彼岸過迄

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十

第 20 章
彼かれはこの日ひ必要ひつような会見かいけんを都合つごうよく済ましすました後あと、新らしくあたらしく築地つきじに世帯せたいを持っもった友人ゆうじんの所ところへ廻っまわって、須永すながと彼かれの従妹じゅうまいとそれから彼かれの叔父おじに当るあたる田口たぐちとを想像そうぞうの糸いとで巧みたくみに継ぎ合せつぎあわせつつある一部いちぶ始終しじゅうを御馳走ごちそうに、晩ばんまで話し込むはなしこむ気きでいたのである。
けれども田口たぐちの門もんを出でて日比谷公園ひびやこうえんの傍そばに立ったった彼かれの頭あたまには、そんな余裕よゆうはさらになかった。
後姿うしろすがたを見みただけではあるが、在所ざいしょをすでに突き留めつきとめて、今いまその人ひとの家いえを尋ねたずねたのだという陽気ようきな心持こころもちは固よりもとよりなかった。
位置いちを求めもとめにここまで来きたという自覚じかくはなおなかった。
彼かれはただ屈辱くつじょくを感じかんじた結果けっかとして、腹はらを立てたてていただけである。
そうして自分じぶんを田口たぐちのような男おとこに紹介しょうかいした須永すながこそこの取扱とりあつかいに対したいして当然とうぜん責任せきにんを負わおわなくてはならないと感じかんじていた。
彼かれは帰りがけかえりがけに須永すながの所ところへ寄っよって、逐一ちくいち顛末てんまつを話しはなした上うえ、存分ぞんぶん文句もんくを並べならべてやろうと考えかんがえた。
それでまた電車でんしゃに乗っのって一直線いちちょくせんに小川おがわ町まちまで引返しひきかえして来きた。
時計とけいを見るみると、二に時じにはまだ二十にじゅう分ぶんほど間まがあった。
須永すながの家いえの前まえへ来きて、わざと往来おうらいから須永すなが須永すながと二に声こえばかり呼んよんで見みたが、いるのかいないのか二に階かいの障子しょうじは立てたて切っきったままついに開かひらかなかった。
もっとも彼かれは体裁ていさい家いえで、平生へいぜいからこういう呼び出しよびだし方ほうを田舎者いなかものらしいといって厭いやがっていたのだから、聞こえきこえても知らしらん顔かおをしているのではなかろうかと思っおもって、敬太郎けいたろうは正式せいしきに玄関げんかんの格子こうし口くちへかかった。
けれども取次とりつぎに出でた仲働なかばたらきの口くちから「午うま少しすこし過すぎに御ご出でましになりました」という言葉ことばを聞いきいた時じは、ちょっと張合はりあいが抜けぬけて少しすこしの間ま黙っだまって立ったっていた。
「風邪かぜを引いひいていたようでしたが」「はい、御ご風邪かぜを召しめしていらっしゃいましたが、今日きょうはだいぶ好いよいからとおっしゃって、御ご出かけでかけになりました」 敬太郎けいたろうは帰ろうかえろうとした。
仲働なかばたらきは「ちょっと御ご隠居いんきょさまに申し上げもうしあげますから」といって、敬太郎けいたろうを格子こうしのうちに待たしまたしたまま奥おくへ這入っはいった。
と思うおもうと襖ふすまの陰かげから須永すながの母ははの姿すがたが現われあらわれた。
背せの高いたかい面長おもながの下町風したまちかぜに品しなのある婦人ふじんであった。
「さあどうぞ。もうそのうち帰りかえりましょうから」 須永すながの母ははにこう云いいい出さだされたが最後さいご、江戸えど慣れなれない敬太郎けいたろうはどうそれを断っことわって外そとへ出でていいか、いまだにその心得こころえがなかった。
第一だいいちどこで断ることわる隙間すきまもないように、調子ちょうしの好いよい文句もんくがそれからそれへとずるずる彼かれの耳みみへ響いひびいて来るくるのである。
それが世間体せけんたいの好いよい御世辞ごせじと違っちがって、引き留めひきとめられているうちに、上っのぼっては迷惑めいわくだろうという遠慮えんりょがいつの間まにか失くなっなくなって、つい気の毒きのどくだから少しすこし話しはなして行こういこうという気きになるのである。
敬太郎けいたろうは云わいわれるままにとうとう例れいの書斎しょさいへ腰こしをおろした。
須永すながの母ははが御ご寒いさむいでしょうと云っいって、仕切りしきりの唐紙とうしを締めしめてくれたり、さあ御ご手てをお出しだしなさいと云っいって、佐倉さくらを埋けいけた火鉢ひばちを勧めすすめてくれたりするうちに、一時いちじ昂奮こうふんした彼かれの気分きぶんはしだいに落ちついおちついて来きた。
彼かれはシキしきとかいう白いしろい絹きぬへ秋田あきた蕗ふきを一いち面めんに大きくおおきく摺っすった襖ふすまの模様もようだの、唐桑からくわらしくてらてらした黄色いきいろい手焙てあぶりだのを眺めながめて、このしとやかで能弁のうべんな、人ひとを外すはずす事ことを知らしらないと云っいった風かぜの母ははと話はなしをした。
彼女かのじょの語るかたるところによると、須永すながは今日きょう矢来やらいの叔父おじの家いえへ行っいったのだそうである。
「じゃついでだから帰りかえりに小日向こひなたへ廻っまわって御寺おてら参りまいりをして来きておくれって申しもうしましたら、御ご母さんははさんは近頃ちかごろ無精むせいになったようですね、この間まも他ほかに代理だいりをさせたじゃありませんか、年ねんを取っとったせいかしらなんて悪口わるぐちを云いいい云いいい出でて参りまいりましたが、あれもねあなた、せんだって中なかから風邪かぜを引いひいて咽喉のどを痛めいためておりますので、今日きょうも何なんなら止しよした方ほうがいいじゃないかととめて見みましたが、やっぱり若いわかいものは用心ようじん深いぶかいようでもどこか我われ無むしゃらで、年寄としよりの云ういう事ことなどにはいっさい無頓着むとんちゃくでございますから……」 須永すながの留守るすへ行くいくと、彼かれの母ははは唯一ゆいいつの楽みたのしみのようにこういう調子ちょうしで伜せがれの話はなしをするのが常つねであった。
敬太郎けいたろうの方ほうで須永すながの評判ひょうばんでも持ち出そうもちだそうものなら、いつまででもその問題もんだいの後あとへ喰くえ付いついて来きて、容易よういに話頭わとうを改めあらためないのが例れいになっていた。
敬太郎けいたろうもそれにはだいぶ慣れなれているから、この際さいも向うむこうのいう通りとおりをただふんふんとおとなしく聞いきいて、一段落いちだんらくの来るくるのを待っまっていた。
十一じゅういち
そのうち話はなしがいつか肝心かんじんの須永すながを逸れそれて、矢来やらいの叔父おじという人ひとの方ほうへ移っうつって行っいった。
これは内幸町うちさいわいちょうと違っちがって、この御ご母さんははさんの実じつの弟おとうとに当るあたる男おとこだそうで、一種いっしゅの贅沢ぜいたく屋やのように敬太郎けいたろうは須永すながから聞いきいていた。
外套がいとうの裏うらは繻子しゅすでなくては見っともなくみっともなくて着きられないと云っいったり、要りいりもしないのに古渡りこわたりの更紗さらさ玉たまとか号しごうして、石いしだか珊瑚さんごだか分らわからないものを愛玩あいがんしたりする話はなしはいまだに覚えおぼえていた。
「何になんにもしないで贅沢ぜいたくに遊んあそんでいられるくらい好いよい事ことはないんだから、結構けっこうな御ご身分みぶんですね」と敬太郎けいたろうが云ういうのを引き取るひきとるように母ははは、「どうしてあなた、打ち明けうちあけた御ご話はなしが、まあどうにかこうにかやって行けるいけるというまでで、楽らくだの贅沢ぜいたくだのという段だんにはまだなかなかなのでございますからいけません」と打ち消しうちけした。
須永すながの親戚しんせきに当るあたる人ひとの財力ざいりょくが、さほど敬太郎けいたろうに関係かんけいのある訳わけでもないので、彼かれはそれなり黙っだまってしまった。
すると母ははは少しすこしでも談話だんわの途切れるとぎれるのを自分じぶんの過失かしつででもあるように、すぐ言葉ことばを継いつづいだ。
「それでも妹婿いもうとむこの方ほうは御蔭みかげさまで、何なんだかだって方々かたがたの会社かいしゃへ首くびを突っ込んつっこんでおりますから、この方ほうはまあ不自由ふじゆうなく暮しくらしておる模様もようでございますが、手前てまえ共ともや矢来やらいの弟おとうとなどになりますと、云わいわば、浪人ろうにん同様どうようで、昔むかしに比べくらべたら、尾羽おはうち枯らさからさないばかりの体たらくていたらくだって、よく弟おとうとともそう申しもうしては笑うわらうこってございますよ」 敬太郎けいたろうは何なんとなく自分じぶんの身の上みのうえを顧みかえりみて気恥かしいきはずかしい思おもうをした。
幸みゆきにさきがすらすら喋舌っしゃべってくれるので、こっちに受けうけ答こたえをする文句もんくを考えるかんがえる必要ひつようがないのをせめてもの得とくとして聞ききき続けつづけた。
「それにね、御承知ごしょうちの通りとおり市し蔵くらがああいう引っ込ひっこめ思案しあんの男おとこだもんでござんすから、私わたくしもただ学校がっこうを卒業そつぎょうさせただけでは、全くまったく心配しんぱいが抜けぬけませんので、まことに困りこまり切りきります。早くはやく気きに入っはいった嫁よめでも貰っもらって、年寄としよりに安心あんしんでもさせてくれるようにおしなと申しもうしますと、そう御ご母さんははさんの都合つごうのいいようにばかり世の中よのなかは行きゃいきゃしませんて、てんで相手あいてにしないんでございますよ。そんなら世話せわをしてくれる人ひとに頼んたのんで、どこへでもいいから、務つとむにでも出るでる気きになればまだしも、そんな事ことにはまたまるで無頓着むとんちゃくであなた……」 敬太郎けいたろうはこの点てんにおいて実際じっさい須永すながが横着おうちゃく過るすぎると平生へいぜいから思っおもっていた。
「余計よけいな事ことですが、少しすこし目上めうえの人ひとから意見いけんでもして上げるあげるようにしたらどうでしょう。今いま御ご話はなしの矢来やらいの叔父おじさんからでも」と全くまったく年寄としよりに同情どうじょうする気きで云っいった。
「ところがこれがまた大おおの交際こうさい嫌いやの変人へんじんでございまして、忠告ちゅうこくどころか、何なんだ銀行ぎんこうへ這入っはいって算盤そろばんなんかパチパチぱちぱち云わすいわすなんて馬鹿ばかがあるもんかと、こうでございますから頭あたまから相談そうだんにも何になんにもなりません。それをまた市し蔵くらが嬉しうれしがりますので。矢来やらいの叔父おじの方ほうが好きすきだとか気きが合うあうとか申しもうしちゃよく出かけでかけます。今日きょうなども日曜にちようじゃあるし御ご天気てんきは好しよしするから、内幸町うちさいわいちょうの叔父おじが大阪おおさかへ立つたつ前まえにちょっとあちらへ顔かおでも出せだせばいいのでございますけれども、やっぱり矢来やらいへ行くいくんだって、とうとう自分じぶんの好きすきな方ほうへ参りまいりました」 敬太郎けいたろうはこの時じ自分じぶんが今日きょう何なんのために馳け込むかけこむようにこの家いえを襲っおそったかの原因げんいんについて、また新らしくあたらしく考え出しかんがえだした。
彼かれは須永すながの顔かおを見みたら随分ずいぶん過激かげきな言葉ことばを使っつかってもその不都合ふつごうを責めせめた上うえ、僕ぼくはもう二に度どとあすこの門もんは潜らもぐらないつもりだから、そう思っおもってくれたまえぐらいの台詞せりふを云っいって帰るかえる気きでいたのに、肝心かんじんの須永すながは留守るすで、事情じじょうも何なんも知らしらない彼かれの母ははから、逆ささかさにいろいろな話はなしをしかけられたので、怒っどってやろうという気きは無論むろん抜けぬけてしまったのである。
が、それでも行きいきがかり上うえ、田口たぐちと会見かいけんを遂げとげ得とくなかった顛末てんまつだけは、一応いちおうこの母ははの耳みみへでも構わかまわないから入れいれておく必要ひつようがあるだろう。
それには話はなしの中なかに内幸町うちさいわいちょうへ行くいくとか行かいかないとかが問題もんだいになっている今いまが一番いちばんよかろう。
――こう敬太郎けいたろうは思っおもった。
十二じゅうに
「実じつはその内幸町うちさいわいちょうの方ほうへ今日きょう私わたくしも出でたんですが」と云いいい出すだすと、自分じぶんの息子むすこの事ことばかり考えかんがえていた母ははは、「おやそうでございましたか」とやっと気きがついてすまないという顔つきかおつきをした。
この間まから敬太郎けいたろうが躍起やっきになって口くちを探しさがしている事ことや、探しさがしあぐんで須永すながに紹介しょうかいを頼んたのんだ事ことや、須永すなががそれを引き受けひきうけて内幸町うちさいわいちょうの叔父おじに会えるあえるように周旋しゅうせんした事ことは、須永すながの傍そばにいる母ははとして彼女かのじょのことごとく見みたり聞いきいたりしたところであるから、行き届いいきとどいた人ひとなら先方せんぽうで何なんも云いいい出さださない前まえに、こっちからどんな模様もようですぐらいは聞いきいてやるべきだとでも思っおもったのだろう。
こう観察かんさつした敬太郎けいたろうは、この一句いっくを前置ぜんちに、今までいままでの成行なりゆきを残らのこらず話そうはなそうと力めりきめにかかったが、時々ときどき相手あいてから「そうでございますとも」とか、「本当ほんとうにまあ、間まの悪いわるい時じにはね」とか、どっちにも同情どうじょうしたような間投詞かんとうしが出るでるので、自分じぶんがむかっ腹むかっぱらを立てたてて悪わる体からだを吐いはいた事ことなどは話はなしのうちから綺麗きれいに抜いぬいてしまった。
須永すながの母ははは気の毒きのどくという言葉ことばを何なん遍へんもくり返しくりかえした後あとで、田口たぐちを弁護べんごするようにこんな事ことを云っいった。
――「そりゃあ実じつのところ忙しいいそがしい男おとこなので。妹いもうとなどもああして一いちつ家いえに住んすんでおりますようなものの、――何なんでごさんしょう。――落々らくらく話はなしのできるのはおそらく一いち週間しゅうかんに一いち日ひもございますまい。私わたくしが見みかねて要作ようさくさんいくら御ご金きんが儲かるもうかるたって、そう働はたらけらいて身体しんたいを壊しこわしちゃ何になんにもならないから、たまには骨休めほねやすめをなさいよ、身体しんたいが資本しほんじゃありませんかと申しもうしますと、おいらもそう思っおもってるんだが、それからそれへと用ようが湧いわいてくるんで、傍そばから掬つかくい出さださないと、用ようが腐っくさっちまうから仕方しかたがないなんて笑っわらって取り合いとりあいませんので。そうかと思うおもうとまた妹いもうとや娘むすめに今日きょうはこれから鎌倉かまくらへ伴れつれて行くいく、さあすぐ支度したくをしろって、まるで足元あしもとから鳥とりが立つたつように急き立てるせきたてる事こともございますが……」「御嬢ごじょうさんがおありなのですか」「ええ二人ふたりおります。いずれも年頃としごろでございますから、もうそろそろどこかへ片づけるかたづけるとか婿むこを取るとるとかしなければなりますまいが」「そのうちの一人ひとりの方ほうが、須永すなが君きみのところへ御ご出でになる訳わけでもないんですか」 母はははちょっと口籠っくちごもった。
敬太郎けいたろうもただ自分じぶんの好奇心こうきしんを満足まんぞくさせるためにあまり立ち入ったちいった質問しつもんをかけ過ぎすぎたと気きがついた。
何なんとかして話題わだいを転じようてんじようと考えかんがえているうちに、相手あいての方ほうで、「まあどうなりますか。親おや達とおるの考かんがえもございましょうし。当人とうにん達とおるの存じ寄りぞんじよりもしかと聞糺しききただして見みないと分りわかりませんし。私わたくしばかりでこうもしたい、ああもしたいといくら熱ねつ急きゅう思っおもってもこればかりは致し方いたしかたがございません」と何なんだか意味いみのありそうな事ことを云っいった。
一度いちど退きしりぞきかけた敬太郎けいたろうの好奇心こうきしんはこの答こたえでまた打ち返しうちかえして来きそうにしたが、善くよくないという克己心こっきしんにすぐ抑えおさえられた。
母はははなお田口たぐちの弁護べんごをした。
そんな忙がしいいそがしい身体しんたいだから、時じによると心こころにもない約束やくそく違いちがいなどをする事こともあるが、いったん引き受けひきうけた以上いじょうは忘れるわすれる男おとこではないから、まあ旅行りょこうから帰るかえるまで待っまって、緩かんくり会っかいったら宜かろうよかろうという注意ちゅういとも慰藉いしゃともつかない助言じょげんも与えあたえた。
「矢来やらいのはおっても会わあわん方ほうで、これは仕方しかたがございませんが、内幸町うちさいわいちょうのはいないでも都合つごうさえつけば馳はせけて帰っかえって来きて会うあうといった風かぜの性質せいしつでございますから、今度こんど旅行りょこうから帰っかえって来きさえすれば、こっちから何なんとも云っいってやらないでも、向うむこうできっと市し蔵くらのところへ何なんとか申しもうして参りまいりますよ。きっと」 こう云わいわれて見るみると、なるほどそういう人ひとらしいが、それはこっちがおとなしくしていればこそで、先刻せんこくのようにぷんぷん怒っどってはとうてい物ものにならないにきまり切っきっている。
しかし今更いまさらそれを打ち明けるうちあける訳わけには行かいかないので、敬太郎けいたろうはただ黙っだまっていた。
須永すながの母はははなお「あんな顔かおはしておりますが、見かけみかけによらない実意じついのある剽軽ひょうきん者ものでございますから」と云っいって一人ひとりで笑っわらった。
十三じゅうさん
剽軽ひょうきん者ものという言葉ことばは田口たぐちの風采ふうさいなり態度たいどなりに照り合わてりあわせて見みて、どうも敬太郎けいたろうの腑ふに落ちおちない形容けいようであった。
しかし実際じっさいを聞いきいて見るみると、なるほど当っあたっているところもあるように思わおもわれた。
田口たぐちは昔むかししある御ご茶屋ちゃやへ行っいって、姉さんあねさんこの電気灯でんきとうは熱りいきり過ぎるすぎるね、もう少しすこし暗くくらくしておくれと頼んたのんだ事ことがあるそうだ。
下女げじょが怪訝けげんな顔かおをして小さいちいさい球たまと取り換えとりかえましょうかと聞くきくと、いいえさ、そこをちょいと捻っひねって暗くくらくするんだと真面目まじめに云いいいつけるので、下女げじょはこれは電気灯でんきとうのない田舎いなかから出でて来きた人ひとに違いないと見みて取っとったものか、くすくす笑いわらいながら、旦那だんな電気でんきはランプらんぷと違っちがって捻っひねったって暗くくらくはなりませんよ、消えきえちまうだけですから。
ほらねとぱちッぱちっと音おとをさせて座敷ざしきを真暗まっくらにした上うえ、またぱっと元もと通りとおりに明るくあかるくするかと思うおもうと、大きなおおきな声こえでばあと云っいった。
田口たぐちは少しすこしも悄然しょうぜんずに、おやおやまだ旧式きゅうしきを使っつかってるね。
見っともないみっともないじゃないか、ここの家いえにも似合わにあわないこった。
早くはやく会社かいしゃの方ほうへ改良かいりょうを申し込んもうしこんでおくといい。
順番じゅんばんに直しなおしてくれるから。
とさももっともらしい忠告ちゅうこくを与えあたえたので、下女げじょもとうとう真しんに受け出しうけだして、本当ほんとうにこれじゃ不便ふべんね、だいち点けつけっ放しっぱなしで寝るねる時じなんか明るあかる過ぎすぎて、困るこまる人ひとが多いおおいでしょうからとさも感心かんしんしたらしく、改良かいりょうに賛成さんせいしたそうである。
ある時じ用事ようじが出来できて門司もじとか馬関ばかんとかまで行っいった時じの話はなしはこれよりもよほど念ねんが入っはいっている。
いっしょに行くいくべきはずのAという男おとこに差支さしつかえが起っおこって、二に日ひばかり彼かれは宿屋やどやで待ち合わしまちあわしていた。
その間まの退屈たいくつ紛れまぎれに、彼かれはAを一いちつ担いにないでやろうと巧たくみらんだ。
これは町まちを歩いあるいている時じ、一いち軒のきの写真屋しゃしんやの店先みせさきでふと思いついおもいついた悪戯いたずらで、彼かれはその店みせから地方ちほうの芸者げいしゃの写真しゃしんを一いち枚ばい買っかったのである。
