の縁に掛けて、勢よく立ち上がろうとする途端に、この間浅草で占ないの婆さんから聞いた、「近い内に何か事があるから、その時にはこうこういうものを忘れないようにしろ」という注意を思い出した。
彼は婆さんのその時の言葉を、解すべからざる謎として、ほとんど頭の外へ落してしまったにもかかわらず、参考のためわざわざ書きつけにして机の抽出に入れておいた。
でまたその紙片を取り出して、自分のようで他人のような、長いようで短かいような、出るようで這入るようなという句を飽かず眺めた。
初めのうちは今まで通りとうてい意味のあるはずがないとしか見えなかったが、だんだん繰り返して読むうちに、辛抱強く考えさえすれば、こういう妙な特性を有ったものがあるいは出て来るかも知れないという気になった。
その上敬太郎は婆さんに、自分が持っているんだから、いざという場合に忘れないようになさいと注意されたのを覚えていたので、何でも好い、ただ身の周囲の物から、自分のようで他人のような、長いようで短かいような、出るようで這入るようなものを探しあてさえすれば、比較的狭い範囲内で、この問題を解決する事ができる訳になって、存外早く片がつくかも知れないと思い出した。
そこでわが自由になるこれから先の二時間を、全くこの謎を解くための二時間として大切に利用しようと決心した。
ところがまず眼の前の机、書物、手拭、座蒲団から順々に進行して行李鞄靴下までいったが、いっこうそれらしい物に出合わないうちに、とうとう一時間経ってしまった。
彼の頭は焦燥つと共に乱れて来た。
彼の観念は彼の室の中を駆け廻って落ちつけないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縦横に走った。
やがて彼の前に、霜降の外套を着た黒の中折を被った背の高い瘠ぎすの紳士が、彼のこれから探そうというその人の権威を具えて、ありありと現われた。
するとその顔がたちまち大連にいる森本の顔になった。
彼はだらしのない髯を生やした森本の容貌を想像の眼で眺めた時、突然電流に感じた人のようにあっと云った。
二十三
森本の二字はとうから敬太郎の耳に変な響を伝える媒介となっていたが、この頃ではそれが一層高じて全然一種の符徴に変化してしまった。
元からこの男の名前さえ出ると、必ず例の洋杖を聯想したものだが、洋杖が二人を繋ぐ縁に立っていると解釈しても、あるいは二人の中を割く邪魔に挟まっていると見傚しても、とにかく森本とこの竹の棒の間にはある距離があって、そう一足飛に片方から片方へ移る訳に行かなかったのに、今ではそれが一つになって、森本と云えば洋杖、洋杖と云えば森本というくらい劇しく敬太郎の頭を刺戟するのである。
その刺戟を受けた彼の頭に、自分の所有のようなまた森本の所有のような、持主のどっちとも片づかないという観念が、熱った血に流されながら偶然浮び上った時、彼はああこれだと叫んで、乱れ逃げる黒い影の内から、その洋杖だけをうんと捕まえたのである。
「自分のような他人のような」と云った婆さんの謎はこれで解けたものと信じて、敬太郎は一人嬉しがった。
けれどもまだ「長いような短かいような、出るような這入るような」というところまでは考えて見ないので、彼はあまる二カ条の特性をも等しくこの洋杖の中から探し出そうという料簡で、さらに新たな努力を鼓舞してかかった。
始めは見方一つで長くもなり短かくもなるくらいの意味かも知れないと思って、先へ進んで見たが、それでは余り平凡過ぎて、解釈がついたもつかないも同じ事のような心持がした。
そこでまた後戻りをして、「長いような短かいような」という言葉を幾度か口の内でくり返しながら思案した。
が、容易に解決のできる見込は立たなかった。
時計を見ると、自由に使っていい二時間のうちで、もう三十分しか残っていない。
彼は抜裏と間違えて袋の口へ這入り込んだ結果、好んで行き悩みの状態に悶えているのでは無かろうかと、自分で自分の判断を危ぶみ出した。
出端のない行きどまりに立つくらいなら、もう一遍引き返して、新らしい途を探す方がましだとも考えた。
しかしこう時間が逼っているのに、初手から出直しては、とても間に合うはずがない、すでにここまで来られたという一部分の成功を縁喜にして、是非先へ突き抜ける方が順当だとも考えた。
これがよかろうあれがよかろうと右左に思い乱れている中に、彼の想像はふと全体としての杖を離れて、握りに刻まれた蛇の頭に移った。
その瞬間に、鱗のぎらぎらした細長い胴と、匙の先に似た短かい頭とを我知らず比較して、胴のない鎌首だから、長くなければならないはずだのに短かく切られている、そこがすなわち長いような短かいような物であると悟った。
彼はこの答案を稲妻のごとく頭の奥に閃めかして、得意の余り踴躍した。
あとに残った「出るような這入るような」ものは、大した苦労もなく約五分の間に解けた。
彼は鶏卵とも蛙とも何とも名状しがたい或物が、半ば蛇の口に隠れ、半ば蛇の口から現われて、呑み尽されもせず、逃れ切りもせず、出るとも這入るとも片のつかない状態を思い浮かべて、すぐこれだと判断したのである。
これで万事が綺麗に解決されたものと考えた敬太郎は、躍り上るように机の前を離れて、時計の鎖を帯に絡んだ。
帽子は手に持ったまま、袴も穿かずに室を出ようとしたが、あの洋杖をどうして持って出たものだろうかという問題がちょっと彼を躊躇さした。
あれに手を触れるのは無論、たとい傘入から引き出したところで、森本が置き去りにして行ってからすでに久しい今日となって見れば、主人に断わらないにしろ、咎められたり怪しまれたりする気遣はないにきまっているが、さて彼らが傍にいない時、またおるにしても見ないうちに、それを提げて出ようとするには相当の思慮か準備が必要になる。
迷信のはびこる家庭に成長した敬太郎は、呪禁に使う品物を(これからその目的に使うんだという料簡があって)手に入れる時には、きっと人の見ていない機会を偸んでやらなければ利かないという言い伝えを、郷里にいた頃、よく母から聞かされていたのである。
敬太郎は宿の上り口の正面にかけてある時計を見るふりをして、二階の梯子段の中途まで降りて下の様子を窺がった。
二十四
主人は六畳の居間に、例の通り大きな瀬戸物の丸火鉢を抱え込んでいた。
細君の姿はどこにも見えなかった。
敬太郎が梯子段の中途で、及び腰をして、硝子越に障子の中を覗いていると、主人の頭の上で忽然呼鈴が烈しく鳴り出した。
主人は仰向いて番号を見ながら、おい誰かいないかねと次の間へ声をかけた。
敬太郎はまたそろそろ三階の自分の室へ帰って来た。
彼はわざわざ戸棚を開けて、行李の上に投げ出してあるセルの袴を取り出した。
彼はそれを穿くとき、腰板を後に引き摺って、室の中を歩き廻った。
それから足袋を脱いで、靴下に更えた。
これだけ身装を改めた上、彼はまた三階を下りた。
居間を覗くと細君の姿は依然として見えなかった。
下女もそこらにはいなかった。
呼鈴も今度は鳴らなかった。
家中ひっそり閑としていた。
ただ主人だけは前の通り大きな丸火鉢に靠れて、上り口の方を向いたなりじっと坐っていた。
敬太郎は段々を下まで降り切らない先に、高い所から斜に主人の丸くなった背中を見て、これはまだ都合が悪いと考えたが、ついに思い切って上り口へ出た。
主人は案の上、「御出かけで」と挨拶した。
そうして例の通り下女を呼んで下駄箱にしまってある履物を出させようとした。
敬太郎は主人一人の眼を掠すめるのにさえ苦心していたところだから、この上下女に出られては敵わないと思って、いや宜しいと云いながら、自分で下駄箱の垂を上げて、早速靴を取りおろした。