その裏うらへA様ようと書いかいて、手紙てがみを添えそえた贈物おくりもののように拵えこしらえた。
その手紙てがみは女おんなを一人ひとり雇っやとって、充分じゅうぶんの時間じかんを与えあたえた上うえ、できるだけAの心こころを動かすうごかすように艶めかしくなまめかしく曲らきょくらしたもので、誰だれが貰っもらっても嬉しいうれしい顔かおをするに足るたるばかりか、今日きょうの新聞しんぶんを見みたら、明日あすここへ御着おきのはずだと出でていたので、久しぶりひさしぶりにこの手紙てがみを上げるあげるんだから、どうか読みよみしだい、どこそこまで来きていただきたいと書いかいたなかなか安くやすくないものであった。
彼かれはその晩ばん自分じぶんでこの手紙てがみをポストぽすとへ入れいれて、翌日よくじつ配達はいたつの時じまたそれを自分じぶんで受取っうけとったなり、Aの来るくるのを待ち受けまちうけた。
Aが着いついても彼かれはこの手紙てがみをなかなか出さださなかった。
力めりきめて真面目まじめな用談ようだんについての打合せうちあわせなどを大事だいじらしくし続けつづけて、やっと同じおなじ食卓しょくたくで晩餐ばんさんの膳ぜんに向っむかった時じ、突然とつぜん思い出しおもいだしたように袂たもとの中なかからそれを取り出しとりだしてAに与えあたえた。
Aは表ひょうに至急しきゅう親展しんてんとあるので、ちょっと箸はしを下したに置くおくと、すぐ封ふうを開いひらいたが、少しすこし読み下すよみくだすと同時どうじに包んつつんである写真しゃしんを抜いぬいて裏うらを見るみるや否いなや、急きゅうに丸めるまるめるように懐ふところへ入れいれてしまった。
何なんか急きゅうの用ようでもできたのかと聞くきくと、いや何なんというばかりで、不得要領ふとくようりょうにまた箸はしを取っとったが、どことなくそわそわした様子ようすで、まだ段落だんらくのつかない用談ようだんをそのままに、少しすこし失礼しつれいする腹はらが痛いいたいからと云っいって自分じぶんの部屋へやに帰っかえった。
田口たぐちは下女げじょを呼んよんで、今いまから十五じゅうご分ぶん以内いないにAが外出がいしゅつするだろうから、出るでるときは車くるまが待っまってでもいたように、Aが何になんにも云わいわない先さきに彼かれを乗せのせて馳はせけ出しけだして、その思わくおもわく通りとおりどこの何なんという家いえの門もんへおろすようにしろと云いいいつけた。
そうして自分じぶんはAより早くはやく同じおなじ家いえへ行っいって、主婦しゅふを呼ぶよぶや否いなや、今いまおれの宿やどの提灯ちょうちんを点けつけた車くるまに乗っのって、これこれの男おとこが来るくるから、来きたらすぐ綺麗きれいな座敷ざしきへ通しとおして、叮嚀ていねいに取扱っとりあつかって、向うむこうで何になんにも云わいわない先さきに、御ご連れん様ようはとうから御ご待兼まちかねでございますと云っいったなり引きひき退がっさがって、すぐおれのところへ知らしらせてくれと頼んたのんだ。
そうして一人ひとりで煙草たばこを吹かしふかして腕組うでぐみをしながら、事件じけんの経過けいかを待っまっていた。
すると万事ばんじが旨いうまい具合ぐあいに予定よていの通りとおり進行しんこうして、いよいよ自分じぶんの出るでる順じゅんが来きた。
そこでAの部屋へやの傍そばへ行っいって間まの襖ふすまを開けあけながら、やあ早かっはやかったねと挨拶あいさつすると、Aは顔かおの色いろを変えかえて驚ろいおどろいた。
田口たぐちはその前まえへ坐り込んすわりこんで、実じつはこれこれだと残らのこらず自分じぶんの悪戯いたずらを話しはなした上うえ、「担いにないだ代りかわりに今夜こんやは僕ぼくが奢るおごるよ」と笑いわらいながら云っいったんだという。
「こういう飄ひょう気きた真似まねをする男おとこなんでございますから」と須永すながの母ははも話しはなした後あとでおかしそうに笑っわらった。
敬太郎けいたろうはあの自働じどう車くるまはまさか悪戯いたずらじゃなかったろうと考えかんがえながら下宿げしゅくへ帰っかえった。
十四じゅうよん
自動車じどうしゃ事件じけん以後いご敬太郎けいたろうはもう田口たぐちの世話せわになる見込みこみはないものと諦たいらめた。
それと同時どうじに須永すながの従弟じゅうていと仮定かていされた例れいの後姿うしろすがたの正体しょうたいも、ほぼ発端ほったんの入口いりぐちに当たるあたる浅いあさいところでぱたりと行きいきとまったのだと思うおもうと、その底そこにはがゆいようなまた煮切らにきらないような不愉快ふゆかいがあった。
彼かれは今日きょうまで何なん一いちつ自分じぶんの力ちからで、先さきへ突き抜けつきぬけたという自覚じかくを有っあっていなかった。
勉強べんきょうだろうが、運動うんどうだろうが、その他ほか何事なにごとに限らかぎらず本気ほんきにやりかけて、貫ぬきつらぬき終おわりせた試みがなかった。
生れうまれてからたった一いちつ行けるいけるところまで行っいったのは、大学だいがくを卒業そつぎょうしたくらいなものである。
それすら精せいを出さださずにとぐろばかり巻きまきたがっているのを、向むかいで引き摺りひきずり出しだしてくれたのだから、中途ちゅうとで動けうごけなくなった間怠まだるさのない代りかわりには、やっとの思いおもいで井戸いどを掘り抜いほりぬいた時じの晴々はればれした心持こころもちも知らしらなかった。
彼かれはぼんやりして四五しご日ひ過ぎすぎた。
ふと学生時代がくせいじだいに学校がっこうへ招待しょうたいしたある宗教家しゅうきょうかの談話だんわを思い出しおもいだした。
その宗教家しゅうきょうかは家庭かていにも社会しゃかいにも何なんの不満ふまんもない身分みぶんだのに、自からみずから進んすすんで坊主ぼうずになった人ひとで、その当時とうじの事情じじょうを述べるのべる時じに、どうしても不思議ふしぎでたまらないからこの道みちに入っはいって見みたと云っいった。
この人ひとはどんな朗らかほがらかに透き徹るすきとおるような空そらの下したに立ったっても、四方しほうから閉じ込めとじこめられているような気きがして苦しかっくるしかったのだそうである。
樹きを見みても家いえを見みても往来おうらいを歩くあるく人間にんげんを見みても鮮かあざやかに見えみえながら、自分じぶんだけ硝子がらす張ちょうの箱ばこの中なかに入れいれられて、外そとの物ものと直じかに続いつづいていない心持こころもちが絶えたえずして、しまいには窒息ちっそくするほど苦しくくるしくなって来るくるんだという。
敬太郎けいたろうはこの話はなしを聞いきいて、それは一種いっしゅの神経しんけい病やまいに罹っかかっていたのではなかろうかと疑っうたがったなり、今日きょうまで気きにもかけずにいた。
しかしこの四五しご日ひぼんやり屈託くったくしているうちによくよく考えかんがえて見るみると、彼かれ自身じしんが今までいままでに、何なん一いちつ突き抜いつきぬいて痛快つうかいだという感じかんじを得とくた事ことのないのは、坊主ぼうずにならない前まえのこの宗教家しゅうきょうかの心こころにどこか似にた点てんがあるようである。
もちろん自分じぶんのは比較ひかくにならないほど微弱びじゃくで、しかも性質せいしつがまるで違っちがっているから、この坊ぼうさんのようにえらい勇断ゆうだんをする必要ひつようはない。
もう少しすこし奮発ふんぱつして気張るきばる事ことさえ覚えれおぼえれば、当っあたっても外れはずれても、今いまよりはまだ痛快つうかいに生きいきて行かいかれるのに、今日きょうまでついぞそこに心こころを用いるもちいる事ことをしなかったのである。
敬太郎けいたろうは一人ひとりでこう考えかんがえて、どこへでも進んすすんで行こういこうと思っおもったが、また一方いっぽうでは、もうすっぽ抜けすっぽぬけの後あとの祭まつりのような気きがして、何なんという当とうもなくまた三四さんよん日ひぶらぶらと暮しくらした。
その間まに有ゆう楽座らくざへ行っいったり、落語らくごを聞いきいたり、友達ともだちと話しはなしたり、往来おうらいを歩いあるいたり、いろいろやったが、いずれも薬缶やかん頭あたまを攫むつかむと同じおなじ事ことで、世の中よのなかは少しすこしも手てに握れにぎれなかった。
彼かれは碁ごを打ちうちたいのに、碁ごを見せみせられるという感じかんじがした。
そうして同じおなじ見せみせられるなら、もう少しすこし面白いおもしろい波瀾はらん曲折きょくせつのある碁ごが見みたいと思っおもった。
すると直じか須永すながと後姿うしろすがたの女おんなとの関係かんけいが想像そうぞうされた。
もともと頭あたまの中なかでむやみに色沢しきたくを着けつけて奥行おくゆきのあるように組み立てるくみたてるほどの関係かんけいでもあるまいし、あったところが他ほかの事ことを余計よけいなおせっかいだと、自分じぶんで自分じぶんを嘲けりあざけりながら、ああ馬鹿ばからしいと思うおもう後あとから、やっぱり何なんかあるだろうという好奇心こうきしんが今いまのようにちょいちょいと閃めいひらめいて来るくるのである。
そうしてこの道みちをもう少しすこし辛抱しんぼう強くつよく先さきへ押しおして行っいったら、自分じぶんが今までいままで経験けいけんした事ことのない浪漫ろまん的まとな或ある物ものにぶつかるかも知れしれないと考えかんがえ出すだす。
すると田口たぐちの玄関げんかんで怒っどったなり、あの女おんなの研究けんきゅうまで投げなげてしまった自分じぶんの短気たんきを、自分じぶんの好奇心こうきしんに釣り合わつりあわない弱味よわみだと思いおもい始めるはじめる。
職業しょくぎょうについても、あんな些細ささいな行違ゆきちがいのために愛想あいそづかしをたとい一句いっくでも口くちにして、自分じぶんと田口たぐちの敷居しきいを高くたかくするはずではなかったと思うおもう。
あれでできるともできないとも、まだ方ほうのつかない未来みらいを中途半端ちゅうとはんぱに仕切っしきってしまった。
そうして好んこのんで煮きらにきらない思いおもいに悩んなやんでいる姿すがたになってしまった。
須永すながの母ははの保証ほしょうするところでは、田口たぐちという老人ろうじんは見かけみかけに寄らよらない親切気しんせつきのある人ひとだそうだから、あるいは旅行りょこうから帰っかえって来きた上うえで、また改めてあらためて会っかいってくれないとも限らかぎらない。
が、こっちからもう一遍いちぺん会見かいけんの都合つごうを問い合せといあわせたりなどして、常識じょうしきのない馬鹿ばかだと軽けい蔑まさげすまれてもつまらない。
けれどもどの道どのみち突き抜けつきぬけた心持こころもちをしっかり捕まえるつかまえるためには馬鹿ばかと云わいわれるまでも、そこまで突っかけつっかけて行くいく必要ひつようがあるだろう。
――敬太郎けいたろうは屈託くったくしながらもいろいろ考えかんがえた。
十五じゅうご
けれども身みの一大事いちだいじを即座そくざに決定けっていするという非常ひじょうな場合ばあいと違っちがって、敬太郎けいたろうの思案しあんには屈託くったくの裏うらに、どこか呑気のんきなものがふわふわしていた。
この道みちをとどのつまりまで進んすすんで見ようみようか、またはこれぎりやめにして、さらに新らしいあたらしいものに移るうつる支度したくをしようか。
問題もんだいは煎じつめるせんじつめるまでもなく当初とうしょから至極しごく簡単かんたんにでき上っできあがっていたのである。
それに迷うまようのは、一度いちど籤くじを引きひき損なっそこなったが最後さいご、もう浮ぶうかぶ瀬せはないという非道いひどい目めに会うあうからではなくって、どっちに転んころんでも大したたいした影響えいきょうが起らおこらないため、どうでも好いよいという怠けなまけた心持こころもちがいつしらず働はたらけらくからである。
彼かれは眠いねむい時じに本ほんを読むよむ人ひとが、眠気ねむけに抵抗ていこうする努力どりょくを厭いいといながら、文字もじの意味いみを判明はんめい頭あたまに入れよういれようと試みるこころみるごとく、呑気のんきの懐ふところで決断けつだんの卵たまごを温めあたためている癖くせに、ただ旨くうまく孵化ふからない事ことばかり苦くにしていた。
この不ふ決断けつだんを逃れのがれなければという口実こうじつの下したに、彼かれは暗にあんに自分じぶんの物もの数奇すうきに媚びようこびようとした。
そうして自分じぶんの未来みらいを売卜ばいぼく者ものの八卦はっけに訴えうったえて判断はんだんして見るみる気きになった。
彼かれは加持かじ、祈祷きとう、御ご封ふう、虫むし封じふうじ、降こう巫ふの類るいに、全然ぜんぜん信仰しんこうを有つあつほど、非ひ科学的かがくてきに教育きょういくされてはいなかったが、それ相当そうとうの興味きょうみは、いずれに対したいしても昔むかしから今日きょうまで失わうしなわずに成長せいちょうした男おとこである。
彼かれの父ちちは方位ほうい九星きゅうせいに詳しいくわしい神経しんけい家いえであった。
彼かれが小学校しょうがっこうへ行くいく時分じぶんの事ことであったが、ある日曜日にちようひに、彼かれの父ちちは尻しりを端折っはしょって、鍬くわを担たんついだまま庭にわへ飛び下りるとびおりるから、何なんをするのかと思っおもって、後あとから跟いて行こういこうとすると、父ちちは敬太郎けいたろうに向っむかって、御前ごぜんはそこにいて、時計とけいを見みていろ、そうして十二じゅうに時じが鳴りなり出しだしたら、大きなおおきな声こえを出しだして合図あいずをしてくれ、すると御ご父さんちちさんがあの乾いぬいに当るあたる梅うめの根っこねっこを掘りほり始めるはじめるからと云いいいつけた。
敬太郎けいたろうは子供心こどもこころにまた例れいの家相かそうだと思っおもって、時計とけいがちんと鳴りなり出すだすや否いなや命令めいれい通りとおり、十二じゅうに時じですようと大きなおおきな声こえで叫んさけんだ。
それで、その場ばは無事ぶじに済んすんだが、あれほど正確せいかくに鍬くわを下ろすおろすつもりなら、肝心かんじんの時計とけいが狂っくるっていないようにあらかじめ直しなおしておかなくてはならないはずだのにと敬太郎けいたろうは父ちちの迂闊うかつをおかしく思っおもった。
学校がっこうの時計とけいと自分じぶんの家いえのとはその時じ二に十分じゅうふん近くちかく違っちがっていたからである。
ところがその後あと摘草つみくさに行っいった帰りかえりに、馬うまに蹴らけられて土堤どていから下したへ転がり落ちころがりおちた事ことがある。
不思議ふしぎに怪我けがも何なんもしなかったのを、御ご祖母そぼさんが大層たいそう喜んよろこんで、全くまったく御ご地蔵じぞう様ようが御前ごぜんの身代りみがわりに立ったって下さっくださった御蔭みかげだこれ御覧ごらんと云っいって、馬うまの繋いつないであった傍そばにある石地せきち蔵くらの前まえに連れつれて行くいくと、石いしの首くびがぽくりと欠けかけて、涎掛よだれかけだけが残っのこっていた。
敬太郎けいたろうの頭あたまにはその時じから怪しいあやしい色いろをした雲くもが少しすこし流れ込んながれこんだ。
その雲くもが身体しんたいの具合ぐあいや四辺しへんの事情じじょうで、濃くこくなったり薄くうすくなったりする変化へんかはあるが、成長せいちょうした今日きょうに至るいたるまで、いまだに抜けぬけ切らきらずにいた事ことだけはたしかである。
こういう訳わけで、彼かれは明治めいじの世よに伝わるつたわる面白いおもしろい職業しょくぎょうの一いちつとして、いつでも大道だいどう占いうらないの弓張提灯ゆみはりちょうちんを眺めながめていた。
もっとも金きんを払っはらって筮竹ぜいちくの音おとを聞くきくほどの熱心ねっしんはなかったが、散歩さんぽのついでに、寒いさむい顔かおを提灯ちょうちんの光ひかりに映しうつした女おんななどが、悄然しょうぜんそこに立ったっているのを見かけるみかけると、この暗いくらい影かげを未来みらいに投げなげて、思案しあんに沈んしずんでいる憐れあわれな人ひとに、易者えきしゃがどんな希望きぼうと不安ふあんと畏怖いふと自信じしんとを与えるあたえるだろうという好奇心こうきしんに惹かさひかされて、面白おもしろ半分はんぶん、そっと傍そばへ寄っよって、陰かげの方ほうから立聞りつぶんをする事ことがしばしばあった。
彼かれの友ともの某ぼうが、自分じぶんの脳のう力ちからに悲観ひかんして、試験しけんを受けよううけようか学校がっこうをやめようかと思い煩っおもいわずらっている頃ころ、ある人ひとが旅行りょこうのついでに、善光寺ぜんこうじ如来にょらいの御ご神籤みくじをいただいて第だい五十五ごじゅうごの吉きちというのを郵便ゆうびんで送っおくってくれたら、その中なかに雲くも散じさんじて月つき重ねかさねて明らかあきらかなり、という句くと、花はな発いあばいて再びふたたび重栄おもさかえという句くがあったので、物ものは試しためしだからまあ受けうけて見ようみようと云っいって、受けうけたら綺麗きれいに及第きゅうだいした時じ、彼かれは興きょうに乗っのって、方々かたがたの神社じんじゃで手当りてあたりしだい御神籤おみくじをいただき廻っまわった事ことさえある。
しかもそれは別べつにこれという目的もくてきなしにいただいたのだから彼かれは平生へいぜいでも、優にゆうに売卜ばいぼく者ものの顧客こきゃくになる資格しかくを充分じゅうぶん具えそなえていたに違いない。
その代りかわり今度こんどのような場合ばあいにも、どこか慰さみがてらに、まあやって見ようみようという浮気うわきがだいぶ交っかっていた。
十六じゅうろく
敬太郎けいたろうはどこの占うらないない者ものに行っいったものかと考えかんがえて見みたが、あいにくどこという当とうもなかった。
白山はくさんの裏うらとか、芝しば公園こうえんの中なかとか、銀座ぎんざ何なん丁目ちょうめとか今までいままでに名前なまえを聞いきいたのは二三にさん軒のきあるが、むやみに流行るはやるのは山師やましらしくって行くいく気きにならず、と云っいって、自分じぶんで嘘うそと知りしりつつ出鱈目でたらめを強いつよいてもっともらしく述べるのべる奴やつはなお不都合ふつごうであるし、できるならば余りあまり人ひとの込み合わこみあわない家いえで、閑静かんせいな髯ひげを生やしはやした爺じいさんが奇警きけいな言葉ことばで、簡潔かんけつにすぱすぱと道みちい破っやぶってくれるのがどこかにいればいいがと思っおもった。
そう思いおもいながら、彼かれは自分じぶんの父ちちがよく相談そうだんに出かけでかけた、郷里きょうりの一いち本寺ほんじの隠居いんきょの顔かおを頭あたまの中なかに描き出しえがきだした。
それからふと気きがついて、考えるかんがえるんだかただ坐っすわっているんだか分らわからない自分じぶんの様子ようすが馬鹿馬鹿しくばかばかしくなったので、とにかく出でてそこいらを歩いあるいてるうちに、運命うんめいが自分じぶんを誘い込むさそいこむような占うらないない者ものの看板かんばんにぶつかるだろうという漠然ばくぜんたる頭あたまに帽子ぼうしを載せのせた。
彼かれは久しぶりひさしぶりに下谷したやの車坂くるまざかへ出でて、あれから東ひがしへ真直まっすぐに、寺てらの門もんだの、仏師ぶっし屋やだの、古ふる臭いくさい生薬しょうやく屋やだの、徳川とくがわ時代じだいのがらくたを埃ほこりといっしょに並べならべた道具屋どうぐやだのを左右さゆうに見みながら、わざと門跡もんぜきの中なかを抜けぬけて、奴やつ鰻うなぎの角かくへ出でた。
彼かれは小供こどもの時分じぶんよく江戸えど時代じだいの浅草あさくさを知っしっている彼かれの祖父そふさんから、しばしば観音かんのん様ようの繁華はんかを耳みみにした。
仲見世なかみせだの、奥山おくやまだの、並木なみきだの、駒形こまがただの、いろいろ云っいって聞かさきかされる中なかには、今いまの人ひとがあまり口くちにしない名前なまえさえあった。
広小路ひろこうじに菜飯なめしと田楽でんがくを食わくわせるすみ屋やという洒落しゃれた家いえがあるとか、駒形こまがたの御堂みどうの前まえの綺麗きれいな縄なわ暖簾のれんを下げさげた鰌屋は昔むかししから名代なだいなものだとか、食物しょくもつの話はなしもだいぶ聞かさきかされたが、すべての中なかで最ももっとも敬太郎けいたろうの頭あたまを刺戟しげきしたものは、長井ながい兵助へいすけの居合いあい抜ぬけと、脇差わきざしをぐいぐい呑んのんで見せるみせる豆蔵まめぞうと、江州こうしゅう伊吹山いぶきやまの麓ふもとにいる前足まえあしが四よんつで後足あとあしが六ろくつある大おお蟇ひきの干し固めほしかためたのであった。
それらには蔵くらの二に階かいの長持ながもちの中なかにある草双紙くさそうしの画が解かいが、子供こどもの想像そうぞうに都合つごうの好いよいような説明せつめいをいくらでも与えあたえてくれた。
一いち本ほん歯はの下駄げたを穿いはいたまま、小さいちいさい三宝みほの上うえに曲きょくがんだ男おとこが、襷がけたすきがけで身体しんたいよりも高くたかく反り返っそりかえった刀かたなを抜こうぬこうとするところや、大きなおおきな蝦えび蟆の上うえに胡坐こざをかいて、児雷也じらいやが魔法まほうか何なんか使っつかっているところや、顔かおより大きおおきそうな天眼鏡てんがんきょうを持っもった白いしろい髯ひげの爺じいさんが、唐とう机つくえの前まえに坐っすわって、平たいら突とっばったちょん髷ちょんまげを上うえから見下すみくだすところや、大抵たいていの不思議ふしぎなものはみんな絵本えほんから抜け出しぬけだして、想像そうぞうの浅草あさくさに並んならんでいた。
こういう訳わけで敬太郎けいたろうの頭あたまに映るうつる観音かんのんの境内けいだいには、歴史的れきしてきに妖あやかし嬌きょう陸離りくりたる色彩しきさいが、十八じゅうはち間まの本堂ほんどうを包んつつんで、小供こどもの時じから常つねに陽炎かげろうっていたのである。
東京とうきょうへ来きてから、この怪しいあやしい夢ゆめは固よりもとより手痛くていたく打ち崩さうちくずされてしまったが、それでも時々ときどきは今いまでも観音かんのん様ようの屋根やねに鵠くぐいの鳥とりが巣すを食っしょくっているだろうぐらいの考かんがえにふらふらとなる事ことがある。
今日きょうも浅草あさくさへ行っいったらどうかなるだろうという料簡りょうけんが暗にあんに働はたらけらいて、足あしが自ずとおのずとこっちに向いむかいたのである。
しかしルナパークるなぱーくの後あとから活動かつどう写真しゃしんの前まえへ出でた時じは、こりゃ占うらないない者ものなどのいる所ところではないと今更いまさらのようにその雑沓ざっとうに驚ろいおどろいた。
せめて御ご賓ひん頭あたま顱ひたいでも撫でなでて行こういこうかと思っおもったが、どこにあるか忘れわすれてしまったので、本堂ほんどうへ上っのぼって、魚河岸うおがしの大おお提灯ちょうちんと頼政よりまさの鵺ぬえを退治たいじている額がくだけ見みてすぐ雷門かみなりもんを出でた。
敬太郎けいたろうの考えかんがえではこれから浅草橋あさくさばしへ出るでる間まには、一いち軒のきや二に軒のきの易者えきしゃはあるだろう。
もし在っあったら何なんでも構わかまわないから入るはいる事ことにしよう。
あるいは高等こうとう工業こうぎょうの先さきを曲っきょくって柳橋やぎはしの方ほうへ抜けぬけて見みても好いよいなどと、まるで時分じぶんどきに恰好かっこな飯屋めしやでも探すさがす気きで歩いあるいていた。
ところがいざ探すさがすとなると生憎あいにくなもので、平生へいぜいは散歩さんぽさえすればいたるところに神かみ易えきの看板かんばんがぶら下っぶらさがっている癖くせに、あの広いひろい表通りおもてどおりに門戸もんこを張っちょうっている卜者ぼくしゃはまるで見当らみあたらなかった。
敬太郎けいたろうはこの企図きともまた例れいによって例れいのごとく、突き抜けつきぬけずに中途ちゅうとでおしまいになるのかも知れしれないと思っおもって少しすこし失望しつぼうしながら蔵前くらまえまで来きた。
するとやっとの事ことで尋ねるたずねる商売しょうばいの家いえが一いち軒のきあった。
細長いほそながい堅木けんぼくの厚板あついたに、身の上みのうえ判断はんだんと割書わりがきをした下したに、文銭ぶんせん占うらないないと白いしろい字じで彫っほって、そのまた下またしたに、漆うるしで塗っぬった真赤まっかな唐辛子とうがらしが描いえがいてある。
この奇体きたいな看板かんばんがまず敬太郎けいたろうの眼めを惹いひいた。
十七じゅうなな
よく見るみるとこれは一いち軒のきの生薬しょうやく屋やの店みせを仕切っしきって、その狭いせまい方ほうへこざっぱりした差さ掛かかり様ようのものを作っつくったので、中なかに七色なないろ唐辛子とうがらしの袋ふくろを並べならべてあるから、看板かんばんの通りとおりそれを売るうる傍らかたわら、占うらないないを見るみる趣向しゅこうに違いない。
敬太郎けいたろうはこう観察かんさつして、そっと餡あん転てん餅屋もちやに似にた差さ掛かかりの奥おくを覗いのぞいて見るみると、小作りこづくりな婆ばあさんがたった一人ひとり裁縫さいほうをしていた。
狭いせまい室むろ一いちつの住居じゅうきょとしか思わおもわれないのに、肝心かんじんの易者えきしゃの影かげも形かたちも見えみえないから、主人しゅじんは他行たこう中なかで、細君さいくんが留守番るすばんをしているところかとも思っおもったが、店先みせさきの構造こうぞうから推すおすと、奥おくは生薬しょうやく屋やの方ほうと続いつづいているかも知れしれないので、一概いちがいに留守るすと見み切せつをつける訳わけにも行かいかなかった。
それで二三にさん歩あゆみ先さきへ出でて、薬種やくしゅ店みせの方ほうを覗くのぞくと、八はちツ目め鰻うなぎの干しほしたのも釣るつるしてなければ、大きなおおきな亀の甲かめのこうも飾っかざってないし、人形にんぎょうの腹はらをがらん胴どうにして、五色ごしきの五臓ごぞうを外そとから見えるみえるように、腹はらの中なかの棚たなに載せのせた古風こふうの装飾そうしょくもなかった。
一いち本寺ほんじの隠居いんきょに似にた髯ひげのある爺じいさんは固よりもとより坐っすわっていなかった。
彼かれは再びふたたび立ち戻ったちもどって、身の上みのうえ判断はんだん文銭ぶんせん占うらないないという看板かんばんのかかった入口いりぐちから暖簾のれんを潜っもぐって内うちへ入っはいった。
裁縫さいほうをしていた婆ばあさんは、針はりの手てをやめて、大きなおおきな眼鏡めがねの上うえから睨むにらむように敬太郎けいたろうを見みたが、ただ一口ひとくち、占うらないないですかと聞いきいた。
敬太郎けいたろうは「ええちょっと見みて貰いもらいたいんだが、御ご留守るすのようですね」と云っいった。
すると婆ばあさんは、膝ひざの上うえのやわらか物ものを隅すみの方ほうへ片づけかたづけながら、御ご上りのぼりなさいと答えこたえた。
敬太郎けいたろうは云わいわれる通りとおり素直すなおに上っのぼって見るみると、狭いせまいけれども居心地いごこちの悪いわるいほど汚れよごれた室むろではなかった。
現にげんに畳たたみなどは取り替えとりかえ立てたてでまだ新らしいあたらしい香こうがした。
婆ばあさんは煮立っにたった鉄瓶てつびんの湯ゆを湯呑ゆのみに注いそそいで、香煎こうせんを敬太郎けいたろうの前まえに出しだした。
そうして昔むかしは薬箱くすりばこでも載せのせた棚たならしい所ところに片づけかたづけてあった小机こづくえを取りおろしとりおろしにかかった。
その机つくえには無地むじの羅紗らしゃがかけてあったが、婆ばあさんはそれをそのまま敬太郎けいたろうの正面しょうめんに据えすえて、そうして再びふたたび故この座ざに帰っかえった。
「占うらないないは私わたくしがするのです」 敬太郎けいたろうは意外いがいの感かんに打たうたれた。
この小いちいさいさい丸髷まるまげに結っけつった。
黒くろ繻子しゅすの襟えりのかかった着物きものの上うえに、地味じみな縞しまの羽織はおりを着きた、一心いっしんに縫物ぬいものをしている、純然じゅんぜん家庭的かていてきの女おんなが、自分じぶんの未来みらいに横たわるよこたわる運命うんめいの予言者よげんしゃであろうとは全くまったく想像そうぞうのほかにあったのである。
その上うえ彼かれはこの婦人ふじんの机つくえの上うえに、筮竹ぜいちくも算木さんぎも天眼鏡てんがんきょうもないのを不思議ふしぎに眺めながめた。
婆ばあさんは机つくえの上うえに乗っのっている細長いほそながい袋ふくろの中なかからちゃらちゃらと音おとをさせて、穴あなの開いひらいた銭せんを九きゅうつ出しだした。
敬太郎けいたろうは始めはじめてこれが看板かんばんに「文銭ぶんせん占うらないない」とある文銭ぶんせんなるものだろうと推察すいさつしたが、さてこの九きゅう枚ばいの文銭ぶんせんが、暗いくらい中なかで自分じぶんを操っあやつっている運命うんめいの糸いとと、どんな関係かんけいを有っあっているか、固よりもとより想像そうぞうし得るうるはずがないので、ただそこに鋳出さいだされた模様もようと、それがしまってあった袋ふくろとを見比べるみくらべるだけで、何事なにごとも云わいわずにいた。
袋ふくろは能のう装束しょうぞくの切れ端きれはしか、懸物かけものの表具ひょうぐの余りあまりで拵らえこしらえたらしく、金きんの糸いとが所々ところどころに光っひかりっているけれども、だいぶ古いふるいものと見えみえて、手て擦と時代じだいのため、派手はでな色いろを全くまったく失っうしなっていた。
婆ばあさんは年寄としよりに似合わにあわない白いしろい繊せん麗れいな指ゆびで、九きゅう枚ばいの文銭ぶんせんを三さん枚ばいずつ三さん列れつに並べならべたが、ひょっと顔かおを上げあげて、「身の上みのうえを御覧ごらんですか」と聞いきいた。
「さあ一生涯いちしょうがいの事ことを一度いちどに聞いきいておいても損そんはないが、それよりか今いまここでどうしたらいいか、その方ほうをきめてかかる方ほうが僕ぼくには大切たいせつらしいから、まあそれを一いちつ願おうねがおう」 婆ばあさんはそうですかと答えこたえたが、それで御ご年ねんはとまた敬太郎けいたろうの年齢ねんれいを尋ねたずねた。
それから生れうまれた月つきと日ひを確めたしかめた。
その後そのあとで胸算用むねさんようでもする案あん排はいしきで、指ゆびを折っおって見みたり、ただ考かんがえがえたりしていたが、やがてまた綺麗きれいな指ゆびで例れいの文銭ぶんせんを新らしくあたらしく並べならべ更さらえた。
敬太郎けいたろうは表ひょうに波なみが出でたり、あるいは文字もじが現われあらわれたりして、三さん枚ばいが三さん列れつに続くつづく順序じゅんじょと排列はいれつを、深いぶかい意味いみでもあるような眼つきめつきをして見守っみまもっていた。
十八じゅうはち
婆ばあさんはしばらく手てを膝ひざの上うえに載せのせて、何事なにごとも云わいわずに古いふるい銭せんの面めんをじっと注意ちゅういしていたが、やがて考えかんがえの中心ちゅうしん点てんが明快めいかい纏まっまとまったという様子ようすをして、「あなたは今いま迷っまよっていらっしゃる」と云い切っいいきったなり敬太郎けいたろうの顔かおを見みた。
敬太郎けいたろうはわざと何なんも答えこたえなかった。
「進もうすすもうかよそうかと思っおもって迷っまよっていらっしゃるが、これは御ご損そんですよ。先さきへ御ご出でになった方ほうが、たとい一時いちじは思わしくおもわしくないようでも、末すえ始終しじゅう御ご為ためですから」 婆ばあさんは一区いちく限かぎりつけると、また口くちを閉じとじて敬太郎けいたろうの様子ようすを窺っうかがった。
敬太郎けいたろうは始めはじめからただ先方せんぽうのいう事ことをふんふん聞くきくだけにして、こちらでは喋舌らしゃべらないつもりに、腹はらの中なかできめてかかったのであるが、婆ばあさんのこの一言ひとことに、ぼんやりした自分じぶんの頭あたまが、相手あいての声こえに映っうつってちらりと姿すがたを現わしあらわしたような気きがしたので、ついその刺戟しげきに応じおうじて見みたくなった。
「進んすすんでも失敗るしくじるような事ことはないでしょうか」「ええ。だからなるべくおとなしくして。短気たんきを起さおこさないようにね」 これは予言よげんではない、常識じょうしきがあらゆる人ひとに教えるおしえる忠告ちゅうこくに過ぎすぎないと思っおもったけれども婆ばあさんの態度たいどに、これという故意こいとらしい点てんも見えみえないので、彼かれはなお質問しつもんを続けつづけた。
「進むすすむってどっちへ進んすすんだものでしょう」「それはあなたの方ほうがよく分っわかっていらっしゃるはずですがね。私わたくしはただ最少さいしょうし先さきまで御ご出でなさい、そのほうが御ご為ためだからと申し上げるもうしあげるまでです」 こうなると敬太郎けいたろうも行きいきがかり上うえそうですかと云っいって引込むひきこむ訳わけに行かいかなくなった。
「だけれども道みちが二につ有るあるんだから、その内うちでどっちを進んすすんだらよかろうと聞くきくんです」 婆ばあさんはまた黙っだまって文銭ぶんせんの上うえを眺めながめていたが、前まえよりは重苦しいおもくるしい口調くちょうで、「まあ同どうなじですね」と答えこたえた。
そうして先刻せんこく裁縫さいほうをしていた時じに散らばしちらばした糸屑いとくずを拾っじゅうって、その中なかから紺こんと赤あかの絹糸けんしのかなり長いながいのを択りより出しだして、敬太郎けいたろうの見みている前まえで、それを綺麗きれいに縒りより始めはじめた。
敬太郎けいたろうはただ手持無沙汰てもちむさたの徒事とじとばかり思っおもって、別段べつだん意いにも留めとめなかったが、婆ばあさんは丹念たんねんにそれを五六ごろく寸すんの長さながさに縒り上げよりあげて、文銭ぶんせんの上うえに載せのせた。
「これを御覧ごらんなさい。こう縒り合わせるよりあわせると、一いち本ほんの糸いとが二に筋すじの糸いとで、二に筋すじの糸いとが一いち本ほんの糸いとになるじゃありませんか。そら派手はでな赤あかと地味じみな紺こんが。若いわかい時じにはとかく派手はでの方ほうへ派手はでの方ほうへと駆け出しかけだしてやり損ないそこない勝かちのものですが、あなたのは今いまのところこの縒糸よりいとみたように丁度ちょうど好いよい具合ぐあいに、いっしょに絡まり合っからまりあっているようですから御ご仕合せしあわせです」 絹糸けんしの喩ゆは何なんとも知らしらず面白かっおもしろかったが、御ご仕合せしあわせですと云わいわれて見るみると、嬉しいうれしいよりもかえっておかしい心持こころもちの方ほうが敬太郎けいたろうを動かしうごかした。
「じゃこの紺糸こんいとで地道じみちを踏んふんで行けいけば、その間まにちらちら派手はでな赤いあかい色いろが出でて来るくると云ういうんですね」と敬太郎けいたろうは向うむこうの言葉ことばを呑み込んのみこんだような尋ねたずね方ほうをした。
「そうですそうなるはずです」と婆ばあさんは答えこたえた。
始めはじめから敬太郎けいたろうは占うらないないの一言ひとことで、是非ぜひ共とも右みぎか左ひだりへ片づけかたづけなければならないとまで切にせつに思いつめおもいつめていた訳わけでもなかったけれども、これだけで帰るかえるのも少しすこし物もの足りたりなかった。
婆ばあさんの云ういう事ことが、まるで自分じぶんの胸むねとかけ隔たっかけへだたった別世界べつせかいの消息しょうそくなら、固よりもとより論ろんはないが、意味いみの取り方とりかたではだいぶ自分じぶんの今いまの身の上みのうえに、応用おうようの利くきく点てんもあるので、敬太郎けいたろうはそこに微かかすかな未練みれんを残しのこした。
「もう何になんにも伺うかがいがう事ことはありませんか」「そうですね。近いちかい内うちにちょっとした事ことができるかも知れしれません」「災難さいなんですか」「災難さいなんでもないでしょうが、気きをつけないとやり損ないそこないます。そうしてやり損なえそこなえばそれっきり取り返しとりかえしがつかない事ことです」
十九じゅうきゅう
敬太郎けいたろうの好奇心こうきしんは少しすこし鋭敏えいびんになった。
「全体ぜんたいどんな性質せいしつの事ことですか」「それは起っおこって見みなければ分りわかりません。けれども盗難とうなんだの水難すいなんだのではないようです」「じゃどうして失敗らしくじらない工夫くふうをして好いよいか、それも分らわからないでしょうね」「分らわからない事こともありませんが、もし御ご望みのぞみなら、もう一遍いちぺん占うらないないを立て直したてなおして見みて上げあげても宜うようござんす」 敬太郎けいたろうは、では御ご頼みたのみ申しもうしますと云わいわない訳わけに行かいかなかった。
婆ばあさんはまた繊細せんさいな指先ゆびさきを小器用しょうきように動かしうごかして、例れいの文銭ぶんせんを並べならべ更さらえた。
敬太郎けいたろうから云えいえば先さきの並べならべ方ほうも今度こんどの並べならべ方ほうも大抵たいてい似にたものであるが、婆ばあさんにはそこに何なんか重大じゅうだいの差別さべつがあるものと見えみえて、その一いち枚ばいを引っくり返すひっくりかえすにも軽率けいそつに手ては下さくださなかった。
ようやく九きゅう枚ばいをそれぞれ念ねん入いりに片づけかたづけた後あとで、婆ばあさんは敬太郎けいたろうに向っむかって「大体だいたい分りわかりました」と云っいった。
「どうすれば好いよいんですか」「どうすればって、占うらないないには陰陽おんみょうの理りで大きなおおきな形かたちが現われるあらわれるだけだから、実地じっちは各自かくじがその場ばに臨んのぞんだ時じ、その大きなおおきな形かたちに合わしあわして考えるかんがえるほかありませんが、まあこうです。あなたは自分じぶんのようなまた他人たにんのような、長いながいようなまた短かいみじかいような、出るでるようなまた這入るはいるようなものを待っまっていらっしゃるから、今度こんど事件じけんが起っおこったら、第だい一いちにそれを忘れわすれないようになさい。そうすれば旨くうまく行きいきます」 敬太郎けいたろうは煙けむりに巻かまきかれざるを得とくなかった。
いくら大きなおおきな形かたちが陰陽おんみょうの理りで現われあらわれたにしたところで、これじゃ方角ほうがくさえ立たたたない霧きりのようなものだから、たとい嘘うそでも本当ほんとうでも、もう少しすこし切りつめきりつめた応用おうようの利くきくところを是非ぜひ云わいわせようと思っおもって、二三にさん押問答おしもんどうをして見みたが、いっこう埒らちが明かあきらかなかった。
敬太郎けいたろうはとうとうこの禅ぜん坊主ぼうずの寝言ねごとに似にたものを、手拭てぬぐいに包んつつんだ懐炉かいろのごとく懐中かいちゅうさせられて表ひょうへ出でた。
おまけに出がけでがけに七色なないろ唐辛子とうがらしを二に袋ふくろ買っかって袂たもとへ入れいれた。
翌日よくじつ彼かれは朝飯あさめしの膳ぜんに向っむかって、煙けむりの出るでる味噌みそ汁椀しるわんの蓋ふたを取っとったとき、たちまち昨日きのうの唐辛子とうがらしを思い出しおもいだして、袂たもとから例れいの袋ふくろを取り出しとりだした。
それを十二分じゅうにふんに汁しるの上うえに振りかけふりかけて、ひりひりするのを我慢がまんしながら食事しょくじを済ましすましたが、婆ばあさんの云わいわゆる「陰陽おんみょうの理りによって現われあらわれた大きなおおきな形かたち」と頭あたまの中なかに呼び起しよびおこして見るみると、まだ漠然ばくぜんと瓦斯がすのごとく残っのこっていた。
しかし手てのつけようのない謎なぞに気きを揉むもむほど熱心ねっしんな占うらないない信者しんじゃでもないので、彼かれはどうにかそれを解釈かいしゃくして見みたいと焦心しょうしんる苦悶くもんを知らしらなかった。
ただその分らわからないところに妙みょうな趣おもむきがあるので、忘れわすれないうちに、婆ばあさんの云っいった通りとおりを紙片しへんに書いかいて机つくえの抽出ちゅうしゅつへ入れいれた。
もう一遍いちぺん田口たぐちに会うあう手段しゅだんを講じこうじて見るみる事ことの可否かひは、昨日きのうすでに婆ばあさんの助言じょげんで断定だんていされたものと敬太郎けいたろうは解釈かいしゃくした。
けれども彼かれは占うらないないを信じしんじて動くうごくのではない、動こううごこうとする矢先やさきへ婆ばあさんが動くうごく縁えんをつけてくれたに過ぎすぎないのだと思っおもった。
彼かれは須永すながへ行っいって彼かれの叔父おじがすでに大阪おおさかから帰っかえったかどうか尋ねたずねて見ようみようかと考えかんがえたが、自動車じどうしゃ事件じけんの記憶きおくがまだ新たあらたに彼かれの胸むねを圧迫あっぱくしているので、足あしを運ぶはこぶ勇気ゆうきがちょっと出でなかった。
電話でんわもこの際さい利用りようしにくかった。
彼かれはやむを得とくず、手紙てがみで用ようを弁ずるべんずる事ことにした。