旨い具合に下女は彼が土間へ降り立つまで出て来なかった。
けれども、亭主は依然としてこっちを向いていた。
「ちょっと御願ですがね。室の机の上に今月の法学協会雑誌があるはずだが、ちょっと取って来てくれませんか。靴を穿いてしまったんで、また上るのが面倒だから」 敬太郎はこの主人に多少法律の心得があるのを知って、わざとこう頼んだのである。
主人は自分よりほかのものでは到底弁じない用事なので、「はあようがす」と云って気さくに立って梯子段を上って行った。
敬太郎はそのひまに例の洋杖を傘入から抽き取ったなり、抱き込むように羽織の下へ入れて、主人の座に帰らないうちにそっと表へ出た。
彼は洋杖の頭の曲った角を、右の腋の下に感じつつ急ぎ足に本郷の通まで来た。
そこでいったん羽織の下から杖を出して蛇の首をじっと眺めた。
そうして袂の手帛で上から下まで綺麗に埃を拭いた。
それから後は普通の杖のように右の手に持って、力任せに振り振り歩いた。
電車の上では、蛇の頭へ両手を重ねて、その上に顋を載せた。
そうしてやっと今一段落ついた自分の努力を顧みて、ほっと一息吐いた。
同時にこれから先指定された停留所へ行ってからの成否がまた気にかかり出した。
考えて見ると、これほど骨を折って、偸むように持ち出した洋杖が、どうすれば眉と眉の間の黒子を見分ける必要品になるのか、全く彼の思量のほかにあった。
彼はただ婆さんに云われた通り、自分のような他人のような、長いような短かいような、出るような這入るようなものを、一生懸命に探し当てて、それを忘れないで携さえているというまでであった。
この怪しげに見えて平凡な、しかもむやみに軽い竹の棒が、寝かそうと起こそうと、手に持とうと袖に隠そうと、未知の人を探す上に、はたして何の役に立つか知らんと疑ぐった時、彼はちょっとの間、瘧を振い落した人のようにけろりとして、車内を見廻わした。
そうして頭の毛穴から湯気の立つほど業を煮やした先刻の努力を気恥かしくも感じた。
彼は自分で自分の所作を紛らす為に、わざと洋杖を取り直して、電車の床をとんとんと軽く叩いた。
やがて目的の場所へ来た時、彼はとりあえず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分ほど間があるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。
そこには交番があった。
彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストの傍から、真直に南へ走る大通りと、緩い弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とを眺めた。
これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめにかかった。
二十五
赤い郵便函から五六間東へ下ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼に入った。
ここにさえ待っていれば、たとい混雑に取り紛れて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、また目標の鉄の柱を離れて、四辺の光景を見廻した。
彼のすぐ後には蔵造の瀬戸物屋があった。
小さい盃のたくさん並んだのを箱入にして額のように仕立てたのがその軒下にかかっていた。
大きな鉄製の鳥籠に、陶器でできた餌壺をいくつとなく外から括りつけたのも、そこにぶら下がっていた。
その隣りは皮屋であった。
眼も爪も全く生きた時のままに残した大きな虎の皮に、緋羅紗の縁を取ったのがこの店の重な装飾であった。
敬太郎は琥珀に似たその虎の眼を深く見つめて立った。
細長くって真白な皮でできた襟巻らしいものの先に、豆狸のような顔が付着しているのも滑稽に見えた。
彼は時計を出して時間を計りながら、また次の店に移った。
そうして瑪瑙で刻った透明な兎だの、紫水晶でできた角形の印材だの、翡翠の根懸だの孔雀石の緒締だのの、金の指輪やリンクスと共に、美くしく並んでいる宝石商の硝子窓を覗いた。
敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐木細工の店先まで来た。
その時後から来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側でとまったので、もしやという心から、筋違に通を横切って細い横町の角にある唐物屋の傍へ近寄ると、そこにも一本の鉄の柱に、先刻のと同じような、小川町停留所という文字が白く書いてあった。
彼は念のためこの角に立って、二三台の電車を待ち合わせた。
すると最初には青山というのが来た。
次には九段新宿というのが来た。
が、いずれも万世橋の方から真直に進んで来るので彼はようやく安心した。
これでよもやの懸念もなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうというつもりで、彼は足の向を更えにかかった途端に、南から来た一台がぐるりと美土代町の角を回転して、また敬太郎の立っている傍でとまった。
彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣鴨の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気がついた。
三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真直に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、また右へ曲っても先刻彼の検分しておいた瀬戸物屋の前で降りられるのである。
そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから後を跟けようという黒い中折の男は、どっちへ降りるのだか、彼にはまるで見当がつかない事になるのである。
眼を走らせて、二本の赤い鉄柱の距離を目分量で測って見ると、一町には足りないくらいだが、いくら眼と鼻の間だからと云って、一方だけを専門にしてさえ覚束ない彼の監視力に対して、両方共手落なく見張り終せる手際を要求するのは、どれほど自分の敏腕を高く見積りたい今の敬太郎にも絶対の不可能であった。
彼は自分の住居っている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていたため、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気がつかずにいた自己の迂闊を深く後悔した。
彼は困却の余りふと思いついた窮策として、須永の助力でも借りに行こうかと考えた。
しかし時計はもう四時七分前に逼っていた。
ついこの裏通に住んでいる須永だけれども、門前まで駈けつける時間と、かい摘んで用事を呑み込ます時間を勘定に入れればとても間に合いそうにない。
よしそのくらいの間は取れるとしたところで、須永に一方の見張りを頼む以上は、もし例の紳士が彼のいる方へ降りるならば、何かの手段で敬太郎に合図をしなければならない。
それもこの人込の中だから、手を挙げたり手帛を振るぐらいではちょっと通じかねる。
紛れもなく敬太郎に分らせようとするには、往来を驚ろかすほどな大きな声で叫ぶに限ると云ってもいいくらいなものだが、そう云う突飛なよほどな場合でも体裁を重んずる須永のような男にできるはずがない。