彼かれはせんだって須永すながの母ははに話しはなしたとほぼ同様どうようの顛末てんまつを簡略かんりゃくに書いかいた後あとで、田口たぐちがもう旅行りょこうから帰っかえったかどうかを聞き合わせききあわせて、もし帰っかえったなら御多忙ごたぼう中なかはなはだ恐れ入るおそれいるけれども、都合つごうして会っかいってくれる訳わけには行くいくまいか、こっちはどうせ閑かんな身体しんたいだから、いつでも指定していされて時日じじつに出でられるつもりだがと、この間まの権幕けんまくは、綺麗きれいに忘れわすれたような口ぶりくちぶりを見せみせた。
敬太郎けいたろうはこの手紙てがみを出すだすと同時どうじに、須永すながの返事へんじを明日あすにも予想よそうした。
ところが二に日ひ立ったっても三さん日ひ立ったっても何なんの挨拶あいさつもないので、少しすこし不安ふあんの念ねんに悩まさなやまされ出しだした。
なまじい売卜ばいぼく者ものの言葉ことばなどに動かさうごかされて、恥はじを掻いかいてはつまらないという後悔こうかいも交っかった。
すると四よん日ひ目めの午前ごぜんになって、突然とつぜん田口たぐちから電話でんわ口くちへ呼び出さよびだされた。
二十にじゅう
電話でんわ口くちへ出でて見るみると案外あんがいにも主人しゅじんの声こえで、今いま直じか来るくる事ことができるかという簡単かんたんな問い合わせといあわせであった。
敬太郎けいたろうはすぐ出でますと答えこたえたが、それだけで電話でんわを切るきるのは何なんとなくぶっきらぼう過ぎすぎて愛嬌あいきょうが足りたりない気きがするので、少しすこし色いろを着けるつけるために、須永すなが君きみから何なんか御ご話はなしでもございましたかと聞いきいて見みた。
すると相手あいては、ええ市し蔵くらから御ご希望きぼうを通知つうちして来きたのですが、手数てすうだから直接ちょくせつに私わたくしの方ほうで御都合ごつごうを伺がいうかがいました。
じゃ御ご待ちまち申しもうしますから、直じかどうぞ。
と云っいってそれなり引込んひきこんでしまった。
敬太郎けいたろうはまた例れいの袴はかまを穿きはきながら、今度こんどこそ様子ようすが好さよさそうだと思っおもった。
それからこの間ま買っかったばかりの中折なかおれを帽子ぼうし掛かかりから取るとると、未来みらいに富んとんだ顔かおに生気せいきを漲ぎらみなぎらして快かい豁に表ひょうへ出でた。
外そとには白いしろい霜しもを一度いちどに摧いくだいた日ひが、木枯しこがらしにも吹きふき捲くまくられずに、穏やかおだやかな往来おうらいをおっとりと一面いちめんに照らしてらしていた。
敬太郎けいたろうはその中なかを突とっ切るきる電車でんしゃの上うえで、光ひかりを割いさいて進むすすむような感じかんじがした。
田口たぐちの玄関げんかんはこの間まと違っちがって蕭条しょうじょうりしていた。
取次とりつぎに袴はかまを着けつけた例れいの書生しょせいが現われあらわれた時じは、少しすこしきまりが悪かっわるかったが、まさかせんだっては失礼しつれいしましたとも云えいえないので、素知らぬそしらぬ顔かおをして叮嚀ていねいに来意らいいを告げつげた。
書生しょせいは敬太郎けいたろうを覚えおぼえていたのか、いないのか、ただはあと云っいったなり名刺めいしを受取っうけとって奥おくへ這入っはいったが、やがて出でて来きて、どうぞこちらへと応接間おうせつかんへ案内あんないした。
敬太郎けいたろうは取次とりつぎの揃えそろえてくれた上靴うわぐつを穿いはいて、御客ごきゃくらしく通るとおるには通っとおったが、四五しご脚あしある椅子いすのどれへ腰こしをかけていいかちょっと迷っまよった。
一番いちばん小さいちいさいのにさえきめておけば間ま違いはあるまいという謙遜けんそんから、彼かれは腰こしの高いたかい肱懸ひじかけも装飾そうしょくもつかない最ももっとも軽そうかるそうなのを択っよって、わざと位置いちの悪いわるい所ところへ席せきを占めしめた。
やがて主人しゅじんが出でて来きた。
敬太郎けいたろうは使いつかい慣れなれない切口きりくち上うえを使っつかって、初対面はつたいめんの挨拶あいさつやら会見かいけんの礼れいやらを述べるのべると、主人しゅじんは軽くかるくそれを聞き流すききながすだけで、ただはあはあと挨拶あいさつした。
そうしていくら区切くぎりが来きても、いっこう何なんとも云っいってくれなかった。
彼かれは主人しゅじんの態度たいどに失望しつぼうするほどでもなかったが、自分じぶんの言葉ことばがそう思うおもう通りとおり長くながく続かつづかないのに弱っよわった。
一応いちおう頭あたまの中なかにある挨拶あいさつを出しだし切っきってしまうと、後あとはそれぎりで、手持無沙汰てもちむさたと知りしりながら黙らだまらなければならなかった。
主人しゅじんは巻まき莨たばこ入いりから敷島しきしまを一いち本ほん取っとって、あとを心持こころもち敬太郎けいたろうのいる方ほうへ押しやっおしやった。
「市蔵いちぞうからあなたの御ご話しはなしは少しすこし聞いきいた事こともありますが、いったいどういう方ほうを御ご希望きぼうなんですか」 実じつを云ういうと、敬太郎けいたろうには何なんという特別とくべつの希望きぼうはなかった。
ただ相当そうとうの位置いちさえ得とくられればとばかり考えかんがえていたのだから、こう聞かきかれるとぼんやりした答こたえよりほかにできなかった。
「すべての方面ほうめんに希望きぼうを有っあっています」 田口たぐちは笑いわらい出しだした。
そうして機嫌きげんの好いよい顔つきかおつきをして、学士がくしの数すうのこんなに殖えふえて来きた今日きょう、いくら世話せわをする人ひとがあろうとも、そう最初さいしょから好いよい地位ちいが得とくられる訳わけのものでないという事情じじょうを懇こんごろに説いといて聞かきかせた。
しかしそれは田口たぐちから改めてあらためて教わるおそわるまでもなく、敬太郎けいたろうのとうから痛切つうせつに承知しょうちしているところであった。
「何なんでもやります」「何なんでもやりますったって、まさか鉄道てつどうの切符きっぷ切せつもできないでしょう」「いえできます。遊んあそんでるよりはましですから。将来しょうらいの見込みこみのあるものなら本当ほんとうに何なんでもやります。第一だいいち遊んあそんでいる苦痛くつうを逃れるのがれるだけでも結構けっこうです」「そう云ういう御ご考かんがえならまた私わたくしの方ほうでもよく気きをつけておきましょう。直じかという訳わけにも行きいきますまいが」「どうぞ。――まあ試しためしに使っつかって見みて下さいください。あなたの御ご家いえの――と云っいっちゃ余りあまり変へんですが、あなたの私事しじにででもいいから、ちょっと使っつかって見みて下さいください」「そんな事ことでもして見るみる気きがありますか」「あります」「それじゃ、ことに依るよると何なんか願っねがって見るみるかも知れしれません。いつでも構いかまいませんか」「ええなるべく早いはやい方ほうが結構けっこうです」 敬太郎けいたろうはこれで会見かいけんを切り上げきりあげて、朗らかほがらかな顔かおをして表ひょうへ出でた。
二十一にじゅういち
穏やかおだやかな冬ふゆの日ひがまた二三にさん日ひ続いつづいた。
敬太郎けいたろうは三さん階かいの室むろから、窓まどに入るはいる空そらと樹きと屋根瓦やねがわらを眺めながめて、自然しぜんを橙色だいだいいろに暖だんためるおとなしいこの日光にっこうが、あたかも自分じぶんのために世の中よのなかを照らしてらしているような愉快ゆかいを覚えおぼえた。
彼かれはこの間まの会見かいけんで、自分じぶんに都合つごうの好いよい結果けっかが、近いちかい内うちにわが頭あたまの上うえに落ちおちて来るくるものと固くかたく信ずるしんずるようになった。
そうしてその結果けっかがどんな異様いようの形かたちを装っよそおって、彼かれの前まえに現われるあらわれるかを、彼かれは最ももっとも楽しんたのしんで待ち暮らしまちくらした。
彼かれが田口たぐちに依頼いらいした仕事しごとのうちには、普通ふつうの依頼者いらいしゃの申し出もうしで以上いじょうのものまで含んふくんでいた。
彼かれは一定いっていの職業しょくぎょうから生ずるしょうずる義務ぎむを希望きぼうしたばかりでなく、刺戟しげきに充ちみちた一時いちじ性せいの用事ようじをも田口たぐちから期待きたいした。
彼かれの性質せいしつとして、もし成せい効かいの影かげが彼かれを掠めかすめて閃めくひらめくならば、おそらく尋常じんじょうの雑務ざつむとは切り離さきりはなされた特別とくべつの精彩せいさいを帯びおびたものが、卒然そつぜん彼かれの前まえに投げ出さなげだされるのだろうぐらいに考えかんがえた。
そんな望もちを抱いいだいて、彼かれは毎日まいにち美びくしい日光にっこうに浴しよくしていたのである。
すると四よん日ひばかりして、また田口たぐちから電話でんわがかかった。
少しすこし頼みたのみたい事ことができたが、わざわざ呼び寄せるよびよせるのも気の毒きのどくだし、電話でんわでは手間てまが要っいってかえって面倒めんどうになるし、仕方しかたがないから、速達そくたつ便びんで手紙てがみを出すだす事ことにしたから、委細いさいはそれを見みて承知しょうちしてくれ。
もし分らわからない事ことがあったら、また電話でんわで聞ききき合わしあわしてもいいという通知つうちであった。
敬太郎けいたろうはぼんやり見えみえていた遠眼鏡えんがんきょうの度どがぴたりと合っあった時じのように愉快ゆかいな心持こころもちがした。
彼かれは机つくえの前まえを一いち寸すんも離れはなれずに、速達そくたつ便びんの届くとどくのを待っまっていた。
そうしてその間ま絶ぜっず例れいの想像そうぞうを逞ましくたくましくしながら、田口たぐちのいわゆる用事ようじなるものを胸むねの中なかで組み立てくみたてて見みた。
そこにはいつか須永すながの門前もんぜんで見みた後姿うしろすがたの女おんなが、ややともすると断わりことわりなしに入り込んはいりこんで来きた。
ふと気きがついて、もっと実際的じっさいてきのものであるべきはずだと思うおもうと、その時じだけは自分じぶんで自分じぶんの空想くうそうを叱るしかるようにしては、彼かれはもどかしい時じを過ごしすごした。
やがて待ち焦れまちこがれた状袋じょうぶくろが彼かれの手てに落ちおちた。
彼かれはすっと音おとをさせて、封ふうを裂いさいた。
息いきも継がつぎがずに巻紙まきがみの端はしから端はしまでを一気いっきに読みよみ通しとおして、思わおもわずあっという微かかすかな声こえを揚げあげた。
与えあたえられた彼かれの用事ようじは待ち設けまちもうけた空想くうそうよりもなお浪漫ろまん的まとであったからである。
手紙てがみの文句もんくは固よりもとより簡単かんたんで用事ようじ以外いがいの言葉ことばはいっさい書いかいてなかった。
今日きょう四よん時じと五ご時じの間まに、三田みた方面ほうめんから電車でんしゃに乗っのって、小川おがわ町まちの停留所ていりゅうしょで下りるおりる四十よんじゅう恰好かっこの男おとこがある。
それは黒くろの中折なかおれに霜降そうこうの外套がいとうを着きて、顔かおの面めん長いながい背せの高いたかい、瘠せやせぎすの紳士しんしで、眉まゆと眉まゆの間まに大きなおおきな黒子ほくろがあるからその特徴とくちょうを目標もくひょうに、彼かれが電車でんしゃを降りふりてから二に時間じかん以内いないの行動こうどうを探偵たんていして報知ほうちしろというだけであった。
敬太郎けいたろうは始めはじめて自分じぶんが危険きけんなる探偵たんてい小説しょうせつ中なかに主要しゅようの役割やくわりを演ずるえんずる一いち個この主人公しゅじんこうのような心持こころもちがし出しだした。
同時どうじに田口たぐちが自己じこの社会的しゃかいてき利害りがいを護るまもるために、こんな暗がりくらがりの所作しょさをあえてして、他日たじつの用ように、他ほかの弱点じゃくてんを握っにぎっておくのではなかろうかと云ういう疑ぎを起しおこした。
そう思っおもった時じ、彼かれは人ひとの狗いぬに使わつかわれる不名誉ふめいよと不徳義ふとくぎを感じかんじて、一種いっしゅ苦悶くもんの膏あぶら汗あせを腋の下わきのしたに流しながした。
彼かれは手紙てがみを手てにしたまま、じっと眸ひとみを据えすえたなり固くかたくなった。
しかし須永すながの母ははから聞いきいた田口たぐちの性格せいかくと、自分じぶんが直じかに彼かれに会っかいった時じの印象いんしょうとを纏めまとめて考えかんがえて見るみると、けっしてそんな人ひとの悪わるそうな男おとことも思わおもわれないので、たとい他人たにんの内行ないこうに探りさぐりを入れるいれるにしたところで、必ずかならずしもそれほど下品げぼんな料簡りょうけんから出るでるとは限らかぎらないという推断すいだんもついて見るみると、いったん硬直こうちょくになった筋肉きんにくの底そこに、また温おんたかい血ちが通いかよい始めはじめて、徳義とくぎに逆らうさからう吐気はきけなしに、ただ興味きょうみという一いち点てんからこの問題もんだいを面白くおもしろく眺めるながめる余裕よゆうもできてきた。
それで世の中よのなかに接触せっしょくする経験けいけんの第だい一いち着手ちゃくしゅとして、ともかくも田口たぐちから依頼いらいされた通りとおりにこの仕事しごとをやり終おわりせて見ようみようという気きになった。
彼かれはもう一度いちどとくと田口たぐちの手紙てがみを読み直しよみなおした。
そうしてそこに書いかいてある特徴とくちょうと条件じょうけんだけで、はたして満足まんぞくな結果けっかが実際じっさいに得とくられるだろうかどうかを確かめたしかめた。
二十二にじゅうに
田口たぐちから知らしらせて来きた特徴とくちょうのうちで、本当ほんとうにその人ひとの身みを離れはなれないものは、眉まゆと眉まゆの間まの黒子ほくろだけであるが、この日ひの短かいみじかい昨今さっこんの、四よん時じとか五ご時じとかいう薄暗いうすぐらい光線こうせんの下したで、乗降じょうこうに忙がしいいそがしい多数たすうの客きゃくの中なかから、指定していされた局部きょくぶの一いち点てんを目標もくひょうに、これだと思うおもう男おとこを過ちあやまちなく見つけみつけ出そうでそうとするのは容易よういの事ことではない。
ことに四よん時じと五ご時じの間まと云えいえば、ちょうど役所やくしょの退けるしりぞける刻限こくげんなので、丸の内まるのうちからただ一筋ひとすじの電車でんしゃを利用りようして、神田橋かんだばしを出るでる役人やくにんの数すうだけでも大したたいしたものである。
それにほかと違っちがって停留所ていりゅうしょが小川おがわ町まちだから、年の暮としのくれに間まもない左右さゆうの見世みせ先さきに、幕まくだの楽隊がくたいだの、蓄音機ちくおんきだのを飾るかざるやら具えるそなえるやらして、電灯でんとう以外いがいの景気けいきを点けつけて、不時ふじの客きゃくを呼び寄せるよびよせる混雑こんざつも勘定かんじょうに入れいれなければなるまい。
それを想像そうぞうして事ことの成否せいひを考えかんがえて見るみると、とうてい一人ひとりの手際てぎわではという覚束ないおぼつかない心持こころもちが起っおこって来るくる。
けれどもまた尋ね出そうたずねだそうとするその人ひとが、霜降そうこうの外套がいとうに黒くろの中折なかおれという服装ふくそうで電車でんしゃを降りるおりるときまって見れみれば、そこにまだ一縷いちるの望もちがあるようにも思わおもわれる。
無論むろん霜降そうこうの外套がいとうだけでは、どんな恰好かっこにしろ手がかりてがかりになり様ようはずがないが、黒くろの中折なかおれを被っかぶっているなら、色変りいろがわりよりほかに用いるもちいる人ひとのない今日きょうだから、すぐ眼めにつくだろう。
それを目め宛ずつに注意ちゅういしたらあるいは成功せいこうしないとも限るかぎるまい。
こう考えかんがえた敬太郎けいたろうは、ともかくも停留所ていりゅうしょまで行っいって見るみる事ことだという気きになった。
時計とけいを眺めるながめると、まだ一時いちじを打っうったばかりである。
四よん時じより三さん十分じゅうふん前まえに向むかいへ着くつくとしたところで、三さん時じ頃ころから宅たくを出れでればたくさんなのだから、まだ二に時間じかんの猶予ゆうよがある。
彼かれはこの二に時間じかんを最ももっとも有益ゆうえきに利用りようするつもりで、じっとしたまま坐っすわっていた。
けれどもただ眼めの前まえに、美土代町みとしろまちと小川おがわ町まちが、丁字ていじになって交叉こうさしている三つ角みっつかくの雑沓ざっとうが入り乱れいりみだれて映るうつるだけで、これと云っいって成功せいこうを誘うさそうに足るたる上うえ分別ぶんべつは浮ばうかばなかった。
彼かれの頭あたまは考えれかんがえれば考えるかんがえるほど、同じおなじ場所ばしょに吸いついすいついたなりまるで動くうごくことを知らしらなかった。
そこへ、どうしても目指すめざす人ひとには会えあえまいという掛かかり念ねんが、不安ふあんを伴っともなって胸むねの中なかをざわつかせた。
敬太郎けいたろうはいっその事こと時間じかんが来るくるまで外そとを歩きあるきつづけに歩いあるいて見ようみようかと思っおもった。
そう決心けっしんをして、両手りょうてを机つくえの縁えんに掛けかけて、勢いきおいよく立ち上がろうたちあがろうとする途端とたんに、この間ま浅草あさくさで占うらないないの婆ばあさんから聞いきいた、「近いちかい内うちに何なんか事ことがあるから、その時じにはこうこういうものを忘れわすれないようにしろ」という注意ちゅういを思い出しおもいだした。
彼かれは婆ばあさんのその時じの言葉ことばを、解すかいすべからざる謎なぞとして、ほとんど頭あたまの外そとへ落しおとしてしまったにもかかわらず、参考さんこうのためわざわざ書きつけかきつけにして机つくえの抽出ちゅうしゅつに入れいれておいた。
でまたその紙片しへんを取り出しとりだして、自分じぶんのようで他人たにんのような、長いながいようで短かいみじかいような、出るでるようで這入るはいるようなという句くを飽かあかず眺めながめた。
初めはじめのうちは今までいままで通りとおりとうてい意味いみのあるはずがないとしか見えみえなかったが、だんだん繰り返しくりかえして読むよむうちに、辛抱しんぼう強くつよく考えかんがえさえすれば、こういう妙みょうな特性とくせいを有っあったものがあるいは出でて来るくるかも知れしれないという気きになった。
その上うえ敬太郎けいたろうは婆ばあさんに、自分じぶんが持っもっているんだから、いざという場合ばあいに忘れわすれないようになさいと注意ちゅういされたのを覚えおぼえていたので、何なんでも好いよい、ただ身みの周囲しゅういの物ものから、自分じぶんのようで他人たにんのような、長いながいようで短かいみじかいような、出るでるようで這入るはいるようなものを探しあてさがしあてさえすれば、比較的ひかくてき狭いせまい範囲はんい内うちで、この問題もんだいを解決かいけつする事ことができる訳わけになって、存外ぞんがい早くはやく片かたがつくかも知れしれないと思い出しおもいだした。
そこでわが自由じゆうになるこれから先さきの二に時間じかんを、全くまったくこの謎なぞを解くとくための二に時間じかんとして大切たいせつに利用りようしようと決心けっしんした。
ところがまず眼めの前まえの机つくえ、書物しょもつ、手拭てぬぐい、座蒲団ざふとんから順々じゅんじゅんに進行しんこうして行李こうり鞄かばん靴下くつしたまでいったが、いっこうそれらしい物ものに出合わであわないうちに、とうとう一いち時間じかん経っきょうってしまった。
彼かれの頭あたまは焦燥しょうそうつと共ともに乱れみだれて来きた。
彼かれの観念かんねんは彼かれの室むろの中なかを駆け廻っかけまわって落ちつけおちつけないので、制するせいするのも聞かきかずに、戸外こがいへ出でて縦横じゅうおうに走っはしった。
やがて彼かれの前まえに、霜降そうこうの外套がいとうを着きた黒くろの中折なかおれを被っかぶった背せの高いたかい瘠ぎすやせぎすの紳士しんしが、彼かれのこれから探そうさがそうというその人ひとの権威けんいを具えそなえて、ありありと現われあらわれた。
するとその顔かおがたちまち大連だいれんにいる森本もりもとの顔かおになった。
彼かれはだらしのない髯ひげを生やしはやした森本もりもとの容貌ようぼうを想像そうぞうの眼めで眺めながめた時じ、突然とつぜん電流でんりゅうに感じかんじた人ひとのようにあっと云っいった。
二十三にじゅうさん
森本もりもとの二に字じはとうから敬太郎けいたろうの耳みみに変へんな響ひびきを伝えるつたえる媒介ばいかいとなっていたが、この頃ころではそれが一層いっそう高じこうじて全然ぜんぜん一種いっしゅの符ふ徴しるしに変化へんかしてしまった。