万一我慢してやってくれたところで、こっちから駆けて行く間には、肝心の黒の中折帽を被った男の姿は見えなくなってしまわないとも云えない。
――こう考えた敬太郎はやむを得ないから運を天に任せてどっちか一方の停留所だけ守ろうと決心した。
二十六
決心はしたようなものの、それでは今立っている所を動かないための横着と同じ事になるので、わざと成効を度外に置いて仕事にかかった不安を感ぜずにはいられなかった。
彼は首を延ばすようにして、また東の停留所を望んだ。
位地のせいか、向の具合か、それとも自分が始終乗降に慣れている訳か、どうもそちらの方が陽気に見えた。
尋ねる人も何だか向で降りそうな心持がした。
彼はもう一度見張るステーションを移そうかと思いながら、なおかつ決しかねてしばらく躊躇していた。
するとそこへ江戸川行の電車が一台来てずるずるととまった。
誰も降者がないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちにまた車を出そうとした。
敬太郎は錦町へ抜ける細い横町を背にして、眼の前の車台にはほとんど気のつかないほど、ここにいようかあっちへ行こうかと迷っていた。
ところへ後の横町から突然馳け出して来た一人の男が、敬太郎を突き除けるようにして、ハンドルへ手をかけた運転手の台へ飛び上った。
敬太郎の驚ろきがまだ回復しないうちに、電車はがたりと云う音を出してすでに動き始めた。
飛び上がった男は硝子戸の内へ半分身体を入れながら失敬しましたと云った。
敬太郎はその男と顔を見合せた時、彼の最後の視線が、自分の足の下に落ちたのを注意した。
彼は敬太郎に当った拍子に、敬太郎の持っていた洋杖を蹴飛ばして、それを持主の手から地面の上へ振り落さしたのである。
敬太郎は直曲んで洋杖を拾い上げようとした。
彼はその時蛇の頭が偶然東向に倒れているのに気がついた。
そうしてその頭の恰好を何となしに、方角を教える指標のように感じた。
「やっぱり東が好かろう」 彼は早足に瀬戸物屋の前まで帰って来た。
そこで本郷三丁目と書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。
彼は最初の二三台を親の敵でも覘うように怖い眼つきで吟味した後、少し心に余裕ができるに連れて、腹の中がだんだん気丈になって来た。
彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と見傚して、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。
その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じように立っていた。
もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。
最後の一人は広場の真中に青と赤の旗を神聖な象徴のごとく振り分ける分別盛りの中年者であった。
そのうちでいつ出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた。
電車は入れ代り立ち代り彼の前にとまった。
乗るものは無理にも窮屈な箱の中に押し込もうとする、降りるものは権柄ずくで上から伸しかかって来る。
敬太郎はどこの何物とも知れない男女が聚まったり散ったりするために、自分の前で無作法に演じ出す一分時の争を何度となく見た。
けれども彼の目的とする黒の中折の男はいくら待っても出て来なかった。
ことに依ると、もうとうに西の停留所から降りてしまったものではなかろうかと思うと、こうして役にも立たない人の顔ばかり見つめて、眼のちらちらするほど一つ所に立っているのは、随分馬鹿気た所作に見えて来る。
敬太郎は下宿の机の前で熱に浮かされた人のように夢中で費やした先刻の二時間を、充分須永と打ち合せをして彼の援助を得るために利用した方が、遥かに常識に適った遣口だと考え出した。
彼がこの苦い気分を痛切に甞めさせられる頃から空はだんだん光を失なって、眼に映る物の色が一面に蒼く沈んで来た。
陰鬱な冬の夕暮を補なう瓦斯と電気の光がぽつぽつそこらの店硝子を彩どり始めた。
ふと気がついて見ると、敬太郎から一間ばかりの所に、廂髪に結った一人の若い女が立っていた。
電車の乗降が始まるたびに、彼は注意の余波を自分の左右に払っていたつもりなので、いつどっちから歩き寄ったか分らない婦人を思わぬ近くに見た時は、何より先にまずその存在に驚ろかされた。
二十七
女は年に合わして地味なコートを引き摺るように長く着ていた。
敬太郎は若い人の肉を飾る華麗な色をその裏に想像した。
女はまたわざとそれを世間から押し包むようにして立っていた。
襦袢の襟さえ羽二重の襟巻で隠していた。
その羽二重の白いのが、夕暮の逼るに連れて、空気から浮き出して来るほかに、女は身の周囲に何といって他の注意を惹くものを着けていなかった。
けれども時節柄に頓着なく、当人の好尚を示したこの一色が、敬太郎には何よりも際立って見えた。
彼は光の抜けて行く寒い空の下で、不調和な異な物に出逢った感じよりも、煤けた往来に冴々しい一点を認めた気分になって女の頸の辺を注意した。
女は敬太郎の視線を正面に受けた時、心持身体の向を変えた。
それでもなお落ちつかない様子をして、右の手を耳の所まで上げて、鬢から洩れた毛を後へ掻きやる風をした。
固より女の髪は綺麗に揃っていたのだから、敬太郎にはこの挙動が実のない科としてのみ映ったのだが、その手を見た時彼はまた新たな注意を女から強いられた。
女は普通の日本の女性のように絹の手袋を穿めていなかった。
きちりと合う山羊の革製ので、華奢な指をつつましやかに包んでいた。
それが色の着いた蝋を薄く手の甲に流したと見えるほど、肉と革がしっくりくっついたなり、一筋の皺も一分の弛みも余していなかった。
敬太郎は女の手を上げた時、この手袋が女の白い手頸を三寸も深く隠しているのに気がついた。
彼はそれぎり眼を転じてまた電車に向った。
けれども乗降の一混雑が済んで、思う人が出て来ないと、また心に二三分の余裕ができるので、それを利用しようと待ち構えるほどの執着はなかったにせよ、電車の通り越した相間相間には覚られないくらいの視力を使って常に女の方を注意していた。
始め彼はこの女を「本郷行」か「亀沢町行」に乗るのだろうと考えていた。
ところが両方の電車が一順廻って来て、自分の前に留っても、いっこう乗る様子がないので、彼は少々変に思った。
あるいは無理に込み合っている車台に乗って、押し潰されそうな窮屈を我慢するよりも、少し時間の浪費を怺えた方が差引得になるという主義の人かとも考えて見たが、満員という札もかけず、一つや二つの空席は充分ありそうなのが廻って来ても、女は少しも乗る素振を見せないので、敬太郎はいよいよ変に思った。
女は敬太郎から普通以上の注意を受けていると覚ったらしく、彼が少しでも手足の態度を改ためると、雨の降らないうちに傘を広げる人のように、わざと彼の観察を避ける準備をした。
そうして故意に反対の方を見たり、あるいは向うへ二三歩あるき出したりした。
それがため、妙に遠慮深いところのできた敬太郎はなるべく露骨に女の方を見るのを慎しんでいた。
がしまいにふと気がついて、この女は不案内のため、自分の勝手で好い加減にきめた停留所の前に来て、乗れもしない電車をいつまでも待っているのではなかろうかと思った。
それなら親切に教えてやるべきだという勇気が急に起ったので、彼は逡巡する気色もなく、真正面に女の方を向いた。
すると女はふいと歩き出して、二三間先の宝石商の窓際まで行ったなり、あたかも敬太郎の存在を認めぬもののごとくに、そこで額を窓硝子に着けるように、中に並べた指環だの、帯留だの枝珊瑚の置物だのを眺め始めた。
敬太郎は見ず知らずの他人に入らざる好意立をして、かえって自分と自分の品位を落したのを馬鹿らしく感じた。
女の容貌は始めから大したものではなかった。
真向に見るとそれほどでもないが、横から眺めた鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた。
その代り色が白くて、晴々しい心持のする眸を有っていた。
宝石商の電灯は今硝子越に彼女の鼻と、豊くらした頬の一部分と額とを照らして、斜かけに立っている敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な輪廓を与えた。
彼はその輪廓と、長いコートに包まれた恰好のいい彼女の姿とを胸に収めて、また電車の方に向った。
二十八
電車がまた二三台来た。
そうして二三台共また敬太郎の失望をくり返さして東へ去った。
彼は成功を思い切った人のごとくに帯の下から時計を出して眺めた。
五時はもうとうに過ぎていた。
彼は今更気がついたように、頭の上に被さる黒い空を仰いで、苦々しく舌打をした。
これほど骨を折って網を張った中へかからない鳥は、西の停留所から平気で逃げたんだと思うと、他を騙すためにわざわざ拵らえた婆さんの予言も、大事そうに持って出た竹の洋杖も、その洋杖が与えてくれた方角の暗示も、ことごとく忌々しさの種になった。
彼は暗い夜を欺むいて眼先にちらちらする電灯の光を見廻して、自分をその中心に見出した時、この明るい輝きも必竟自分の見残した夢の影なんだろうと考えた。
彼はそのくらい興を覚ましながらまだそのくらい寝惚けた心持を失わずに立っていたが、やがて早く下宿へ帰って正気の人間になろうという覚悟をした。
洋杖は自分の馬鹿を嘲ける記念だから、帰りがけに人の見ていない所で二つに折って、蛇の頭も鉄の輪の突がねもめちゃめちゃに、万世橋から御茶の水へ放り込んでやろうと決心した。
彼はすでに動こうとして一歩足を移しかけた時、また先刻の若い女の存在に気がついた。
女はいつの間にか宝石商の窓を離れて、元の通り彼から一間ばかりの所に立っていた。
背が高いので、手足も人尋常より恰好よく伸びたところを、彼は快よく始めから眺めたのだが、今度はことにその右の手が彼の心を惹いた。
女は自然のままにそれをすらりと垂れたなり、まるで他の注意を予期しないでいたのである。
彼は素直に調子の揃った五本の指と、しなやかな革で堅く括られた手頸と、手頸の袖口の間から微かに現われる肉の色を夜の光で認めた。
風の少ない晩であったが、動かないで長く一所に立ち尽すものに、寒さは辛く当った。
女は心持ち顋を襟巻の中に埋めて、俯目勝にじっとしていた。
敬太郎は自分の存在をわざと眼中に置かないようなこの眼遣の底に、かえって自分が気にかかっているらしい反証を得たと信じた。
彼が先刻から蚤取眼で、黒の中折帽を被った紳士を探している間、この女は彼と同じ鋭どい注意を集めて、観察の矢を絶えずこっちに射がけていたのではなかろうか。
彼はある男を探偵しつつ、またある女に探偵されつつ、一時間余をここに過ごしたのではなかろうか。
けれどもどこの何物とも知れない男の、何をするか分らない行動を、何のために探るのだか、彼には何らの考がなかったごとく、どこの何物とも知れない女から何を仕出かすか分らない人として何のために自分が覘われるのだか、そこへ行くとやはりまるで要領を得なかった。
敬太郎はこっちで少し歩き出して見せたら向うの様子がもっと鮮明に分るだろうという気になって、そろりそろりと派出所の後を西の方へ動いて行った。
もちろん女に勘づかれないために、彼は振向いて後を見る動作を固く憚かった。
けれどもいつまでも前ばかり見て先へ行っては、肝心の目的を達する機会がないので、彼は十間ほど来たと思う時分に、わざと見たくもない硝子窓を覗いて、そこに飾ってある天鵞絨の襟の着いた女の子のマントを眺める風をしながら、そっと後を振り向いた。
すると女は自分の背後にいるどころではなかった。
延び上ってもいろいろな人が自分を追越すように後から後から来る陰になって、白い襟巻も長いコートもさらに彼の眼に入らなかった。
彼はそのまま前へ進む勇気があるかを自分に疑ぐった。
黒い中折の帽子を被った人の事なら、定刻の五時を過ぎた今だから、断念してもそれほどの遺憾はないが、女の方はどんなつまらない結果に終ろうとも、最少し観察していたかった。
彼は女から自分が探偵されていると云う疑念を逆に投げ返して、こっちから女の行動を今しばらく注意して見ようという物数奇を起した。
彼は落し物を拾いに帰る人の急ぎ足で、また元の派出所近く来た。
そこの暗い陰に身を寄せるようにして窺うと、女は依然としてじっと通りの方を向いて立っていた。
敬太郎の戻った事にはまるで気がついていない風に見えた。
二十九
その時敬太郎の頭に、この女は処女だろうか細君だろうかという疑が起った。
女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる廂髪に結っているので、その辺の区別は始めから不分明だったのである。
が、いよいよ物陰に来て、半後になったその姿を眺めた時は、第一番にどっちの階級に属する人だろうという問題が、新たに彼を襲って来た。
見かけからいうとあるいは人に嫁いだ経験がありそうにも思われる。
しかし身体の発育が尋常より遥かに好いからことによれば年は存外取っていないのかも知れない。
それならなぜあんな地味な服装をしているのだろう。
敬太郎は婦人の着る着物の色や縞柄について、何をいう権利も有たない男だが、若い女ならこの陰鬱な師走の空気を跳ね返すように、派出な色を肉の上に重ねるものだぐらいの漠とした観察はあったのである。
彼はこの女が若々しい自分の血に高い熱を与える刺戟性の文をどこにも見せていないのを不思議に思った。
女の身に着けたものの内で、わずかに人の注意を惹くのは頸の周囲を包む羽二重の襟巻だけであるが、それはただ清いと云う感じを起す寒い色に過ぎなかった。
あとは冬枯の空と似合った長いコートですぽりと隠していた。
敬太郎は年に合わして余りに媚びる気分を失い過ぎたこの衣服を再び後から見て、どうしてもすでに男を知った結果だと判じた。
その上この女の態度にはどこか大人びた落ちつきがあった。
彼はその落ちつきを品性と教育からのみ来た所得とは見傚し得なかった。
家庭以外の空気に触れたため、初々しい羞恥が、手帛に振りかけた香水の香のように自然と抜けてしまったのではなかろうかと疑ぐった。
そればかりではない、この女の落ちつきの中には、落ちつかない筋肉の作用が、身体全体の運動となったり、眉や口の運動となって、ちょいちょい出て来るのを彼は先刻目撃した。
最も鋭敏に動くものはその眼であろうと彼は疾くに認めていた。
けれどもその鋭敏に動こうとする眼を、強いて動かすまいと力める女の態度もまた同時に認めない訳に行かなかった。
だからこの女の落ちつきは、自分で自分の神経を殺しているという自覚に伴なったものだと彼は勘定していた。
ところが今後から見た女は身体といい気分といい比較的沈静して両方の間に旨く調子が取れているように思われた。