元もとからこの男おとこの名前なまえさえ出るでると、必ずかならず例れいの洋杖すてっきを聯想れんそうしたものだが、洋杖すてっきが二人ふたりを繋ぐつなぐ縁えんに立ったっていると解釈かいしゃくしても、あるいは二人ふたりの中なかを割くさく邪魔じゃまに挟まっはさまっていると見傚しみなしても、とにかく森本もりもととこの竹たけの棒ぼうの間まにはある距離きょりがあって、そう一いち足あし飛ひに片方かたほうから片方かたほうへ移るうつる訳わけに行かいかなかったのに、今いまではそれが一いちつになって、森本もりもとと云えいえば洋杖すてっき、洋杖すてっきと云えいえば森本もりもとというくらい劇しくはげしく敬太郎けいたろうの頭あたまを刺戟しげきするのである。
その刺戟しげきを受けうけた彼かれの頭あたまに、自分じぶんの所有しょゆうのようなまた森本もりもとの所有しょゆうのような、持主もちぬしのどっちとも片づかかたづかないという観念かんねんが、熱っねつった血ちに流さながされながら偶然ぐうぜん浮び上っうかびあがった時じ、彼かれはああこれだと叫んさけんで、乱れみだれ逃げるにげる黒いくろい影かげの内うちから、その洋杖すてっきだけをうんと捕まえつかまえたのである。
「自分じぶんのような他人たにんのような」と云っいった婆ばあさんの謎なぞはこれで解けとけたものと信じしんじて、敬太郎けいたろうは一人ひとり嬉しうれしがった。
けれどもまだ「長いながいような短かいみじかいような、出るでるような這入るはいるような」というところまでは考えかんがえて見みないので、彼かれはあまる二にカ条かじょうの特性とくせいをも等しくひとしくこの洋杖すてっきの中なかから探し出そうさがしだそうという料簡りょうけんで、さらに新たあらたな努力どりょくを鼓舞こぶしてかかった。
始めはじめは見方みかた一いちつで長くながくもなり短かくみじかくもなるくらいの意味いみかも知れしれないと思っおもって、先さきへ進んすすんで見みたが、それでは余りあまり平凡へいぼん過ぎすぎて、解釈かいしゃくがついたもつかないも同じおなじ事ことのような心持こころもちがした。
そこでまた後戻りあともどりをして、「長いながいような短かいみじかいような」という言葉ことばを幾度いくどか口くちの内うちでくり返しくりかえしながら思案しあんした。
が、容易よういに解決かいけつのできる見込みこみは立たたたなかった。
時計とけいを見るみると、自由じゆうに使っつかっていい二に時間じかんのうちで、もう三十さんじゅう分ぶんしか残っのこっていない。
彼かれは抜ぬけ裏うらと間違えまちがえて袋ふくろの口くちへ這入りはいり込んこんだ結果けっか、好んこのんで行き悩みいきなやみの状態じょうたいに悶えもだえているのでは無かろうなかろうかと、自分じぶんで自分じぶんの判断はんだんを危ぶみあやぶみ出しだした。
出端ではなのない行きどまりいきどまりに立つたつくらいなら、もう一遍いちぺん引き返しひきかえして、新らしいあたらしい途とを探すさがす方ほうがましだとも考えかんがえた。
しかしこう時間じかんが逼っせまっているのに、初手しょてから出直しでなおしては、とても間に合うまにあうはずがない、すでにここまで来きられたという一部分いちぶぶんの成功せいこうを縁えん喜きにして、是非ぜひ先さきへ突き抜けるつきぬける方ほうが順当じゅんとうだとも考えかんがえた。
これがよかろうあれがよかろうと右左みぎひだりに思い乱れおもいみだれている中なかに、彼かれの想像そうぞうはふと全体ぜんたいとしての杖つえを離れはなれて、握りにぎりに刻まきざまれた蛇へびの頭あたまに移っうつった。
その瞬間しゅんかんに、鱗うろこのぎらぎらした細長いほそながい胴どうと、匙さじの先さきに似にた短かいみじかい頭あたまとを我われ知らしらず比較ひかくして、胴どうのない鎌首かまくびだから、長くながくなければならないはずだのに短かくみじかく切らきられている、そこがすなわち長いながいような短かいみじかいような物ものであると悟っさとった。
彼かれはこの答案とうあんを稲妻いなずまのごとく頭あたまの奥おくに閃めかしひらめかして、得意とくいの余りあまり踴躍した。
あとに残っのこった「出るでるような這入るはいるような」ものは、大したたいした苦労くろうもなく約やく五ご分ぶんの間まに解けとけた。
彼かれは鶏卵けいらんとも蛙かわずとも何なんとも名状めいじょうしがたい或ある物ものが、半ばなかば蛇へびの口くちに隠れかくれ、半ばなかば蛇へびの口くちから現われあらわれて、呑みのみ尽さつくされもせず、逃れのがれ切りきりもせず、出るでるとも這入るはいるとも片かたのつかない状態じょうたいを思い浮かべおもいうかべて、すぐこれだと判断はんだんしたのである。
これで万事ばんじが綺麗きれいに解決かいけつされたものと考えかんがえた敬太郎けいたろうは、躍り上るおどりあがるように机つくえの前まえを離れはなれて、時計とけいの鎖くさりを帯おびに絡んからんだ。
帽子ぼうしは手てに持っもったまま、袴はかまも穿かはかずに室むろを出ようでようとしたが、あの洋杖すてっきをどうして持っもって出でたものだろうかという問題もんだいがちょっと彼かれを躊躇ちゅうちょさした。
あれに手てを触れるふれるのは無論むろん、たとい傘かさ入いりから引き出しひきだしたところで、森本もりもとが置き去りおきざりにして行っいってからすでに久しいひさしい今日きょうとなって見れみれば、主人しゅじんに断わらことわらないにしろ、咎めとがめられたり怪しまあやしまれたりする気遣きづかいはないにきまっているが、さて彼かれらが傍そばにいない時じ、またおるにしても見みないうちに、それを提げさげて出ようでようとするには相当そうとうの思慮しりょか準備じゅんびが必要ひつようになる。
迷信めいしんのはびこる家庭かていに成長せいちょうした敬太郎けいたろうは、呪禁じゅごんに使うつかう品物しなものを(これからその目的もくてきに使うつかうんだという料簡りょうけんがあって)手てに入れるいれる時じには、きっと人ひとの見みていない機会きかいを偸んぬすんでやらなければ利かりかないという言い伝えいいつたえを、郷里きょうりにいた頃ころ、よく母ははから聞かさきかされていたのである。
敬太郎けいたろうは宿やどの上り口あがりぐちの正面しょうめんにかけてある時計とけいを見るみるふりをして、二に階かいの梯子段はしごだんの中途ちゅうとまで降りふりて下したの様子ようすを窺がった。
二十四にじゅうよん
主人しゅじんは六ろく畳たたみの居間いまに、例れいの通りとおり大きなおおきな瀬戸物せとものの丸火まるび鉢ばちを抱え込んかかえこんでいた。
細君さいくんの姿すがたはどこにも見えみえなかった。
敬太郎けいたろうが梯子段はしごだんの中途ちゅうとで、及び腰およびごしをして、硝子がらす越こしに障子しょうじの中なかを覗いのぞいていると、主人しゅじんの頭あたまの上うえで忽然こつぜん呼鈴よびりんが烈しくはげしく鳴りなり出しだした。
主人しゅじんは仰向いあおむいて番号ばんごうを見みながら、おい誰だれかいないかねと次の間つぎのまへ声こえをかけた。
敬太郎けいたろうはまたそろそろ三さん階かいの自分じぶんの室むろへ帰っかえって来きた。
彼かれはわざわざ戸棚とだなを開けあけて、行李こうりの上うえに投げ出しなげだしてあるセルせるの袴はかまを取り出しとりだした。
彼かれはそれを穿くはくとき、腰板こしいたを後あとに引き摺っひきずって、室むろの中なかを歩きあるき廻っまわった。
それから足袋たびを脱いぬいで、靴下くつしたに更さらえた。
これだけ身装しんそうを改めあらためた上うえ、彼かれはまた三さん階かいを下りくだりた。
居間いまを覗くのぞくと細君さいくんの姿すがたは依然いぜんとして見えみえなかった。
下女げじょもそこらにはいなかった。
呼鈴よびりんも今度こんどは鳴らならなかった。
家いえ中なかひっそり閑ひっそりかんとしていた。
ただ主人しゅじんだけは前まえの通りとおり大きなおおきな丸まる火鉢ひばちに靠れもたれて、上り口あがりぐちの方ほうを向いむかいたなりじっと坐っすわっていた。
敬太郎けいたろうは段々だんだんを下したまで降りふり切らきらない先さきに、高いたかい所ところから斜しゃに主人しゅじんの丸くまるくなった背中せなかを見みて、これはまだ都合つごうが悪いわるいと考えかんがえたが、ついに思い切っおもいきって上り口あがりぐちへ出でた。
主人しゅじんは案あんの上うえ、「御ご出かけでかけで」と挨拶あいさつした。
そうして例れいの通りとおり下女げじょを呼んよんで下駄箱げたばこにしまってある履物はきものを出さださせようとした。
敬太郎けいたろうは主人しゅじん一人ひとりの眼めを掠すめるかすめるのにさえ苦心くしんしていたところだから、この上下じょうげ女おんなに出でられては敵わかなわないと思っおもって、いや宜しいよろしいと云いいいながら、自分じぶんで下駄箱げたばこの垂しでを上げあげて、早速さっそく靴くつを取りおろしとりおろした。
旨いうまい具合ぐあいに下女げじょは彼かれが土間どまへ降り立つおりたつまで出でて来きなかった。
けれども、亭主ていしゅは依然いぜんとしてこっちを向いむかいていた。
「ちょっと御ご願がんですがね。室むろの机つくえの上うえに今月こんげつの法学ほうがく協会きょうかい雑誌ざっしがあるはずだが、ちょっと取っとって来きてくれませんか。靴くつを穿いはいてしまったんで、また上るのぼるのが面倒めんどうだから」 敬太郎けいたろうはこの主人しゅじんに多少たしょう法律ほうりつの心得こころえがあるのを知っしって、わざとこう頼んたのんだのである。
主人しゅじんは自分じぶんよりほかのものでは到底とうてい弁じべんじない用事ようじなので、「はあようがす」と云っいって気さくきさくに立ったって梯子段はしごだんを上っのぼって行っいった。
敬太郎けいたろうはそのひまに例れいの洋杖すてっきを傘かさ入いりから抽き取っとったなり、抱き込むだきこむように羽織はおりの下したへ入れいれて、主人しゅじんの座ざに帰らかえらないうちにそっと表ひょうへ出でた。
彼かれは洋杖すてっきの頭あたまの曲っきょくった角かくを、右みぎの腋の下わきのしたに感じかんじつつ急ぎ足いそぎあしに本郷ほんごうの通つうまで来きた。
そこでいったん羽織はおりの下したから杖つえを出しだして蛇へびの首くびをじっと眺めながめた。
そうして袂たもとの手帛はんけちで上うえから下したまで綺麗きれいに埃ほこりを拭いぬぐいた。
それから後あとは普通ふつうの杖つえのように右みぎの手てに持っもって、力任せちからまかせに振り振りふりふり歩いあるいた。
電車でんしゃの上うえでは、蛇へびの頭あたまへ両手りょうてを重ねかさねて、その上うえに顋あごを載せのせた。
そうしてやっと今一いまいち段落だんらくついた自分じぶんの努力どりょくを顧みかえりみて、ほっと一息ひといき吐いはいた。
同時どうじにこれから先さき指定していされた停留所ていりゅうしょへ行っいってからの成否せいひがまた気きにかかり出しだした。
考えかんがえて見るみると、これほど骨ほねを折っおって、偸むぬすむように持ち出しもちだした洋杖すてっきが、どうすれば眉まゆと眉まゆの間まの黒子ほくろを見分けるみわける必要ひつよう品しなになるのか、全くまったく彼かれの思量しりょうのほかにあった。
彼かれはただ婆ばあさんに云わいわれた通りとおり、自分じぶんのような他人たにんのような、長いながいような短かいみじかいような、出るでるような這入るはいるようなものを、一生懸命いっしょうけんめいに探し当てさがしあてて、それを忘れわすれないで携さえているというまでであった。
この怪しあやしげに見えみえて平凡へいぼんな、しかもむやみに軽いかるい竹たけの棒ぼうが、寝かそうねかそうと起こそうおこそうと、手てに持とうもとうと袖そでに隠そうかくそうと、未知みちの人ひとを探すさがす上うえに、はたして何なんの役やくに立つたつか知らしらんと疑ぐっうたぐった時じ、彼かれはちょっとの間ま、瘧おこりを振い落しふるいおとした人ひとのようにけろりとして、車内しゃないを見み廻わしまわした。
そうして頭あたまの毛穴けあなから湯気ゆげの立つたつほど業ごうを煮やしにやした先刻せんこくの努力どりょくを気恥かしくきはずかしくも感じかんじた。
彼かれは自分じぶんで自分じぶんの所作しょさを紛らすまぎらす為ために、わざと洋杖すてっきを取り直しとりなおして、電車でんしゃの床ゆかをとんとんと軽くかるく叩いたたいた。
やがて目的もくてきの場所ばしょへ来きた時じ、彼かれはとりあえず青年せいねん会館かいかんの手前てまえから引き返しひきかえして、小川おがわ町まちの通つうへ出でたが、四よん時じにはまだ十五じゅうご分ぶんほど間まがあるので、彼かれは人通りひとどおりと電車でんしゃの響きひびきを横切っよこぎって向う側むこうがわへ渡っわたった。
そこには交番こうばんがあった。
彼かれは派出所はしゅつしょの前まえに立ったっている巡査じゅんさと同じおなじ態度たいどで、赤いあかいポストぽすとの傍そばから、真直まっすぐに南みなみへ走るはしる大通りおおどおりと、緩いゆりい弧線こせんを描いえがいて左右さゆうに廻りまわり込むごむ広いひろい往来おうらいとを眺めながめた。
これから自分じぶんの活躍かつやくすべき舞台面ぶたいめんを一応いちおうこういう風かぜに検分けんぶんした後あとで、彼かれはすぐ停留所ていりゅうしょの所在しょざいを確かめたしかめにかかった。
二十五にじゅうご
赤いあかい郵便ゆうびん函ばこから五六ごろく間ま東ひがしへ下るくだると、白いしろいペンキぺんきで小川おがわ町まち停留所ていりゅうしょと書いかいた鉄てつの柱はしらがすぐ彼かれの眼めに入っはいった。
ここにさえ待っまっていれば、たとい混雑こんざつに取り紛れとりまぎれて注意ちゅうい人物じんぶつを見失うみうしなうまでも、刻限こくげんに自分じぶんの部署ぶしょに着いついたという強味つよみはあると考えかんがえた彼かれは、これだけの安心あんしんを胸むねに握っにぎった上うえ、また目標もくひょうの鉄てつの柱はしらを離れはなれて、四辺しへんの光景こうけいを見廻しみまわした。
彼かれのすぐ後あとには蔵くら造つくりの瀬戸せと物屋ものやがあった。
小さいちいさい盃さかずきのたくさん並んならんだのを箱入はこいりにして額がくのように仕立てしたてたのがその軒下のきしたにかかっていた。
大きなおおきな鉄製てつせいの鳥籠とりかごに、陶器とうきでできた餌えさ壺つぼをいくつとなく外そとから括りくくりつけたのも、そこにぶら下がっぶらさがっていた。
その隣りとなりは皮かわ屋やであった。
眼めも爪つめも全くまったく生きいきた時じのままに残しのこした大きなおおきな虎とらの皮かわに、緋ひ羅紗らしゃの縁えんを取っとったのがこの店みせの重なおもな装飾そうしょくであった。
敬太郎けいたろうは琥珀こはくに似にたその虎とらの眼めを深くふかく見つめみつめて立ったった。
細長くほそながくって真白まっしろな皮かわでできた襟巻えりまきらしいものの先さきに、豆狸まめだぬきのような顔かおが付着ふちゃくしているのも滑稽こっけいに見えみえた。
彼かれは時計とけいを出しだして時間じかんを計りはかりながら、また次つぎの店みせに移っうつった。
そうして瑪瑙めのうで刻こくった透明とうめいな兎うさぎだの、紫水晶むらさきすいしょうでできた角形かくがたの印材いんざいだの、翡翠ひすいの根ね懸けんだの孔雀石くじゃくせきの緒いとぐち締しめだのの、金きんの指輪ゆびわやリンクスりんくすと共ともに、美びくしく並んならんでいる宝石商ほうせきしょうの硝子窓がらすまどを覗いのぞいた。
敬太郎けいたろうはこうして店みせから店みせを順々じゅんじゅんに見みながら、つい天下てんか堂どうの前まえを通り越しとおりこして唐木とうぼく細工さいくの店先みせさきまで来きた。
その時じ後あとから来きた電車でんしゃが、突然とつぜん自分じぶんの歩いあるいている往来おうらいの向う側むこうがわでとまったので、もしやという心こころから、筋違すじかいに通つうを横切っよこぎって細いほそい横町よこちょうの角かくにある唐物とうぶつ屋やの傍そばへ近寄るちかよると、そこにも一いち本ほんの鉄てつの柱はしらに、先刻せんこくのと同じおなじような、小川おがわ町まち停留所ていりゅうしょという文字もじが白くしろく書いかいてあった。
彼かれは念ねんのためこの角かくに立ったって、二三にさん台だいの電車でんしゃを待ち合わせまちあわせた。
すると最初さいしょには青山あおやまというのが来きた。
次つぎには九きゅう段だん新宿しんじゅくというのが来きた。
が、いずれも万世橋まんせいきょうの方ほうから真直まっすぐに進んすすんで来るくるので彼かれはようやく安心あんしんした。
これでよもやの懸念けねんもなくなったから、そろそろ元もとの位地いちに帰ろうかえろうというつもりで、彼かれは足あしの向むかいを更さらえにかかった途端とたんに、南みなみから来きた一いち台だいがぐるりと美土代町みとしろまちの角かくを回転かいてんして、また敬太郎けいたろうの立ったっている傍そばでとまった。
彼かれはその電車でんしゃの運転手うんてんしゅの頭あたまの上うえに黒くくろく掲げかかげられた巣鴨すがもの二に字じを読んよんだ時じ、始めはじめて自分じぶんの不注意ふちゅういに気きがついた。
三田みた方面ほうめんから丸の内まるのうちを抜けぬけて小川おがわ町まちで降りるおりるには、神田橋かんだばしの大通りおおどおりを真直まっすぐに突き当っつきあたって、左ひだりへ曲っきょくっても今いま敬太郎けいたろうの立ったっている停留所ていりゅうしょで降りふりられるし、また右みぎへ曲っきょくっても先刻せんこく彼かれの検分けんぶんしておいた瀬戸せと物屋ものやの前まえで降りふりられるのである。
そうして両方りょうほうとも同じおなじ小川おがわ町まち停留所ていりゅうしょと白いしろいペンキぺんきで書いかいてある以上いじょうは、自分じぶんがこれから後あとを跟けようつけようという黒いくろい中折なかおれの男おとこは、どっちへ降りるおりるのだか、彼かれにはまるで見当けんとうがつかない事ことになるのである。
眼めを走らはしらせて、二に本ほんの赤いあかい鉄柱てっちゅうの距離きょりを目分量めぶんりょうで測っはかって見るみると、一いち町まちには足りたりないくらいだが、いくら眼めと鼻はなの間まだからと云っいって、一方いっぽうだけを専門せんもんにしてさえ覚束ないおぼつかない彼かれの監視かんし力ちからに対したいして、両方りょうほう共とも手落ておちなく見張りみはり終おわりせる手際てぎわを要求ようきゅうするのは、どれほど自分じぶんの敏腕びんわんを高くたかく見積りみつもりたい今いまの敬太郎けいたろうにも絶対ぜったいの不可能ふかのうであった。
彼かれは自分じぶんの住居じゅうきょっている地理ちり上うえの関係かんけいから、常つねに本郷ほんごう三田みた間まを連絡れんらくする電車でんしゃにばかり乗っのっていたため、巣鴨すがも方面ほうめんから水道橋すいどうばしを通っとおって同じくおなじく三田みたに続くつづく線路せんろの存在そんざいに、今いまが今までいままで気きがつかずにいた自己じこの迂闊うかつを深くふかく後悔こうかいした。
彼かれは困却こんきゃくの余りあまりふと思いついおもいついた窮策きゅうさくとして、須永すながの助力じょりょくでも借りかりに行こういこうかと考えかんがえた。
しかし時計とけいはもう四よん時じ七なな分ぶん前まえに逼っせまっていた。
ついこの裏通うらみちに住んすんでいる須永すながだけれども、門前もんぜんまで駈けつけるかけつける時間じかんと、かい摘んかいつまんで用事ようじを呑み込まのみこます時間じかんを勘定かんじょうに入れれいれればとても間に合いまにあいそうにない。
よしそのくらいの間まは取れるとれるとしたところで、須永すながに一方いっぽうの見張りみはりを頼むたのむ以上いじょうは、もし例れいの紳士しんしが彼かれのいる方ほうへ降りるおりるならば、何なんかの手段しゅだんで敬太郎けいたろうに合図あいずをしなければならない。
それもこの人ひと込こみの中なかだから、手てを挙げあげたり手帛はんけちを振るふるぐらいではちょっと通じつうじかねる。
紛れまぎれもなく敬太郎けいたろうに分らわからせようとするには、往来おうらいを驚ろかすおどろかすほどな大きなおおきな声こえで叫ぶさけぶに限るかぎると云っいってもいいくらいなものだが、そう云ういう突飛とっぴなよほどな場合ばあいでも体裁ていさいを重んずるおもんずる須永すながのような男おとこにできるはずがない。
万一まんいち我慢がまんしてやってくれたところで、こっちから駆けかけて行くいく間まには、肝心かんじんの黒くろの中折なかおれ帽ぼうを被っかぶった男おとこの姿すがたは見えみえなくなってしまわないとも云えいえない。
――こう考えかんがえた敬太郎けいたろうはやむを得とくないから運うんを天てんに任せまかせてどっちか一方いっぽうの停留所ていりゅうしょだけ守ろうまもろうと決心けっしんした。
二十六にじゅうろく
決心けっしんはしたようなものの、それでは今いま立ったっている所ところを動かうごかないための横着おうちゃくと同じおなじ事ことになるので、わざと成せい効かいを度外どがいに置いおいて仕事しごとにかかった不安ふあんを感ぜかんぜずにはいられなかった。
彼かれは首くびを延ばすのばすようにして、また東ひがしの停留所ていりゅうしょを望んのぞんだ。
位地いちのせいか、向むかいの具合ぐあいか、それとも自分じぶんが始終しじゅう乗降じょうこうに慣れなれている訳わけか、どうもそちらの方ほうが陽気ようきに見えみえた。
尋ねるたずねる人ひとも何なんだか向むかいで降りふりそうな心持こころもちがした。
彼かれはもう一度いちど見張るみはるステーションすてーしょんを移そううつそうかと思いおもいながら、なおかつ決しけっしかねてしばらく躊躇ちゅうちょしていた。
するとそこへ江戸川えどかわ行こうの電車でんしゃが一いち台だい来きてずるずるととまった。
誰だれも降こう者ものがないのを確かめたしかめた車掌しゃしょうは、一いち分ぶんと立たたたないうちにまた車くるまを出そうでそうとした。
敬太郎けいたろうは錦町にしきちょうへ抜けるぬける細いほそい横町よこちょうを背せにして、眼めの前まえの車台しゃだいにはほとんど気きのつかないほど、ここにいようかあっちへ行こういこうかと迷っまよっていた。
ところへ後あとの横町よこちょうから突然とつぜん馳はせけ出しけだして来きた一人ひとりの男おとこが、敬太郎けいたろうを突き除けるつきのけるようにして、ハンドルはんどるへ手てをかけた運転手うんてんしゅの台だいへ飛び上っとびあがった。
敬太郎けいたろうの驚ろきおどろきがまだ回復かいふくしないうちに、電車でんしゃはがたりと云ういう音おとを出しだしてすでに動き始めうごきはじめた。
飛び上がっとびあがった男おとこは硝子戸がらすとの内うちへ半分はんぶん身体しんたいを入れいれながら失敬しっけいしましたと云っいった。
敬太郎けいたろうはその男おとこと顔かおを見合せみあわせた時じ、彼かれの最後さいごの視線しせんが、自分じぶんの足あしの下したに落ちおちたのを注意ちゅういした。
彼かれは敬太郎けいたろうに当っあたった拍子ひょうしに、敬太郎けいたろうの持っもっていた洋杖すてっきを蹴飛ばしけとばして、それを持主もちぬしの手てから地面じめんの上うえへ振り落さふりおとさしたのである。
敬太郎けいたろうは直じか曲きょくんで洋杖すてっきを拾い上げようひろいあげようとした。
彼かれはその時じ蛇へびの頭あたまが偶然ぐうぜん東向ひがしむきに倒れたおれているのに気きがついた。
そうしてその頭あたまの恰好かっこを何なんとなしに、方角ほうがくを教えるおしえる指標しひょうのように感じかんじた。
「やっぱり東ひがしが好かろうよかろう」 彼かれは早足はやあしに瀬戸せと物屋ものやの前まえまで帰っかえって来きた。
そこで本郷三丁目ほんごうさんちょうめと書いかいた電車でんしゃから降りるおりる客きゃくを、一人ひとり残らのこらず物色ぶっしょくする気きで立ったった。
彼かれは最初さいしょの二三にさん台だいを親おやの敵てきでも覘うように怖いこわい眼つきめつきで吟味ぎんみした後あと、少しすこし心こころに余裕よゆうができるに連れつれて、腹はらの中なかがだんだん気丈きじょうになって来きた。
彼かれは自分じぶんの眼めの届くとどく広場ひろばを、一面いちめんの舞台ぶたいと見傚しみなして、その上うえに自分じぶんと同じおなじ態度たいどの男おとこが三さん人ひといる事ことを発見はっけんした。
その一人ひとりは派出所はしゅつしょの巡査じゅんさで、これは自分じぶんと同じおなじ方ほうを向いむかいて同じおなじように立ったっていた。
もう一人ひとりは天下てんか堂どうの前まえにいるポイントマンぽいんとまんであった。
最後さいごの一人ひとりは広場ひろばの真中まなかに青あおと赤あかの旗はたを神聖しんせいな象徴しょうちょうのごとく振り分けるふりわける分別ぶんべつ盛りもりの中年ちゅうねん者ものであった。
そのうちでいつ出でて来るくるか知れしれない用事ようじを期待きたいしながら、人目ひとめにはさも退屈たいくつそうに立ったっているものは巡査じゅんさと自分じぶんだろうと敬太郎けいたろうは考えかんがえた。
電車でんしゃは入れ代りいれかわり立ち代りたちかわり彼かれの前まえにとまった。
乗るのるものは無理むりにも窮屈きゅうくつな箱ばこの中なかに押し込もうおしこもうとする、降りるおりるものは権柄けんぺいずくで上うえから伸しのしかかって来るくる。
敬太郎けいたろうはどこの何物なにものとも知れしれない男女だんじょが聚まったり散っちったりするために、自分じぶんの前まえで無作法むさほうに演じえんじ出すだす一いち分ぶん時じの争そうを何度なんどとなく見みた。
けれども彼かれの目的もくてきとする黒くろの中折なかおれの男おとこはいくら待っまっても出でて来きなかった。
ことに依るよると、もうとうに西にしの停留所ていりゅうしょから降りふりてしまったものではなかろうかと思うおもうと、こうして役やくにも立たたたない人ひとの顔かおばかり見つめみつめて、眼めのちらちらするほど一いちつ所ところに立ったっているのは、随分ずいぶん馬鹿ばか気きた所作しょさに見えみえて来るくる。
敬太郎けいたろうは下宿げしゅくの机つくえの前まえで熱ねつに浮かさうかされた人ひとのように夢中むちゅうで費やしついやした先刻せんこくの二に時間じかんを、充分じゅうぶん須永すながと打ち合せうちあわせをして彼かれの援助えんじょを得るうるために利用りようした方ほうが、遥かはるかに常識じょうしきに適っかなった遣けん口くちだと考え出しかんがえだした。
彼かれがこの苦いにがい気分きぶんを痛切つうせつに甞めさせられる頃ころから空そらはだんだん光ひかりを失なっうしなって、眼めに映るうつる物ものの色いろが一面いちめんに蒼くあおく沈んしずんで来きた。
陰鬱いんうつな冬ふゆの夕暮ゆうぐれを補なうおぎなう瓦斯がすと電気でんきの光ひかりがぽつぽつそこらの店みせ硝子がらすを彩どりいろどり始めはじめた。
ふと気きがついて見るみると、敬太郎けいたろうから一いち間まばかりの所ところに、廂ひさし髪かみに結っけつった一人ひとりの若いわかい女おんなが立ったっていた。
電車でんしゃの乗降じょうこうが始まるはじまるたびに、彼かれは注意ちゅういの余波よはを自分じぶんの左右さゆうに払っはらっていたつもりなので、いつどっちから歩き寄っあるきよったか分らわからない婦人ふじんを思わおもわぬ近くちかくに見みた時じは、何なんより先さきにまずその存在そんざいに驚ろかさおどろかされた。
二十七にじゅうなな
女おんなは年ねんに合わしあわして地味じみなコートこーとを引き摺るひきずるように長くながく着きていた。
敬太郎けいたろうは若いわかい人ひとの肉にくを飾るかざる華麗かれいな色いろをその裏うらに想像そうぞうした。
女おんなはまたわざとそれを世間せけんから押し包むおしくるむようにして立ったっていた。
襦袢じゅばんの襟えりさえ羽二重はぶたえの襟巻えりまきで隠しかくしていた。
その羽二重はぶたえの白いしろいのが、夕暮ゆうぐれの逼るせまるに連れつれて、空気くうきから浮き出しうきだして来るくるほかに、女おんなは身みの周囲しゅういに何なんといって他ほかの注意ちゅういを惹くひくものを着けつけていなかった。
けれども時節柄じせつがらに頓着とんちゃくなく、当人とうにんの好尚こうしょうを示ししめしたこの一色いっしょくが、敬太郎けいたろうには何なんよりも際立っきわだって見えみえた。
彼かれは光ひかりの抜けぬけて行くいく寒いさむい空そらの下したで、不調和ふちょうわな異ないな物ものに出逢っであった感じかんじよりも、煤けすすけた往来おうらいに冴々さえざえしい一いち点てんを認めみとめた気分きぶんになって女おんなの頸くびの辺へんを注意ちゅういした。
女おんなは敬太郎けいたろうの視線しせんを正面しょうめんに受けうけた時じ、心持こころもち身体しんたいの向むかいを変えかえた。
それでもなお落ちつかおちつかない様子ようすをして、右みぎの手てを耳みみの所ところまで上げあげて、鬢びんから洩れもれた毛けを後あとへ掻きかきやる風かぜをした。
固よりもとより女おんなの髪かみは綺麗きれいに揃っそろっていたのだから、敬太郎けいたろうにはこの挙動きょどうが実じつのない科かとしてのみ映っうつったのだが、その手てを見みた時じ彼かれはまた新たあらたな注意ちゅういを女おんなから強いつよいられた。
女おんなは普通ふつうの日本にっぽんの女性じょせいのように絹きぬの手袋てぶくろを穿めていなかった。
きちりと合うあう山羊やぎの革製かわせいので、華奢きゃしゃな指ゆびをつつましやかに包んつつんでいた。
それが色いろの着いついた蝋ろうを薄くうすく手の甲てのこうに流しながしたと見えるみえるほど、肉にくと革かわがしっくりくっついたなり、一筋ひとすじの皺しわも一いち分ぶんの弛みたるみも余しよしていなかった。
敬太郎けいたろうは女おんなの手てを上げあげた時じ、この手袋てぶくろが女おんなの白いしろい手頸てくびを三さん寸すんも深くふかく隠しかくしているのに気きがついた。
彼かれはそれぎり眼めを転じてんじてまた電車でんしゃに向っむかった。
けれども乗降じょうこうの一いち混雑こんざつが済んすんで、思うおもう人ひとが出でて来きないと、また心こころに二三にさん分ぶんの余裕よゆうができるので、それを利用りようしようと待ち構えるまちかまえるほどの執着しゅうちゃくはなかったにせよ、電車でんしゃの通り越しとおりこした相間あいま相間あいまには覚らさとられないくらいの視力しりょくを使っつかって常つねに女おんなの方ほうを注意ちゅういしていた。
始めはじめ彼かれはこの女おんなを「本郷ほんごう行こう」か「亀沢町かめざわまち行こう」に乗るのるのだろうと考えかんがえていた。
ところが両方りょうほうの電車でんしゃが一いち順じゅん廻っまわって来きて、自分じぶんの前まえに留っとめっても、いっこう乗るのる様子ようすがないので、彼かれは少々しょうしょう変へんに思っおもった。
あるいは無理むりに込み合っこみあっている車台しゃだいに乗っのって、押し潰さおしつぶされそうな窮屈きゅうくつを我慢がまんするよりも、少しすこし時間じかんの浪費ろうひを怺えこらえた方ほうが差引さしひき得とくになるという主義しゅぎの人ひとかとも考えかんがえて見みたが、満員まんいんという札さつもかけず、一いちつや二につの空席くうせきは充分じゅうぶんありそうなのが廻っまわって来きても、女おんなは少しすこしも乗るのる素もと振ぶりを見せみせないので、敬太郎けいたろうはいよいよ変へんに思っおもった。
女おんなは敬太郎けいたろうから普通ふつう以上いじょうの注意ちゅういを受けうけていると覚っさとったらしく、彼かれが少しすこしでも手足てあしの態度たいどを改あらためためると、雨あめの降らふらないうちに傘かさを広げるひろげる人ひとのように、わざと彼かれの観察かんさつを避けるさける準備じゅんびをした。
そうして故意こいに反対はんたいの方ほうを見みたり、あるいは向うむこうへ二三にさん歩あゆみあるき出しだしたりした。
それがため、妙みょうに遠慮えんりょ深いぶかいところのできた敬太郎けいたろうはなるべく露骨ろこつに女おんなの方ほうを見るみるのを慎しんつつしんでいた。
がしまいにふと気きがついて、この女おんなは不案内ふあんないのため、自分じぶんの勝手かってで好いよい加減かげんにきめた停留所ていりゅうしょの前まえに来きて、乗れのれもしない電車でんしゃをいつまでも待っまっているのではなかろうかと思っおもった。
それなら親切しんせつに教えおしえてやるべきだという勇気ゆうきが急きゅうに起っおこったので、彼かれは逡巡しゅんじゅんする気色けしきもなく、真正面ましょうめんに女おんなの方ほうを向いむかいた。
すると女おんなはふいと歩きあるき出しだして、二三にさん間ま先さきの宝石商ほうせきしょうの窓際まどぎわまで行っいったなり、あたかも敬太郎けいたろうの存在そんざいを認めみとめぬもののごとくに、そこで額がくを窓まど硝子がらすに着けるつけるように、中なかに並べならべた指環ゆびわだの、帯留おびどめだの枝えだ珊瑚さんごの置物おきものだのを眺めながめ始めはじめた。
敬太郎けいたろうは見みず知らしらずの他人たにんに入らはいらざる好意こうい立たてをして、かえって自分じぶんと自分じぶんの品位ひんいを落しおとしたのを馬鹿ばからしく感じかんじた。
女おんなの容貌ようぼうは始めはじめから大したたいしたものではなかった。
真向まっこうに見るみるとそれほどでもないが、横よこから眺めながめた鼻はなつきは誰だれの目めにも少しすこし低てい過ぎすぎた。
その代りかわり色いろが白くしろくて、晴々しいはればれしい心持こころもちのする眸ひとみを有っあっていた。
宝石商ほうせきしょうの電灯でんとうは今いま硝子がらす越こしに彼女かのじょの鼻はなと、豊ゆたかくらした頬ほおの一部分いちぶぶんと額がくとを照らしてらして、斜しゃかけに立ったっている敬太郎けいたろうの眼めに、光ひかりと陰かげとから成るなる一種いっしゅ妙みょうな輪廓りんかくを与えあたえた。
彼かれはその輪廓りんかくと、長いながいコートこーとに包まつつまれた恰好かっこのいい彼女かのじょの姿すがたとを胸むねに収めおさめて、また電車でんしゃの方ほうに向っむかった。
二十八にじゅうはち
電車でんしゃがまた二三にさん台だい来きた。
そうして二三にさん台だい共ともまた敬太郎けいたろうの失望しつぼうをくり返さくりかえさして東ひがしへ去っさった。
彼かれは成功せいこうを思い切っおもいきった人ひとのごとくに帯おびの下したから時計とけいを出しだして眺めながめた。
五ご時じはもうとうに過ぎすぎていた。
彼かれは今更いまさら気きがついたように、頭あたまの上うえに被さるかぶさる黒いくろい空そらを仰いおっしゃいで、苦々しくにがにがしく舌した打だをした。
これほど骨ほねを折っおって網あみを張っちょうった中なかへかからない鳥とりは、西にしの停留所ていりゅうしょから平気へいきで逃げにげたんだと思うおもうと、他ほかを騙すだますためにわざわざ拵らえこしらえた婆ばあさんの予言よげんも、大事だいじそうに持っもって出でた竹たけの洋杖すてっきも、その洋杖すてっきが与えあたえてくれた方角ほうがくの暗示あんじも、ことごとく忌々しいまいましさの種しゅになった。
彼かれは暗いくらい夜よるを欺ぎむいて眼め先さきにちらちらする電灯でんとうの光ひかりを見廻しみまわして、自分じぶんをその中心ちゅうしんに見出しみだした時じ、この明るいあかるい輝きかがやきも必竟ひっきょう自分じぶんの見残しみのこした夢ゆめの影かげなんだろうと考えかんがえた。
彼かれはそのくらい興きょうを覚ましさましながらまだそのくらい寝惚けねとぼけた心持こころもちを失わうしなわずに立ったっていたが、やがて早くはやく下宿げしゅくへ帰っかえって正気せいきの人間にんげんになろうという覚悟かくごをした。
洋杖すてっきは自分じぶんの馬鹿ばかを嘲けるあざける記念きねんだから、帰りがけかえりがけに人ひとの見みていない所ところで二につに折っおって、蛇へびの頭あたまも鉄てつの輪わの突とっがねもめちゃめちゃに、万世橋まんせいきょうから御茶の水おちゃのみずへ放り込んほうりこんでやろうと決心けっしんした。
彼かれはすでに動こううごこうとして一歩いちほ足あしを移しうつしかけた時じ、また先刻せんこくの若いわかい女おんなの存在そんざいに気きがついた。
女おんなはいつの間まにか宝石商ほうせきしょうの窓まどを離れはなれて、元もとの通りとおり彼かれから一いち間まばかりの所ところに立ったっていた。
背せが高いたかいので、手足てあしも人ひと尋常じんじょうより恰好かっこよく伸びのびたところを、彼かれは快よくこころよく始めはじめから眺めながめたのだが、今度こんどはことにその右みぎの手てが彼かれの心こころを惹いひいた。
女おんなは自然しぜんのままにそれをすらりと垂れたれたなり、まるで他ほかの注意ちゅういを予期よきしないでいたのである。
彼かれは素直すなおに調子ちょうしの揃っそろった五本ごぽんの指ゆびと、しなやかな革かわで堅くかたく括らくくられた手頸てくびと、手頸てくびの袖口そでぐちの間まから微かかすかに現われるあらわれる肉にくの色いろを夜よるの光ひかりで認めみとめた。
風かぜの少ないすくない晩ばんであったが、動かうごかないで長くながく一所いっしょに立ち尽すたちつくすものに、寒ささむさは辛くつらく当っあたった。
女おんなは心持ちこころもち顋あごを襟巻えりまきの中なかに埋めうめて、俯目ふしめ勝かちにじっとしていた。
敬太郎けいたろうは自分じぶんの存在そんざいをわざと眼中がんちゅうに置かおかないようなこの眼め遣けんの底そこに、かえって自分じぶんが気きにかかっているらしい反証はんしょうを得とくたと信じしんじた。
彼かれが先刻せんこくから蚤取のみとり眼めで、黒くろの中折なかおれ帽ぼうを被っかぶった紳士しんしを探しさがしている間ま、この女おんなは彼かれと同じおなじ鋭どいするどい注意ちゅういを集めあつめて、観察かんさつの矢やを絶えたえずこっちに射いがけていたのではなかろうか。
彼かれはある男おとこを探偵たんていしつつ、またある女おんなに探偵たんていされつつ、一いち時間じかん余よをここに過ごしすごしたのではなかろうか。
けれどもどこの何物なにものとも知れしれない男おとこの、何なんをするか分らわからない行動こうどうを、何なんのために探るさぐるのだか、彼かれには何なんらの考かんがえがなかったごとく、どこの何物なにものとも知れしれない女おんなから何なんを仕出かすしでかすか分らわからない人ひととして何なんのために自分じぶんが覘われるのだか、そこへ行くいくとやはりまるで要領ようりょうを得とくなかった。
敬太郎けいたろうはこっちで少しすこし歩きあるき出しだして見せみせたら向うむこうの様子ようすがもっと鮮明せんめいに分るわかるだろうという気きになって、そろりそろりと派出所はしゅつしょの後あとを西にしの方ほうへ動いうごいて行っいった。
もちろん女おんなに勘づかかんづかれないために、彼かれは振向いふりむいて後あとを見るみる動作どうさを固くかたく憚かっはばかった。
けれどもいつまでも前まえばかり見みて先さきへ行っいっては、肝心かんじんの目的もくてきを達するたっする機会きかいがないので、彼かれは十じゅう間まほど来きたと思うおもう時分じぶんに、わざと見みたくもない硝子窓がらすまどを覗いのぞいて、そこに飾っかざってある天鵞絨びろーどの襟えりの着いついた女の子おんなのこのマントまんとを眺めるながめる風かぜをしながら、そっと後あとを振り向いふりむいた。
すると女おんなは自分じぶんの背後はいごにいるどころではなかった。
延びのび上っのぼってもいろいろな人ひとが自分じぶんを追越すおいこすように後あとから後あとから来るくる陰かげになって、白いしろい襟巻えりまきも長いながいコートこーともさらに彼かれの眼めに入らはいらなかった。
彼かれはそのまま前まえへ進むすすむ勇気ゆうきがあるかを自分じぶんに疑ぐっうたぐった。
黒いくろい中折なかおれの帽子ぼうしを被っかぶった人ひとの事ことなら、定刻ていこくの五ご時じを過ぎすぎた今いまだから、断念だんねんしてもそれほどの遺憾いかんはないが、女おんなの方ほうはどんなつまらない結果けっかに終ろうおわろうとも、最少さいしょうし観察かんさつしていたかった。
彼かれは女おんなから自分じぶんが探偵たんていされていると云ういう疑念ぎねんを逆ぎゃくに投げ返しなげかえして、こっちから女おんなの行動こうどうを今いましばらく注意ちゅういして見ようみようという物もの数奇すうきを起しおこした。
彼かれは落し物おとしものを拾いひろいに帰るかえる人ひとの急ぎ足いそぎあしで、また元もとの派出所はしゅつしょ近くちかく来きた。
そこの暗いくらい陰かげに身みを寄せるよせるようにして窺ううかがうと、女おんなは依然いぜんとしてじっと通りとおりの方ほうを向いむかいて立ったっていた。
敬太郎けいたろうの戻っもどった事ことにはまるで気きがついていない風かぜに見えみえた。
二十九にじゅうきゅう