彼女は先刻と違って、別段姿勢を改ためるでもなく、そろそろ歩き出すでもなく、宝石商の窓へ寄り添うでもなく、寒さを凌ぎかねる風情もなく、ほとんど閑雅とでも形容したい様子をして、一段高くなった人道の端に立っていた。
傍には次の電車を待ち合せる人が二三散らばっていた。
彼らは皆向うから来る車台を見つめて、早く自分の傍へ招き寄せたい風に見えた。
敬太郎が立ち退いたので大いに安心したらしい彼女は、その中で最も熱心に何かを待ち受ける一人となって、筋向うの曲り角をじっと注意し始めた。
敬太郎は派出所の陰を上へ廻って車道へ降りた。
そうしてペンキ塗の交番を楯に、巡査の立っている横から女の顔を覘うように見た。
そうしてその表情の変化にまた驚ろかされた。
今まで後姿を眺めて物陰にいた時は、彼女を包む一色の目立たないコートと、その背の高さと、大きな廂髪とを材料に、想像の国でむしろ自由過ぎる結論を弄あそんだのだが、こうして彼女の知らない間に、その顔を遠慮なく眺めて見ると、全く新らしい人に始めて出逢ったような気がしない訳に行かなかった。
要するに女は先刻より大変若く見えたのである。
切に何物かを待ち受けているその眼もその口も、ただ生々した一種華やかな気色に充ちて、それよりほかの表情は毫も見当らなかった。
敬太郎はそのうちに処女の無邪気ささえ認めた。
やがて女の見つめている方角から一台の電車が弓なりに曲った線路を、ぐるりと緩く廻転して来た。
それが女のいる前で滑るようにとまった時、中から二人の男が出た。
一人は紙で包んだボール箱のようなものを提げて、すたすた巡査の前を通り越して人道へ飛び上がったが、一人は降りると直に女の前に行って、そこに立ちどまった。
三十
敬太郎は女の笑い顔をこの時始めて見た。
唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初から眺めていたが、美くしい歯を露き出しに現わして、潤沢の饒かな黒い大きな眼を、上下の睫の触れ合うほど、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた。
敬太郎は女の笑い顔に見惚れると云うよりもむしろ驚ろいて相手の男に視線を移した。
するとその男の頭の上に黒い中折が乗っているのに気がついた。
外套は判切霜降とは見分けられなかったが、帽子と同じ暗い光を敬太郎の眸に投げた。
その上背は高かった。
瘠ぎすでもあった。
ただ年齢の点に至ると、敬太郎にはとかくの判断を下しかねた。
けれどもその人が寿命の度盛の上において、自分とは遥か隔たった向うにいる事だけはたしかなので、彼はこの男を躊躇なく四十恰好と認めた。
これだけの特点を前後なくほとんど同時に胸に入れ得た時、彼は自分が先刻から馬鹿を尽してつけ覘った本人がやっと今電車を降りたのだと断定しない訳に行かなかった。
彼は例刻の五時がとうの昔しに過ぎたのに、妙な酔興を起して、やはり同じ所にぶらついていた自分を仕合せだと思った。
その酔興を起させるため、自分の好奇心を釣りに若い女が偶然出て来てくれたのをありがたく思った。
さらにその若い女が自分の探す人を、自分よりも倍以上の自信と忍耐をもって、待ち終せたのを幸運の一つに数えた。
彼はこのXという男について、田口のために、ある知識を供給する事ができると共に、同じ知識がYという女に関する自分の好奇心を幾分か満足させ得るだろうと信じたからである。
男と女はまるで敬太郎の存在に気がつかなかったと見えて、前後左右に遠慮する気色もなく、なお立ちながら話していた。
女は始終微笑を洩らす事をやめなかった。
男も時々声を出して笑った。
二人が始めて顔を合わした時の挨拶の様子から見ても彼らはけっして疎遠な間柄ではなかった。
異性を繋ぎ合わせるようで、その実両方の仲を堰く、慇懃な男女間の礼義は彼らのどちらにも見出す事ができなかった。
男は帽子の縁に手をかける面倒さえあえてしなかった。
敬太郎はその鍔の下にあるべきはずの大きな黒子を面と向って是非突き留めたかった。
もし女がいなかったならば肉の上に取り残されたこの異様な一点を確かめるために、彼はつかつかと男の前へ進んで行って、何でも好いから、ただ口から出任せの質問をかけたかも知れない。
それでなくても、直ちに彼の傍へ近寄って、満足の行くまでその顔を覗き込んだろう。
この際そう云う大胆な行動を妨たげるものは、男の前に立っている例の女であった。
女が敬太郎の態度を悪く疑ぐったかどうかは問題として、彼の挙動に不審を抱いた様子は、同じ場所に長く立ち並んだ彼の目に親しく映じたところである。
それを承知しながら、再びその視線の内に、自分の顔を無遠慮に突き出すのは、多少紳士的でない上に、嫌疑の火の手をわざと強くして、自分の目的を自分で打ち毀すと同じ結果になる。
こう考えた敬太郎は、自然の順序として相応の機会が廻って来るまでは、黒子の有る無しを見届けるだけは差し控えた方が得策だろうと判断した。
その代り見え隠れに二人の後を跟けて、でき得るならば断片的でもいいから、彼らの談話を小耳に挟もうと覚悟した。
彼は先方の許諾を待たないで、彼らの言動を、ひそかに我胸に畳み込む事の徳義的価値について、別に良心の相談を受ける必要を認めなかった。
そうして自分の骨折から出る結果は、世故に通じた田口によって、必ず善意に利用されるものとただ淡泊に信じていた。
やがて男は女を誘なう風をした。
女は笑いながらそれを拒むように見えた。
しまいに半ば向き合っていた二人が、肩と肩を揃えて瀬戸物屋の軒端近く歩き寄った。
そこから手を組み合わせないばかりに並んで東の方へ歩き出した。
敬太郎は二三間早足に進んで、すぐ彼らの背後まで来た。
そうして自分の歩調を彼らと同じ速度に改ためた。
万一女に振り向かれても、疑惑を免かれるために、彼はけっして彼らの後姿には眼を注がなかった。
偶然前後して天下の往来を同じ方角に行くもののごとくに、故意とあらぬ方を見て歩いた。
三十一
「だって余まりだわ。こんなに人を待たしておいて」 敬太郎の耳に入った第一の言葉は、女の口から出たこういう意味の句であったが、これに対する男の答は全く聞き取れなかった。
それから五六間行ったと思う頃、二人の足が急に今までの歩調を失って、並んだ影法師がほとんど敬太郎の前に立ち塞がりそうにした。
敬太郎の方でも、後から向うに突き当らない限りは先へ通り抜けなければ跋が悪くなった。
彼は二人の後戻りを恐れて、急に傍にあった菓子屋の店先へ寄り添うように自分を片づけた。
そうしてそこに並んでいる大きな硝子壺の中のビスケットを見つめる風をしながら、二人の動くのを待った。
男は外套の中へ手を入れるように見えたが、それが済むと少し身体を横にして、下向きに右手で持ったものを店の灯に映した。
男の顔の下に光るものが金時計である事が、その時敬太郎に分った。
「まだ六時だよ。そんなに遅かあない」「遅いわあなた、六時なら。妾もう少しで帰るところよ」「どうも御気の毒さま」 二人はまた歩き出した。
敬太郎も壺入のビスケットを見棄ててその後に従がった。
二人は淡路町まで来てそこから駿河台下へ抜ける細い横町を曲った。
敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。
その時彼はその門口から射す強い光を浴びた男と女の顔を横から一眼見た。
彼らが停留所を離れる時、二人連れ立ってどこへ行くだろうか、敬太郎にはまるで想像もつかなかったのだが、突然こんな家へ入いられて見ると、何でもない所だけに、かえって案外の感に打たれざるを得なかった。
それは宝亭と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入をする家であった。
近頃普請をしてから新らしいペンキの色を半分電車通りに曝して、斜かけに立ち切られたような棟を南向に見せているのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。
彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麦酒の広告写真を仰ぎながら、肉刀と肉叉を凄まじく闘かわした数度の記憶さえ有っていた。
二人の行先については、これという明らかな希望も予期も無かったが、少しは紫がかった空気の匂う迷路の中に引き入れられるかも知れないくらいの感じが暗に働らいてこれまで後を跟けて来た敬太郎には、馬鈴薯や牛肉を揚げる油の臭が、台所からぷんぷん往来へ溢れる西洋料理屋は余りに平凡らしく見えた。
けれども自分のとても近寄れない幽玄な所へ姿を隠して、それぎり出て来ないよりは、遥かに都合が好いと考え直した彼は、二人の身体が、誰にでも近寄る事のできる、普通の洋食店のペンキの奥に囲われているのをむしろ心丈夫だと覚った。
幸い彼はこのくらいな程度の家で、冬空の外気に刺戟された食慾を充たすに足るほどの財布を懐中していた。
彼はすぐ二人の後を追ってそこの二階へ上ろうとしたが、電灯の強く往来へ射す門口まで来た時、ふと気がついた。
すでに女から顔を覚えられた以上、ほとんど同時に一つ二階へ押し上っては不味い。
ひょっとするとこの人は自分を跟けて来たのだという疑惑を故意先方に与える訳になる。
敬太郎は何気ない振をして、往来へ射す光を横切ったまま、黒い小路を一丁ばかり先へ歩いた。
そうしてその小路の尽きる坂下からまた黒い人となって、自分の影法師を自分の身体の中へ畳み込んだようにひっそりと明るい門口まで帰って来た。
それからその門を潜った。
時々来た事があるので、彼はこの家の勝手をほぼ承知していた。
下には客を通す部屋がなくって、二階と三階だけで用を弁じているが、よほど込み合わなければ三階へは案内しない、大抵は二階で済むのだから、上って右の奥か、左の横にある広間を覗けば、大抵二人の席が見えるに違ない、もしそこにいなかったら表の方の細長い室まで開けてやろうぐらいの考で、階段を上りかけると、白服の給仕が彼を案内すべく上り口に立っているのに気がついた。
三十二
敬太郎は手に持った洋杖をそのままに段々を上り切ったので、給仕は彼の席を定める前に、まずその洋杖を受取った。
同時にこちらへと云いながら背中を向けて、右手の広間へ彼を案内した。
彼は給仕の後から自分の洋杖がどこに落ちつくかを一目見届けた。
するとそこに先刻注意した黒の中折帽が掛っていた。
霜降らしい外套も、女の着ていた色合のコートも釣るしてあった。
給仕がその裾を動かして、竹の洋杖を突込んだ時、大きな模様を抜いた羽二重の裏が敬太郎の眼にちらついた。
彼は蛇の頭がコートの裏に隠れるのを待って、そらにその持主の方に眼を転じた。
幸いに女は男と向き合って、入口の方に背中ばかりを見せていた。
新らしい客の来た物音に、振り返りたい気があっても、ぐるりと廻るのが、いったん席に落ちついた品位を崩す恐があるので、必要のない限り、普通の婦人はそういう動作を避けたがるだろうと考えた敬太郎は、女の後姿を眺めながら、ひとまず安堵の思いをした。
女は彼の推察通りはたして後を向かなかった。
彼はその間に女の坐っているすぐ傍まで行って背中合せに第二列の食卓につこうとした。
その時男は顔を上げて、まだ腰もかけず向も改ためない敬太郎を見た。
彼の食卓の上には支那めいた鉢に植えた松と梅の盆栽が飾りつけてあった。
彼の前にはスープの皿があった。
彼はその中に大きな匙を落したなり敬太郎と顔を見合せたのである。
二人の間に横わる六尺に足らない距離は明らかな電灯が隈なく照らしていた。
卓上に掛けた白い布がまたこの明るさを助けるように、潔ぎいい光を四方の食卓から反射していた。
敬太郎はこういう都合のいい条件の具備した室で、男の顔を満足するまで見た。
そうしてその顔の眉と眉の間に、田口から通知のあった通り、大きな黒子を認めた。
この黒子を別にして、男の容貌にこれと云った特異な点はなかった。
眼も鼻も口も全く人並であった。
けれども離れ離れに見ると凡庸な道具が揃って、面長な顔の表にそれぞれの位地を占めた時、彼は尋常以上に品格のある紳士としか誰の目にも映らなかった。
敬太郎と顔を合せた時、スープの中に匙を入れたまま、啜る手をしばらくやめた態度などは、どこかにむしろ気高い風を帯びていた。
敬太郎はそれなり背中を彼の方に向けて自分の席に着いたが、探偵という文字に普通付着している意味を心のうちで考え出して、この男の風采態度と探偵とはとても釣り合わない性質のものだという気がした。
敬太郎から見ると、この人は探偵してしかるべき何物をも彼の人相の上に有っていなかったのである。
彼の顔の表に並んでいる眼鼻口のいずれを取っても、その奥に秘密を隠そうとするには、余りにできが尋常過ぎたのである。
彼は自分の席へ着いた時、田口から引き受けたこの宵の仕事に対する自分の興味が、すでに三分の一ばかり蒸発したような失望を感じた。
第一こんな性質の仕事を田口から引き受けた徳義上の可否さえ疑がわしくなった。
彼は自分の注文を通したなり、ポカンとして麺麭に手も触れずにいた。
男と女は彼らの傍に坐った新らしい客に幾分か遠慮の気味で、ちょっとの間話を途切らした。
けれども敬太郎の前に暖められた白い皿が現われる頃から、また少し調子づいたと見えて、二人の声が互違に敬太郎の耳に入った。
――「今夜はいけないよ。少し用があるから」「どんな用?」「どんな用って、大事な用さ。なかなかそう安くは話せない用だ」「あら好くってよ。妾ちゃんと知ってるわ。――さんざっぱら他を待たした癖に」 女は少し拗ねたような物の云い方をした。
男は四辺に遠慮する風で、低く笑った。
二人の会話はそれぎり静かになった。
やがて思い出したように男の声がした。
「何しろ今夜は少し遅いから止そうよ」「ちっとも遅かないわ。電車に乗って行きゃあ直じゃありませんか」 女が勧めている事も男が躊躇している事も敬太郎にはよく解った。
けれども彼らがどこへ行くつもりなのだか、その肝心な目的地になると、彼には何らの観念もなかった。
三十三
もう少し聞いている内にはあるいはあたりがつくかも知れないと思って、敬太郎は自分の前に残された皿の上の肉刀と、その傍に転がった赤い仁参の一切を眺めていた。
女はなお男を強いる事をやめない様子であった。
男はそのたびに何とかかとか云って逃れていた。
しかし相手を怒らせまいとする優しい態度はいつも変らなかった。
敬太郎の前に新らしい肉と青豌豆が運ばれる時分には、女もとうとう我を折り始めた。
敬太郎は心の内で、女がどこまでも剛情を張るか、でなければ男が好加減に降参するか、どっちかになればいいがと、ひそかに祈っていたのだから、思ったほど女の強くないのを発見した時は少なからず残念な気がした。
せめて二人の間に名を出す必要のないものとして略されつつあった目的地だけでも、何かの機会に小耳に挟んでおきたかったが、いよいよ話が纏まらないとなると、男女の問答は自然ほかへ移らなければならないので、当分その望みも絶えてしまった。
「じゃ行かなくってもいいから、あれをちょうだい」と、やがて女が云い出した。
「あれって、ただあれじゃ分らない」「ほらあれよ。こないだの。ね、分ったでしょう」「ちっとも分らない」「失敬ね、あなたは。ちゃんと分ってる癖に」 敬太郎はちょっと振り向いて後が見たくなった。