その時じ敬太郎けいたろうの頭あたまに、この女おんなは処女しょじょだろうか細君さいくんだろうかという疑ぎが起っおこった。
女おんなは現代げんだい多数たすうの日本にっぽん婦人ふじんにあまねく行わおこなわれる廂ひさし髪かみに結っけつっているので、その辺へんの区別くべつは始めはじめから不ふ分明ふんみょうだったのである。
が、いよいよ物陰ものかげに来きて、半はん後あとになったその姿すがたを眺めながめた時じは、第だい一いち番ばんにどっちの階級かいきゅうに属するぞくする人ひとだろうという問題もんだいが、新たあらたに彼かれを襲っおそって来きた。
見かけみかけからいうとあるいは人ひとに嫁いよめいだ経験けいけんがありそうにも思わおもわれる。
しかし身体しんたいの発育はついくが尋常じんじょうより遥かはるかに好いよいからことによれば年ねんは存外ぞんがい取っとっていないのかも知れしれない。
それならなぜあんな地味じみな服装ふくそうをしているのだろう。
敬太郎けいたろうは婦人ふじんの着るきる着物きものの色いろや縞柄しまがらについて、何なんをいう権利けんりも有ゆうたない男おとこだが、若いわかい女おんなならこの陰鬱いんうつな師走しわすの空気くうきを跳ね返すはねかえすように、派出はしゅつな色いろを肉にくの上うえに重ねるかさねるものだぐらいの漠きよしとした観察かんさつはあったのである。
彼かれはこの女おんなが若々しいわかわかしい自分じぶんの血ちに高いたかい熱ねつを与えるあたえる刺戟しげき性せいの文ぶんをどこにも見せみせていないのを不思議ふしぎに思っおもった。
女おんなの身みに着けつけたものの内うちで、わずかに人ひとの注意ちゅういを惹くひくのは頸くびの周囲しゅういを包むつつむ羽二重はぶたえの襟巻えりまきだけであるが、それはただ清いきよいと云ういう感じかんじを起すおこす寒いさむい色いろに過ぎすぎなかった。
あとは冬枯ふゆがれの空そらと似合っにあった長いながいコートこーとですぽりと隠しかくしていた。
敬太郎けいたろうは年ねんに合わしあわして余りあまりに媚びるこびる気分きぶんを失いない過ぎすぎたこの衣服いふくを再びふたたび後あとから見みて、どうしてもすでに男おとこを知っしった結果けっかだと判じはんじた。
その上うえこの女おんなの態度たいどにはどこか大人びおとなびた落ちつきおちつきがあった。
彼かれはその落ちつきおちつきを品性ひんせいと教育きょういくからのみ来きた所得しょとくとは見傚しみなし得とくなかった。
家庭かてい以外いがいの空気くうきに触れふれたため、初々しいういういしい羞恥しゅうちが、手帛はんけちに振りかけふりかけた香水こうすいの香こうのように自然しぜんと抜けぬけてしまったのではなかろうかと疑ぐっうたぐった。
そればかりではない、この女おんなの落ちつきおちつきの中なかには、落ちつかおちつかない筋肉きんにくの作用さようが、身体しんたい全体ぜんたいの運動うんどうとなったり、眉まゆや口くちの運動うんどうとなって、ちょいちょい出でて来るくるのを彼かれは先刻せんこく目撃もくげきした。
最ももっとも鋭敏えいびんに動くうごくものはその眼めであろうと彼かれは疾くとくに認めみとめていた。
けれどもその鋭敏えいびんに動こううごこうとする眼めを、強いてしいて動かすうごかすまいと力めるりきめる女おんなの態度たいどもまた同時どうじに認めみとめない訳わけに行かいかなかった。
だからこの女おんなの落ちつきおちつきは、自分じぶんで自分じぶんの神経しんけいを殺しころしているという自覚じかくに伴なっともなったものだと彼かれは勘定かんじょうしていた。
ところが今後こんごから見みた女おんなは身体しんたいといい気分きぶんといい比較的ひかくてき沈静ちんせいして両方りょうほうの間まに旨くうまく調子ちょうしが取れとれているように思わおもわれた。
彼女かのじょは先刻せんこくと違っちがって、別段べつだん姿勢しせいを改あらためためるでもなく、そろそろ歩きあるき出すだすでもなく、宝石商ほうせきしょうの窓まどへ寄り添うよりそうでもなく、寒ささむさを凌ぎしのぎかねる風情ふぜいもなく、ほとんど閑雅かんがとでも形容けいようしたい様子ようすをして、一段いちだん高くたかくなった人道じんどうの端はしに立ったっていた。
傍そばには次つぎの電車でんしゃを待ち合せるまちあわせる人ひとが二三にさん散らばっちらばっていた。
彼かれらは皆みな向うむこうから来るくる車台しゃだいを見つめみつめて、早くはやく自分じぶんの傍そばへ招き寄せまねきよせたい風かぜに見えみえた。
敬太郎けいたろうが立ち退いたちのいたので大いにおおいに安心あんしんしたらしい彼女かのじょは、その中なかで最ももっとも熱心ねっしんに何なんかを待ち受けるまちうける一人ひとりとなって、筋向うすじむこうの曲り角まがりかどをじっと注意ちゅういし始めはじめた。
敬太郎けいたろうは派出所はしゅつしょの陰かげを上うえへ廻っまわって車道しゃどうへ降りふりた。
そうしてペンキぺんき塗ぬりの交番こうばんを楯たてに、巡査じゅんさの立ったっている横よこから女おんなの顔かおを覘うように見みた。
そうしてその表情ひょうじょうの変化へんかにまた驚ろかさおどろかされた。
今までいままで後姿うしろすがたを眺めながめて物陰ものかげにいた時じは、彼女かのじょを包むつつむ一色いっしょくの目立ためだたないコートこーとと、その背せの高さたかさと、大きなおおきな廂ひさし髪かみとを材料ざいりょうに、想像そうぞうの国くにでむしろ自由じゆう過ぎるすぎる結論けつろんを弄あそんだのだが、こうして彼女かのじょの知らしらない間まに、その顔かおを遠慮えんりょなく眺めながめて見るみると、全くまったく新らしいあたらしい人ひとに始めはじめて出逢っであったような気きがしない訳わけに行かいかなかった。
要するようするに女おんなは先刻せんこくより大変たいへん若くわかく見えみえたのである。
切にせつに何物なにものかを待ち受けまちうけているその眼めもその口くちも、ただ生々なまなました一種いっしゅ華やかはなやかな気色けしきに充ちみちて、それよりほかの表情ひょうじょうは毫もごうも見当らみあたらなかった。
敬太郎けいたろうはそのうちに処女しょじょの無邪気むじゃきささえ認めみとめた。
やがて女おんなの見つめみつめている方角ほうがくから一いち台だいの電車でんしゃが弓なりゆみなりに曲っきょくった線路せんろを、ぐるりと緩くゆるく廻転かいてんして来きた。
それが女おんなのいる前まえで滑るすべるようにとまった時じ、中なかから二人ふたりの男おとこが出でた。
一人ひとりは紙かみで包んつつんだボールぼーる箱ばこのようなものを提げさげて、すたすた巡査じゅんさの前まえを通り越しとおりこして人道じんどうへ飛び上がっとびあがったが、一人ひとりは降りるおりると直じかに女おんなの前まえに行っいって、そこに立ちどまったちどまった。
三十さんじゅう
敬太郎けいたろうは女おんなの笑い顔わらいがおをこの時じ始めはじめて見みた。
唇くちびるの薄いうすい割わりに口くちの大きいおおきいのをその特徴とくちょうの一いちつとして彼かれは最初さいしょから眺めながめていたが、美びくしい歯はを露ろき出しだしに現わしあらわして、潤沢じゅんたくの饒かな黒いくろい大きなおおきな眼めを、上下じょうげの睫まつげの触れ合うふれあうほど、共ともに寄せよせた時じは、この女おんなから夢ゆめにも予期よきしなかった印象いんしょうが新たあらたに彼かれの頭あたまに刻まきざまれた。
敬太郎けいたろうは女おんなの笑い顔わらいがおに見惚れるみとれると云ういうよりもむしろ驚ろいおどろいて相手あいての男おとこに視線しせんを移しうつした。
するとその男おとこの頭あたまの上うえに黒いくろい中折なかおれが乗っのっているのに気きがついた。
外套がいとうは判はん切せつ霜降そうこうとは見分けみわけられなかったが、帽子ぼうしと同じおなじ暗いくらい光ひかりを敬太郎けいたろうの眸ひとみに投げなげた。
その上背うわぜいは高かったかかった。
瘠ぎすやせぎすでもあった。
ただ年齢ねんれいの点てんに至るいたると、敬太郎けいたろうにはとかくの判断はんだんを下しおろしかねた。
けれどもその人ひとが寿命じゅみょうの度盛どもりの上うえにおいて、自分じぶんとは遥かはるか隔たっへだたった向うむこうにいる事ことだけはたしかなので、彼かれはこの男おとこを躊躇ちゅうちょなく四十よんじゅう恰好かっこと認めみとめた。
これだけの特とく点てんを前後ぜんごなくほとんど同時どうじに胸むねに入れいれ得とくた時じ、彼かれは自分じぶんが先刻せんこくから馬鹿ばかを尽しつくしてつけ覘った本人ほんにんがやっと今いま電車でんしゃを降りふりたのだと断定だんていしない訳わけに行かいかなかった。
彼かれは例刻れいこくの五ご時じがとうの昔むかししに過ぎすぎたのに、妙みょうな酔興すいきょうを起しおこして、やはり同じおなじ所ところにぶらついていた自分じぶんを仕合せしあわせだと思っおもった。
その酔興すいきょうを起さおこさせるため、自分じぶんの好奇心こうきしんを釣りつりに若いわかい女おんなが偶然ぐうぜん出でて来きてくれたのをありがたく思っおもった。
さらにその若いわかい女おんなが自分じぶんの探すさがす人ひとを、自分じぶんよりも倍ばい以上いじょうの自信じしんと忍耐にんたいをもって、待ちまち終おわりせたのを幸運こううんの一いちつに数えかぞえた。
彼かれはこのXという男おとこについて、田口たぐちのために、ある知識ちしきを供給きょうきゅうする事ことができると共ともに、同じおなじ知識ちしきがYという女おんなに関するかんする自分じぶんの好奇心こうきしんを幾分いくぶんか満足まんぞくさせ得るうるだろうと信じしんじたからである。
男おとこと女おんなはまるで敬太郎けいたろうの存在そんざいに気きがつかなかったと見えみえて、前後ぜんご左右さゆうに遠慮えんりょする気色けしきもなく、なお立ちたちながら話しはなしていた。
女おんなは始終しじゅう微笑びしょうを洩らすもらす事ことをやめなかった。
男おとこも時々ときどき声こえを出しだして笑っわらった。
二人ふたりが始めはじめて顔かおを合わしあわした時じの挨拶あいさつの様子ようすから見みても彼かれらはけっして疎遠そえんな間柄あいだがらではなかった。
異性いせいを繋ぎ合わせるつなぎあわせるようで、その実じつ両方りょうほうの仲なかを堰くせく、慇懃いんぎんな男女だんじょ間まの礼れい義ぎは彼かれらのどちらにも見み出すだす事ことができなかった。
男おとこは帽子ぼうしの縁えんに手てをかける面倒めんどうさえあえてしなかった。
敬太郎けいたろうはその鍔つばの下したにあるべきはずの大きなおおきな黒子ほくろを面めんと向っむかって是非ぜひ突き留めつきとめたかった。
もし女おんながいなかったならば肉にくの上うえに取り残さとりのこされたこの異様いような一いち点てんを確かめるたしかめるために、彼かれはつかつかと男おとこの前まえへ進んすすんで行っいって、何なんでも好いよいから、ただ口くちから出任せでまかせの質問しつもんをかけたかも知れしれない。
それでなくても、直ちにただちに彼かれの傍そばへ近寄っちかよって、満足まんぞくの行くいくまでその顔かおを覗き込んのぞきこんだろう。
この際さいそう云ういう大胆だいたんな行動こうどうを妨ぼうたげるものは、男おとこの前まえに立ったっている例れいの女おんなであった。
女おんなが敬太郎けいたろうの態度たいどを悪くわるく疑ぐっうたぐったかどうかは問題もんだいとして、彼かれの挙動きょどうに不審ふしんを抱いいだいた様子ようすは、同じおなじ場所ばしょに長くながく立ち並んたちならんだ彼かれの目めに親しくしたしく映じえいじたところである。
それを承知しょうちしながら、再びふたたびその視線しせんの内うちに、自分じぶんの顔かおを無遠慮むえんりょに突き出すつきだすのは、多少たしょう紳士的しんしてきでない上うえに、嫌疑けんぎの火の手ひのてをわざと強くつよくして、自分じぶんの目的もくてきを自分じぶんで打ち毀すぶちこわすと同じおなじ結果けっかになる。
こう考えかんがえた敬太郎けいたろうは、自然しぜんの順序じゅんじょとして相応そうおうの機会きかいが廻っまわって来るくるまでは、黒子ほくろの有る無しあるなしを見届けるみとどけるだけは差し控えさしひかえた方ほうが得策とくさくだろうと判断はんだんした。
その代りかわり見え隠れみえかくれに二人ふたりの後あとを跟けつけて、でき得るうるならば断片的だんぺんてきでもいいから、彼かれらの談話だんわを小耳こみみに挟もうはさもうと覚悟かくごした。
彼かれは先方せんぽうの許諾きょだくを待たまたないで、彼かれらの言動げんどうを、ひそかに我われ胸むねに畳み込むたたみこむ事ことの徳義とくぎ的まと価値かちについて、別べつに良心りょうしんの相談そうだんを受けるうける必要ひつようを認めみとめなかった。
そうして自分じぶんの骨折こっせつから出るでる結果けっかは、世故せこに通じつうじた田口たぐちによって、必ずかならず善意ぜんいに利用りようされるものとただ淡泊たんぱくに信じしんじていた。
やがて男おとこは女おんなを誘なういざなう風かぜをした。
女おんなは笑いわらいながらそれを拒むこばむように見えみえた。
しまいに半ばなかば向き合っむきあっていた二人ふたりが、肩かたと肩かたを揃えそろえて瀬戸せと物屋ものやの軒端のきば近くちかく歩き寄っあるきよった。
そこから手てを組み合わせくみあわせないばかりに並んならんで東ひがしの方ほうへ歩きあるき出しだした。
敬太郎けいたろうは二三にさん間ま早足はやあしに進んすすんで、すぐ彼かれらの背後はいごまで来きた。
そうして自分じぶんの歩調ほちょうを彼かれらと同じおなじ速度そくどに改あらためためた。
万一まんいち女おんなに振り向かふりむかれても、疑惑ぎわくを免かれるまぬかれるために、彼かれはけっして彼かれらの後姿うしろすがたには眼めを注がちゅうがなかった。
偶然ぐうぜん前後ぜんごして天下てんかの往来おうらいを同じおなじ方角ほうがくに行くいくもののごとくに、故意こいとあらぬ方ほうを見みて歩いあるいた。
三十一さんじゅういち
「だって余よまりだわ。こんなに人ひとを待たしまたしておいて」 敬太郎けいたろうの耳みみに入っはいった第だい一いちの言葉ことばは、女おんなの口くちから出でたこういう意味いみの句くであったが、これに対するたいする男おとこの答こたえは全くまったく聞き取れききとれなかった。
それから五六ごろく間ま行っいったと思うおもう頃ころ、二人ふたりの足あしが急きゅうに今までいままでの歩調ほちょうを失っうしなって、並んならんだ影法師かげほうしがほとんど敬太郎けいたろうの前まえに立ち塞がりたちふさがりそうにした。
敬太郎けいたろうの方ほうでも、後あとから向うむこうに突き当らつきあたらない限りかぎりは先さきへ通り抜けとおりぬけなければ跋ばつが悪くわるくなった。
彼かれは二人ふたりの後戻りあともどりを恐れおそれて、急きゅうに傍そばにあった菓子屋かしやの店先みせさきへ寄り添うよりそうように自分じぶんを片づけかたづけた。
そうしてそこに並んならんでいる大きなおおきな硝子がらす壺つぼの中なかのビスケットびすけっとを見つめるみつめる風かぜをしながら、二人ふたりの動くうごくのを待っまった。
男おとこは外套がいとうの中なかへ手てを入れるいれるように見えみえたが、それが済むすむと少しすこし身体しんたいを横よこにして、下向きしたむきに右手みぎてで持っもったものを店みせの灯あかりに映しうつした。
男おとこの顔かおの下したに光るひかるものが金きん時計とけいである事ことが、その時じ敬太郎けいたろうに分っわかった。
「まだ六ろく時じだよ。そんなに遅ちかあない」「遅いおそいわあなた、六ろく時じなら。妾めかけもう少しすこしで帰るかえるところよ」「どうも御ご気の毒きのどくさま」 二人ふたりはまた歩きあるき出しだした。
敬太郎けいたろうも壺つぼ入いりのビスケットびすけっとを見棄てみすててその後そのあとに従じゅうがった。
二人ふたりは淡路あわじ町まちまで来きてそこから駿河台するがだい下したへ抜けるぬける細いほそい横町よこちょうを曲っきょくった。
敬太郎けいたろうも続いつづいて曲ろうまがろうとすると、二人ふたりはその角かくにある西洋せいよう料理屋りょうりやへ入っはいった。
その時じ彼かれはその門口かどぐちから射すさす強いつよい光ひかりを浴びあびた男おとこと女おんなの顔かおを横よこから一いち眼め見みた。
彼かれらが停留所ていりゅうしょを離れるはなれる時じ、二人ふたり連れ立っつれだってどこへ行くいくだろうか、敬太郎けいたろうにはまるで想像そうぞうもつかなかったのだが、突然とつぜんこんな家いえへ入いりいられて見るみると、何なんでもない所ところだけに、かえって案外あんがいの感かんに打たうたれざるを得とくなかった。
それは宝亭たからていと云っいって、敬太郎けいたろうの元もとから知っしっている料理屋りょうりやで、古くふるくから大学だいがくへ出入でいりをする家いえであった。
近頃ちかごろ普請ふしんをしてから新らしいあたらしいペンキぺんきの色いろを半分はんぶん電車でんしゃ通りとおりに曝しさらして、斜しゃかけに立ちたち切らきられたような棟むねを南向みなみむかいに見せみせているのを、彼かれは通り掛りとおりがかりに時々ときどき注意ちゅういした事ことがある。
彼かれはその薄青いうすあおいペンキぺんきの光るひかる内側うちがわで、額がくに仕立てしたてたミュンヘンみゅんへん麦酒びーるの広告こうこく写真しゃしんを仰ぎあおぎながら、肉にく刀かたなと肉にく叉またを凄まじくすさまじく闘かわした数すう度どの記憶きおくさえ有っあっていた。
二人ふたりの行先いきさきについては、これという明らかあきらかな希望きぼうも予期よきも無かっなかったが、少しすこしは紫むらさきがかった空気くうきの匂うにおう迷路めいろの中なかに引き入れひきいれられるかも知れしれないくらいの感じかんじが暗にあんに働はたらけらいてこれまで後あとを跟けつけて来きた敬太郎けいたろうには、馬鈴薯じゃがいもや牛肉ぎゅうにくを揚げるあげる油あぶらの臭においが、台所だいどころからぷんぷん往来おうらいへ溢れるあふれる西洋せいよう料理屋りょうりやは余りあまりに平凡へいぼんらしく見えみえた。
けれども自分じぶんのとても近寄れちかよれない幽玄ゆうげんな所ところへ姿すがたを隠しかくして、それぎり出でて来きないよりは、遥かはるかに都合つごうが好いよいと考え直しかんがえなおした彼かれは、二人ふたりの身体しんたいが、誰だれにでも近寄るちかよる事ことのできる、普通ふつうの洋食店ようしょくてんのペンキぺんきの奥おくに囲わかこわれているのをむしろ心こころ丈夫じょうぶだと覚っさとった。
幸いさいわい彼かれはこのくらいな程度ていどの家いえで、冬空ふゆぞらの外気がいきに刺戟しげきされた食慾しょくよくを充たすみたすに足るたるほどの財布さいふを懐中かいちゅうしていた。
彼かれはすぐ二人ふたりの後あとを追っおってそこの二に階かいへ上ろうのぼろうとしたが、電灯でんとうの強くつよく往来おうらいへ射すさす門口かどぐちまで来きた時じ、ふと気きがついた。
すでに女おんなから顔かおを覚えおぼえられた以上いじょう、ほとんど同時どうじに一いちつ二に階かいへ押し上っおしのぼっては不味いまじい。
ひょっとするとこの人ひとは自分じぶんを跟けつけて来きたのだという疑惑ぎわくを故意こい先方せんぽうに与えるあたえる訳わけになる。
敬太郎けいたろうは何気なんげない振ぶりをして、往来おうらいへ射すさす光ひかりを横切っよこぎったまま、黒いくろい小路こうじを一丁いちちょうばかり先さきへ歩いあるいた。
そうしてその小路こうじの尽きるつきる坂下さかしたからまた黒いくろい人ひととなって、自分じぶんの影法師かげほうしを自分じぶんの身体しんたいの中なかへ畳み込んたたみこんだようにひっそりと明るいあかるい門口かどぐちまで帰っかえって来きた。
それからその門もんを潜っもぐった。
時々ときどき来きた事ことがあるので、彼かれはこの家いえの勝手かってをほぼ承知しょうちしていた。
下したには客きゃくを通すとおす部屋へやがなくって、二に階かいと三さん階かいだけで用ようを弁じべんじているが、よほど込み合わこみあわなければ三さん階かいへは案内あんないしない、大抵たいていは二に階かいで済むすむのだから、上っのぼって右みぎの奥おくか、左ひだりの横よこにある広間ひろまを覗けのぞけば、大抵たいてい二人ふたりの席せきが見えるみえるに違いない、もしそこにいなかったら表ひょうの方ほうの細長いほそながい室むろまで開けあけてやろうぐらいの考かんがえで、階段かいだんを上りのぼりかけると、白服しろふくの給仕きゅうじが彼かれを案内あんないすべく上り口あがりぐちに立ったっているのに気きがついた。