その時階段を踏む大きな音が聞こえて、三人ばかりの客がどやどやと一度に上って来た。
そのうちの一人はカーキー色の服に長靴を穿いた軍人であった。
そうして床の上を歩く音と共に、腰に釣るした剣をがちゃがちゃ鳴らした。
三人は上って左側の室へ案内された。
この物音が例の男と女の会話を攪き乱したため、敬太郎の好奇心もちらつく剣の光が落ちつくまで中途に停止していた。
「この間見せていただいたものよ。分って」 男は分ったとも分らないとも云わなかった。
敬太郎には無論想像さえつかなかった。
彼は女がなぜ淡泊に自分の欲しいというものの名を判切云ってくれないかを恨んだ。
彼は何とはなしにそれが知りたかったのである。
すると、「あんなもの今ここに持ってるもんかね」と男が云った。
「誰もここに持ってるって云やしないわ。ただちょうだいって云うのよ。今度でいいから」「そんなに欲しけりゃやってもいい。が……」「あッ嬉しい」 敬太郎はまた振り返って女の顔が見たくなった。
男の顔もついでに見ておきたかった。
けれども女と一直線になって、背中合せに坐っている自分の位置を考えると、この際そんな盲動は慎しまなければならないので、眼のやりどころに困るという風で、ただ正面をぽかんと見廻した。
すると勝手の上り口の方から、給仕が白い皿を二つ持って入って来て、それを古いのと引き更えに、二人の前へ置いて行った。
「小鳥だよ。食べないか」と男が云った。
「妾もうたくさん」 女は焼いた小鳥に手を触れない様子であった。
その代り暇のできた口を男よりは余計動かした。
二人の問答から察すると、女の男にくれと逼ったのは珊瑚樹の珠か何からしい。
男はこういう事に精通しているという口調で、いろいろな説明を女に与えていた。
が、それは敬太郎には興味もなければ、解りもしない好事家の嬉しがる知識に過ぎなかった。
練物で作ったのへ指先の紋を押しつけたりして、時々旨くごまかした贋物があるが、それは手障りがどこかざらざらするから、本当の古渡りとは直区別できるなどと叮嚀に女に教えていた。
敬太郎は前後を綜合わして、何でもよほど貴とい、また大変珍らしい、今時そう容易くは手に入らない時代のついた珠を、女が男から貰う約束をしたという事が解った。
「やるにはやるが、御前あんなものを貰って何にする気だい」「あなたこそ何になさるの。あんな物を持ってて、男の癖に」
三十四
しばらくして男は「御前御菓子を食べるかい、菓物にするかい」と女に聞いた。
女は「どっちでも好いわ」と答えた。
彼らの食事がようやく終りに近づいた合図とも見られるこの簡単な問答が、今までうっかりと二人の話に釣り込まれていた敬太郎に、たちまち自分の義務を注意するように響いた。
彼はこの料理屋を出た後の二人の行動をも観察する必要があるものとして、自分で自分の役割を作っていたのである。
彼は二人と同時に二階を下りる事の不得策を初めから承知していた。
後れて席を立つにしても、巻煙草を一本吸わない先に、夜と人と、雑沓と暗闇の中に、彼らの姿を見失なうのはたしかであった。
もし間違いなく彼らの影を踏んで後から喰付いて行こうとするなら、どうしても一足先へ出て、相手に気のつかない物陰か何かで、待ち合せるよりほかに仕方がないと考えた。
敬太郎は早く勘定を済ましておくに若くはないという気になって、早速給仕を呼んでビルを請求した。
男と女はまだ落ちついて話していた。
しかし二人の間に何というきまった題目も起らないので、それを種に意見や感情の交換も始まる機会はなく、ただだらしのない雲のようにそれからそれへと流れて行くだけに過ぎなかった。
男の特徴に数えられた眉と眉の間の黒子なども偶然女の口に上った。
「なぜそんな所に黒子なんぞができたんでしょう」「何も近頃になって急にできやしまいし、生れた時からあるんだ」「だけどさ。見っともなかなくって、そんな所にあって」「いくら見っともなくっても仕方がないよ。生れつきだから」「早く大学へ行って取って貰うといいわ」 敬太郎はこの時指洗椀の水に自分の顔の映るほど下を向いて、両手で自分の米噛を隠すように抑えながら、くすくすと笑った。
ところへ給仕が釣銭を盆に乗せて持って来た。
敬太郎はそっと立って目立たないように階段の上り口までおとなしく足を運ぶと、そこに立っていた給仕が大きな声で、「御立あち」と下へ知らせた。
同時に敬太郎は先刻給仕に預けた洋杖を取って来るのを忘れた事に気がついた。
その洋杖はいまだに室の隅に置いてある帽子掛の下に突き込まれたまま、女の長いコートの裾に隠されていた。
敬太郎は室の中にいる男女を憚かるように、抜き足で後戻りをして、静かにそれを取り出した。
彼が蛇の頭を握った時、すべすべした羽二重の裏と、柔かい外套の裏が、優しく手の甲に触れるのを彼は感じた。
彼はまた爪先で歩かないばかりに気をつけて階段の上まで来ると、そこから急に調子を変えて、とん、とん、とんと刻み足に下へ駆け下りた。
表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。
その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電灯の光を後にして立った。
こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れようが、または中川の角に添って連雀町の方へ抜けようが、あるいは門からすぐ小路伝いに駿河台下へ向おうが、どっちへ行こうと見逃す気遣はないと彼は心丈夫に洋杖を突いて、目指す家の門口を見守っていた。
彼は約十分ばかり待った後で、注意の焼点になる光の中に、いっこう人影が射さないのを不審に思い始めた。
やむを得ず二階を眺めてその窓だけ明るくなった奥を覗くように、彼らの早く席を立つ事を祈った。
そうして待ち草臥れた眼を移すごとに、屋根の上に広がる黒い空を仰いだ。
今まで地面の上を照らしている人間の光ばかりに欺むかれて、まるでその存在を忘れていたこの大きな夜は、暗い頭の上で、先刻から寒そうな雨を醸していたらしく、敬太郎の心を佗びしがらせた。
ふと考えると、今までは自分に遠慮してただの話をしていた二人が、自分の立ったのを幸いに、自分の役目として是非聞いておかなければならないような肝心の相談でもし始めたのではなかろうか。
彼はこの疑惑と共に黒い空を仰ぎながら、そのうちに二人の向き合った姿をありありと認めた。
三十五
彼はあまり注意深く立ち廻って、かえって洋食店の門を早く出過ぎたのを悔んだ。
けれども二人が彼に気兼をする以上は、たとい同じ席にいつまでも根が生えたように腰を据えていたところで、やっぱり普通の世間話よりほかに聞く訳には行かないのだから、よし今まで坐ったまま動かないものと仮定しても、その結果は早く席を立ったと、ほぼ同じ事になるのだと思うと、彼は寒いのを我慢しても、同じ所に見張っているより仕方なかった。
すると帽子の廂へ雨が二雫ほど落ちたような気がするので、彼はまた仰向いて黒い空を眺めた。
闇よりほかに何も眼を遮ぎらない頭の上は、彼の立っている電車通と違って非常に静であった。
彼は頬の上に一滴の雨を待ち受けるつもりで、久しく顔を上げたなり、恰好さえ分らない大きな暗いものを見つめている間に、今にも降り出すだろうという掛念をどこかへ失なって、こんな落ちついた空の下にいる自分が、なぜこんな落ちつかない真似を好んでやるのだろうと偶然考えた。
同時にすべての責任が自分の今突いている竹の洋杖にあるような気がした。
彼は例のごとく蛇の頭を握って、寒さに対する欝憤を晴らすごとくに、二三度それを烈しく振った。
その時待ち佗びた人の影法師が揃って洋食店の門口を出た。
敬太郎は何より先に女の細長い頸を包む白い襟巻に眼をつけた。
二人はすぐと大通りへ出て、敬太郎の向う側を、先刻とは反対の方角に、元来た道へ引き返しにかかった。
敬太郎も猶予なく向うへ渡った。
彼らは緩い歩調で、賑やかに飾った店先を軒ごとに覗くように足を運ばした。
後から跟いて行く敬太郎は是非共二人に釣り合った歩き方をしなければならないので、その遅過ぎるのがだいぶ苦になった。
男は香の高い葉巻を銜えて、行く行く夜の中へ微かな色を立てる煙を吐いた。
それが風の具合で後から従がう敬太郎の鼻を時々快ろよく侵した。
彼はその香いを嗅ぎ嗅ぎ鈍い足並を我慢して実直にその跡を踏んだ。
男は背が高いので後から見ると、ちょっと西洋人のように思われた。
それには彼の吹かしている強い葉巻が多少錯覚を助けた。
すると聯想がたちまち伴侶の方に移って、女が旦那から買って貰った革の手袋を穿めている洋妾のように思われた。
敬太郎がふとこういう空想を起して、おかしいと思いながらも、なお一人で興を催していると、二人は最前待ち合わした停留所の前まで来てちょっと立ちどまったが、やがてまた線路を横切って向側へ越した。
敬太郎も二人のする通りを真似た。
すると二人はまた美土代町の角をこちらから反対の側へ渡った。
敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。
二人はまた歩き出して南へ動いた。
角から半町ばかり来ると、そこにも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。
二人はその柱の傍へ寄って立った。
彼らはまた三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気がついた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した。
彼らは申し合せたように敬太郎の方を顧みた。
固より彼のいる方から電車が横町を曲って来るからではあるが、それにしても敬太郎は余り好い心持はしなかった。
彼は帽子の鍔をひっくり返して、ぐっと下へおろして見たり、手で顔を撫でて見たり、なるべく軒下へ身を寄せて見たり、わざと変な見当を眺めて見たりして、電車の現われるのをつらく待ち佗びた。
間もなく一台来た。
敬太郎はわざと二人の乗った後から這入って、嫌疑を避けようと工夫した。
それでしばらく後の方にぐずぐずしていると、女は例の長いコートの裾を踏まえないばかりに引き摺って車掌台の上に足を移した。
しかしあとから直続くと思った男は、案外上る気色もなく、足を揃えたまま、両手を外套の隠袋に突き差して立っていた。
敬太郎は女を見送りに男がわざわざここまで足を運んだのだという事にようやく気がついた。
実をいうと、彼は男よりも女の方に余計興味を持っていたのである。
男と女がここで分れるとすれば、無論男を捨てて女の先途だけを見届けたかった。
けれども自分が田口から依託されたのは女と関係のない黒い中折帽を被った男の行動だけなので、彼は我慢して車台に飛び上がるのを差し控えた。
三十六
女は車台に乗った時、ちょっと男に目礼したが、それぎり中へ這入ってしまった。
冬の夜の事だから、窓硝子はことごとく締め切ってあった。
女はことさらにそれを開けて内から首を出すほどの愛嬌も見せなかった。
それでも男はのっそり立って、車の動くのを待っていた。
車は動き出した。
二人の間に挨拶の交換がもう必要でないと認めたごとく、電力は急いで光る窓を南の方へ運び去った。
男はこの時口に銜えた葉巻を土の上に投げた。
それから足の向を変えてまた三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋の前でとまった。
そこは敬太郎が人に突き当られて、竹の洋杖を取り落した記憶の新らしい停留所であった。
彼は男の後を見え隠れにここまで跟いて来て、また見たくもない唐物屋の店先に飾ってある新柄の襟飾だの、絹帽だの、変り縞の膝掛だのを覗き込みながら、こう遠慮をするようでは、探偵の興も覚めるだけだと考えた。
女がすでに離れた以上、自分の仕事に飽が来たと云ってはすまないが、前同様であるべき窮屈の程度が急に著るしく感ぜられてならなかった。
彼の依頼されたのは中折の男が小川町で降りてから二時間内の行動に限られているのだから、もうこれで偵察の役目は済んだものとして、下宿へ帰って寝ようかとも思った。
そこへ男の待っている電車が来たと見えて、彼は長い手で鉄の棒を握るや否や瘠せた身体を体よくとまり切らない車台の上に乗せた。
今まで躊躇していた敬太郎は急にこの瞬間を失なってはという気が出たので、すぐ同じ車台に飛び上った。
車内はそれほど込みあっていなかったので、乗客は自由に互の顔を見合う余裕を充分持っていた。
敬太郎は箱の中に身体を入れると同時に、すでに席を占めた五六人から一度に視線を集められた。
そのうちには今坐ったばかりの中折の男のも交っていたが、彼の敬太郎を見た眼のうちには、おやという認識はあったが、つけ覘われているなという疑惑はさらに現われていなかった。
敬太郎はようやく伸び伸びした心持になって、男と同じ側を択って腰を掛けた。
この電車でどこへ連れて行かれる事かと思って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった。
彼は男が乗り換えさえすれば、自分も早速降りるつもりで、停留所へ来るごとに男の様子を窺がった。
男は始終隠袋へ手を突き込んだまま、多くは自分の正面かわが膝の上かを見ていた。
その様子を形容すると、何にも考えずに何か考え込んでいると云う風であった。
ところが九段下へかかった頃から、長い首を時々伸ばして、ある物を確かめたいように、窓の外を覗き出した。
敬太郎もつい釣り込まれて、見悪い外を透かすように眺めた。
やがて電車の走る響の中に、窓硝子にあたって摧ける雨の音が、ぽつりぽつりと耳元でし始めた。
彼は携えている竹の洋杖を眺めて、この代りに雨傘を持って来ればよかったと思い出した。
彼は洋食店以後、中折を被った男の人柄と、世の中にまるで疑をかけていないその眼つきとを注意した結果、この時ふと、こんな窮屈な思いをして、いらざる材料を集めるよるも、いっそ露骨にこっちから話しかけて、当人の許諾を得た事実だけを田口に報告した方が、今更遅蒔のようでも、まだ気が利いていやしないかと考えて、自分で自分を彼に紹介する便法を工夫し始めた。
そのうち電車はとうとう終点まで来た。
雨はますます烈しくなったと見えて、車がとまるとざあという音が急に彼の耳を襲った。
中折の男は困ったなと云いながら、外套の襟を立てて洋袴の裾を返した。
敬太郎は洋杖を突きながら立ち上った。
男は雨の中へ出ると、直寄って来る俥引を捕まえた。
敬太郎も後れないように一台雇った。
車夫は梶棒を上げながら、どちらへと聞いた。
敬太郎はあの車の後について行けと命じた。
車夫はへいと云ってむやみに馳け出した。
一筋道を矢来の交番の下まで来ると、車夫は又梶棒をとめて、旦那どっちへ行くんですと聞いた。
男の乗った車はいくら幌の内から延び上っても影さえ見えなかった。
敬太郎は車上に洋杖を突っ張ったまま、雨の音のする中で方角に迷った。
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