三十二さんじゅうに
敬太郎けいたろうは手てに持っもった洋杖すてっきをそのままに段々だんだんを上りのぼり切っきったので、給仕きゅうじは彼かれの席せきを定めるさだめる前まえに、まずその洋杖すてっきを受取っうけとった。
同時どうじにこちらへと云いいいながら背中せなかを向けむけて、右手みぎての広間ひろまへ彼かれを案内あんないした。
彼かれは給仕きゅうじの後あとから自分じぶんの洋杖すてっきがどこに落ちつくおちつくかを一目いちもく見届けみとどけた。
するとそこに先刻せんこく注意ちゅういした黒くろの中折なかおれ帽ぼうが掛っかかっていた。
霜降そうこうらしい外套がいとうも、女おんなの着きていた色合いろあいのコートこーとも釣るつるしてあった。
給仕きゅうじがその裾すそを動かしうごかして、竹たけの洋杖すてっきを突込んつっこんだ時じ、大きなおおきな模様もようを抜いぬいた羽二重はぶたえの裏うらが敬太郎けいたろうの眼めにちらついた。
彼かれは蛇へびの頭あたまがコートこーとの裏うらに隠れるかくれるのを待っまって、そらにその持主もちぬしの方ほうに眼めを転じてんじた。
幸いさいわいに女おんなは男おとこと向き合っむきあって、入口いりぐちの方ほうに背中せなかばかりを見せみせていた。
新らしいあたらしい客きゃくの来きた物音ものおとに、振り返りふりかえりたい気きがあっても、ぐるりと廻るまわるのが、いったん席せきに落ちついおちついた品位ひんいを崩すくずす恐おそれがあるので、必要ひつようのない限りかぎり、普通ふつうの婦人ふじんはそういう動作どうさを避けさけたがるだろうと考えかんがえた敬太郎けいたろうは、女おんなの後姿うしろすがたを眺めながめながら、ひとまず安堵あんどの思いおもいをした。
女おんなは彼かれの推察すいさつ通りとおりはたして後あとを向かむかなかった。
彼かれはその間まに女おんなの坐っすわっているすぐ傍そばまで行っいって背中せなか合せあわせに第だい二に列れつの食卓しょくたくにつこうとした。
その時じ男おとこは顔かおを上げあげて、まだ腰こしもかけず向むかいも改あらためためない敬太郎けいたろうを見みた。
彼かれの食卓しょくたくの上うえには支那しなめいた鉢ばちに植えうえた松まつと梅うめの盆栽ぼんさいが飾りつけかざりつけてあった。
彼かれの前まえにはスープすーぷの皿さらがあった。
彼かれはその中なかに大きなおおきな匙さじを落しおとしたなり敬太郎けいたろうと顔かおを見合せみあわせたのである。
二人ふたりの間まに横わるよこたわる六ろく尺さしに足らあしらない距離きょりは明らかあきらかな電灯でんとうが隈なくくまなく照らしてらしていた。
卓上たくじょうに掛けかけた白いしろい布ぬのがまたこの明るさあかるさを助けるたすけるように、潔きよしぎいい光ひかりを四方しほうの食卓しょくたくから反射はんしゃしていた。
敬太郎けいたろうはこういう都合つごうのいい条件じょうけんの具備ぐびした室むろで、男おとこの顔かおを満足まんぞくするまで見みた。
そうしてその顔かおの眉まゆと眉まゆの間まに、田口たぐちから通知つうちのあった通りとおり、大きなおおきな黒子ほくろを認めみとめた。
この黒子ほくろを別べつにして、男おとこの容貌ようぼうにこれと云っいった特異とくいな点てんはなかった。
眼めも鼻はなも口くちも全くまったく人並ひとなみであった。
けれども離れ離れはなればなれに見るみると凡庸ぼんような道具どうぐが揃っそろって、面長おもながな顔かおの表ひょうにそれぞれの位地いちを占めしめた時じ、彼かれは尋常じんじょう以上いじょうに品格ひんかくのある紳士しんしとしか誰だれの目めにも映らうつらなかった。
敬太郎けいたろうと顔かおを合せあわせた時じ、スープすーぷの中なかに匙さじを入れいれたまま、啜るすする手てをしばらくやめた態度たいどなどは、どこかにむしろ気高いけだかい風かぜを帯びおびていた。
敬太郎けいたろうはそれなり背中せなかを彼かれの方ほうに向けむけて自分じぶんの席せきに着いついたが、探偵たんていという文字もじに普通ふつう付着ふちゃくしている意味いみを心こころのうちで考え出しかんがえだして、この男おとこの風采ふうさい態度たいどと探偵たんていとはとても釣り合わつりあわない性質せいしつのものだという気きがした。
敬太郎けいたろうから見るみると、この人ひとは探偵たんていしてしかるべき何物なにものをも彼かれの人相にんそうの上うえに有っあっていなかったのである。
彼かれの顔かおの表ひょうに並んならんでいる眼鼻めはな口くちのいずれを取っとっても、その奥おくに秘密ひみつを隠そうかくそうとするには、余りあまりにできが尋常じんじょう過ぎすぎたのである。
彼かれは自分じぶんの席せきへ着いついた時じ、田口たぐちから引き受けひきうけたこの宵よいの仕事しごとに対するたいする自分じぶんの興味きょうみが、すでに三さん分ぶんの一いちばかり蒸発じょうはつしたような失望しつぼうを感じかんじた。
第一だいいちこんな性質せいしつの仕事しごとを田口たぐちから引き受けひきうけた徳義とくぎ上うえの可否かひさえ疑がわうたがわしくなった。
彼かれは自分じぶんの注文ちゅうもんを通しとおしたなり、ポカンぽかんとして麺めん麭に手ても触れふれずにいた。
男おとこと女おんなは彼かれらの傍そばに坐っすわった新らしいあたらしい客きゃくに幾分いくぶんか遠慮えんりょの気味きみで、ちょっとの間ま話はなしを途と切らしきらした。
けれども敬太郎けいたろうの前まえに暖めあたためられた白いしろい皿さらが現われるあらわれる頃ころから、また少しすこし調子ちょうしづいたと見えみえて、二人ふたりの声こえが互たがい違いに敬太郎けいたろうの耳みみに入っはいった。
――「今夜こんやはいけないよ。少しすこし用ようがあるから」「どんな用よう?」「どんな用ようって、大事だいじな用ようさ。なかなかそう安くやすくは話せはなせない用ようだ」「あら好くよくってよ。妾めかけちゃんと知っしってるわ。――さんざっぱら他ほかを待たしまたした癖くせに」 女おんなは少しすこし拗ねすねたような物ものの云いいい方ほうをした。
男おとこは四辺しへんに遠慮えんりょする風かぜで、低くひくく笑っわらった。
二人ふたりの会話かいわはそれぎり静かしずかになった。
やがて思い出しおもいだしたように男おとこの声こえがした。
「何しろなにしろ今夜こんやは少しすこし遅いおそいから止そうよそうよ」「ちっとも遅ちかないわ。電車でんしゃに乗っのって行きゃいきゃあ直じかじゃありませんか」 女おんなが勧めすすめている事ことも男おとこが躊躇ちゅうちょしている事ことも敬太郎けいたろうにはよく解っわかった。
けれども彼かれらがどこへ行くいくつもりなのだか、その肝心かんじんな目的地もくてきちになると、彼かれには何なんらの観念かんねんもなかった。
三十三さんじゅうさん
もう少しすこし聞いきいている内うちにはあるいはあたりがつくかも知れしれないと思っおもって、敬太郎けいたろうは自分じぶんの前まえに残さざんされた皿さらの上うえの肉にく刀かたなと、その傍そばに転がっころがった赤いあかい仁ひとし参さんの一切いっさいを眺めながめていた。
女おんなはなお男おとこを強いるしいる事ことをやめない様子ようすであった。
男おとこはそのたびに何なんとかかとか云っいって逃れのがれていた。
しかし相手あいてを怒らおこらせまいとする優しいやさしい態度たいどはいつも変らかわらなかった。
敬太郎けいたろうの前まえに新らしいあたらしい肉にくと青豌豆あおえんどうが運ばはこばれる時分じぶんには、女おんなもとうとう我われを折りおり始めはじめた。
敬太郎けいたろうは心こころの内うちで、女おんながどこまでも剛つよし情じょうを張るはるか、でなければ男おとこが好よしみ加減かげんに降参こうさんするか、どっちかになればいいがと、ひそかに祈っいのっていたのだから、思っおもったほど女おんなの強くつよくないのを発見はっけんした時じは少なからすくなからず残念ざんねんな気きがした。
せめて二人ふたりの間まに名なを出すだす必要ひつようのないものとして略さりゃくされつつあった目的地もくてきちだけでも、何なんかの機会きかいに小耳こみみに挟んはさんでおきたかったが、いよいよ話はなしが纏まらまとまらないとなると、男女だんじょの問答もんどうは自然しぜんほかへ移らうつらなければならないので、当分とうぶんその望みのぞみも絶えたえてしまった。
「じゃ行かいかなくってもいいから、あれをちょうだい」と、やがて女おんなが云いいい出しだした。
「あれって、ただあれじゃ分らわからない」「ほらあれよ。こないだの。ね、分っわかったでしょう」「ちっとも分らわからない」「失敬しっけいね、あなたは。ちゃんと分っわかってる癖くせに」 敬太郎けいたろうはちょっと振り向いふりむいて後あとが見みたくなった。
その時じ階段かいだんを踏むふむ大きなおおきな音おとが聞こえきこえて、三さん人ひとばかりの客きゃくがどやどやと一度いちどに上っのぼって来きた。
そのうちの一人ひとりはカーキーかーきー色いろの服ふくに長靴ながぐつを穿いはいた軍人ぐんじんであった。
そうして床ゆかの上うえを歩くあるく音おとと共ともに、腰こしに釣るつるした剣けんをがちゃがちゃ鳴らしならした。
三さん人ひとは上っのぼって左側ひだりがわの室むろへ案内あんないされた。
この物音ものおとが例れいの男おとこと女おんなの会話かいわを攪き乱しみだしたため、敬太郎けいたろうの好奇心こうきしんもちらつく剣けんの光ひかりが落ちつくおちつくまで中途ちゅうとに停止ていししていた。
「この間ま見せみせていただいたものよ。分っわかって」 男おとこは分っわかったとも分らわからないとも云わいわなかった。
敬太郎けいたろうには無論むろん想像そうぞうさえつかなかった。
彼かれは女おんながなぜ淡泊たんぱくに自分じぶんの欲しいほしいというものの名なを判はん切せつ云っいってくれないかを恨んうらんだ。
彼かれは何なんとはなしにそれが知りしりたかったのである。
すると、「あんなもの今いまここに持っもってるもんかね」と男おとこが云っいった。
「誰だれもここに持っもってるって云やいやしないわ。ただちょうだいって云ういうのよ。今度こんどでいいから」「そんなに欲しけりゃほしけりゃやってもいい。が……」「あッあっ嬉しいうれしい」 敬太郎けいたろうはまた振り返っふりかえって女おんなの顔かおが見みたくなった。
男おとこの顔かおもついでに見みておきたかった。
けれども女おんなと一直線いちちょくせんになって、背中せなか合せあわせに坐っすわっている自分じぶんの位置いちを考えるかんがえると、この際さいそんな盲動もうどうは慎しまつつしまなければならないので、眼めのやりどころに困るこまるという風かぜで、ただ正面しょうめんをぽかんと見廻しみまわした。
すると勝手かっての上り口あがりぐちの方ほうから、給仕きゅうじが白いしろい皿さらを二につ持っもって入っはいって来きて、それを古いふるいのと引きひき更さらえに、二人ふたりの前まえへ置いおいて行っいった。
「小鳥ことりだよ。食べたべないか」と男おとこが云っいった。
「妾めかけもうたくさん」 女おんなは焼いやいた小鳥ことりに手てを触れふれない様子ようすであった。
その代りかわり暇ひまのできた口くちを男おとこよりは余計よけい動かしうごかした。
二人ふたりの問答もんどうから察するさっすると、女おんなの男おとこにくれと逼っせまったのは珊瑚樹さんごじゅの珠たまか何なんからしい。
男おとこはこういう事ことに精通せいつうしているという口調くちょうで、いろいろな説明せつめいを女おんなに与えあたえていた。
が、それは敬太郎けいたろうには興味きょうみもなければ、解りわかりもしない好事家こうずかの嬉しうれしがる知識ちしきに過ぎすぎなかった。
練物ねりもので作っつくったのへ指先ゆびさきの紋もんを押しつけおしつけたりして、時々ときどき旨くうまくごまかした贋物にせものがあるが、それは手て障りさわりがどこかざらざらするから、本当ほんとうの古渡りこわたりとは直じか区別くべつできるなどと叮嚀ていねいに女おんなに教えおしえていた。
敬太郎けいたろうは前後ぜんごを綜合そうごうわして、何なんでもよほど貴たかとい、また大変たいへん珍らしいめずらしい、今時いまどきそう容易くたやすくは手てに入らはいらない時代じだいのついた珠たまを、女おんなが男おとこから貰うもらう約束やくそくをしたという事ことが解っわかった。
「やるにはやるが、御前ごぜんあんなものを貰っもらって何なんにする気きだい」「あなたこそ何なんになさるの。あんな物ものを持っもってて、男おとこの癖くせに」
三十四さんじゅうよん
しばらくして男おとこは「御前ごぜん御菓子ごかしを食べるたべるかい、菓物かぶつにするかい」と女おんなに聞いきいた。
女おんなは「どっちでも好いよいわ」と答えこたえた。
彼かれらの食事しょくじがようやく終りおわりに近づいちかづいた合図あいずとも見みられるこの簡単かんたんな問答もんどうが、今までいままでうっかりと二人ふたりの話はなしに釣り込まつりこまれていた敬太郎けいたろうに、たちまち自分じぶんの義務ぎむを注意ちゅういするように響いひびいた。
彼かれはこの料理屋りょうりやを出でた後あとの二人ふたりの行動こうどうをも観察かんさつする必要ひつようがあるものとして、自分じぶんで自分じぶんの役割やくわりを作っつくっていたのである。
彼かれは二人ふたりと同時どうじに二に階かいを下りるおりる事ことの不ふ得策とくさくを初めはじめから承知しょうちしていた。
後れおくれて席せきを立つたつにしても、巻煙草まきたばこを一いち本ほん吸わすわない先さきに、夜よると人ひとと、雑沓ざっとうと暗闇くらやみの中なかに、彼かれらの姿すがたを見失なうみうしなうのはたしかであった。
もし間違いまちがいなく彼かれらの影かげを踏んふんで後あとから喰くえ付いついて行こういこうとするなら、どうしても一足先いちそくさきへ出でて、相手あいてに気きのつかない物陰ものかげか何なんかで、待ち合せるまちあわせるよりほかに仕方しかたがないと考えかんがえた。
敬太郎けいたろうは早くはやく勘定かんじょうを済ましすましておくに若くわかくはないという気きになって、早速さっそく給仕きゅうじを呼んよんでビルびるを請求せいきゅうした。
男おとこと女おんなはまだ落ちついおちついて話しはなしていた。
しかし二人ふたりの間まに何なんというきまった題目だいもくも起らおこらないので、それを種しゅに意見いけんや感情かんじょうの交換こうかんも始まるはじまる機会きかいはなく、ただだらしのない雲くものようにそれからそれへと流れながれて行くいくだけに過ぎすぎなかった。
男おとこの特徴とくちょうに数えかぞえられた眉まゆと眉まゆの間まの黒子ほくろなども偶然ぐうぜん女おんなの口くちに上っのぼった。
「なぜそんな所ところに黒子ほくろなんぞができたんでしょう」「何なんも近頃ちかごろになって急きゅうにできやしまいし、生れうまれた時じからあるんだ」「だけどさ。見っともなみっともなかなくって、そんな所ところにあって」「いくら見っともなくみっともなくっても仕方しかたがないよ。生れつきうまれつきだから」「早くはやく大学だいがくへ行っいって取っとって貰うもらうといいわ」 敬太郎けいたろうはこの時じ指ゆび洗あらい椀わんの水みずに自分じぶんの顔かおの映るうつるほど下したを向いむかいて、両手りょうてで自分じぶんの米べい噛を隠すかくすように抑えおさえながら、くすくすと笑っわらった。
ところへ給仕きゅうじが釣銭つりせんを盆ぼんに乗せのせて持っもって来きた。
敬太郎けいたろうはそっと立ったって目立ためだたないように階段かいだんの上り口あがりぐちまでおとなしく足あしを運ぶはこぶと、そこに立ったっていた給仕きゅうじが大きなおおきな声こえで、「御立ごりつあち」と下したへ知らしらせた。
同時どうじに敬太郎けいたろうは先刻せんこく給仕きゅうじに預けあずけた洋杖すてっきを取っとって来るくるのを忘れわすれた事ことに気きがついた。
その洋杖すてっきはいまだに室むろの隅すみに置いおいてある帽子ぼうし掛かかりの下したに突き込まつきこまれたまま、女おんなの長いながいコートこーとの裾すそに隠さかくされていた。
敬太郎けいたろうは室むろの中なかにいる男女だんじょを憚かるはばかるように、抜き足ぬきあしで後戻りあともどりをして、静かしずかにそれを取り出しとりだした。
彼かれが蛇へびの頭あたまを握っにぎった時じ、すべすべした羽二重はぶたえの裏うらと、柔かいやわらかい外套がいとうの裏うらが、優しくやさしく手の甲てのこうに触れるふれるのを彼かれは感じかんじた。
彼かれはまた爪先つまさきで歩かふかないばかりに気きをつけて階段かいだんの上うえまで来るくると、そこから急きゅうに調子ちょうしを変えかえて、とん、とん、とんと刻み足きざみあしに下したへ駆け下りかけおりた。
表ひょうへ出るでるや否いなや電車でんしゃ通つうを直ぐすぐ向うむこうへ横切っよこぎった。
その突き当りつきあたりに、大きなおおきな古着ふるぎ屋やのような洋服ようふく屋やのような店みせがあるので、彼かれはその店みせの電灯でんとうの光ひかりを後あとにして立ったった。
こうしてさえいれば料理店りょうりてんから出るでる二人ふたりが大通りおおどおりを右みぎへ曲ろうまがろうが、左ひだりへ折れようおれようが、または中川なかがわの角かくに添っそって連雀町れんじゃくちょうの方ほうへ抜けようぬけようが、あるいは門もんからすぐ小路こうじ伝いつたいに駿河台するがだい下したへ向おうむかおうが、どっちへ行こういこうと見逃すみのがす気遣きづかいはないと彼かれは心こころ丈夫じょうぶに洋杖すてっきを突いついて、目指すめざす家いえの門口かどぐちを見守っみまもっていた。
彼かれは約やく十じゅう分ぶんばかり待っまった後あとで、注意ちゅういの焼点しょうてんになる光ひかりの中なかに、いっこう人影ひとかげが射さささないのを不審ふしんに思いおもい始めはじめた。
やむを得とくず二に階かいを眺めながめてその窓まどだけ明るくあかるくなった奥おくを覗くのぞくように、彼かれらの早くはやく席せきを立つたつ事ことを祈っいのった。
そうして待ち草臥れまちくたびれた眼めを移すうつすごとに、屋根やねの上うえに広がるひろがる黒いくろい空そらを仰いおっしゃいだ。
今までいままで地面じめんの上うえを照らしてらしている人間にんげんの光ひかりばかりに欺ぎむかれて、まるでその存在そんざいを忘れわすれていたこの大きなおおきな夜よるは、暗いくらい頭あたまの上うえで、先刻せんこくから寒かんそうな雨あめを醸しかもしていたらしく、敬太郎けいたろうの心こころを佗びしわびしがらせた。
ふと考えるかんがえると、今までいままでは自分じぶんに遠慮えんりょしてただの話はなしをしていた二人ふたりが、自分じぶんの立ったったのを幸いさいわいに、自分じぶんの役目やくめとして是非ぜひ聞いきいておかなければならないような肝心かんじんの相談そうだんでもし始めはじめたのではなかろうか。
彼かれはこの疑惑ぎわくと共ともに黒いくろい空そらを仰ぎあおぎながら、そのうちに二人ふたりの向き合っむきあった姿すがたをありありと認めみとめた。
三十五さんじゅうご
彼かれはあまり注意ちゅうい深くふかく立ちたち廻っまわって、かえって洋食店ようしょくてんの門もんを早くはやく出で過ぎすぎたのを悔んくやんだ。
けれども二人ふたりが彼かれに気兼きがねをする以上いじょうは、たとい同じおなじ席せきにいつまでも根ねが生えはえたように腰こしを据えすえていたところで、やっぱり普通ふつうの世間せけん話はなしよりほかに聞くきく訳わけには行かいかないのだから、よし今までいままで坐っすわったまま動かうごかないものと仮定かていしても、その結果けっかは早くはやく席せきを立ったったと、ほぼ同じおなじ事ことになるのだと思うおもうと、彼かれは寒いさむいのを我慢がまんしても、同じおなじ所ところに見張っみはっているより仕方なかっしかたなかった。
すると帽子ぼうしの廂ひさしへ雨あめが二に雫しずくほど落ちおちたような気きがするので、彼かれはまた仰向いあおむいて黒いくろい空そらを眺めながめた。
闇やみよりほかに何なんも眼めを遮ぎらさえぎらない頭あたまの上うえは、彼かれの立ったっている電車でんしゃ通つうと違っちがって非常ひじょうに静せいであった。
彼かれは頬ほおの上うえに一いち滴しずくの雨あめを待ち受けるまちうけるつもりで、久しくひさしく顔かおを上げあげたなり、恰好かっこさえ分らわからない大きなおおきな暗いくらいものを見つめみつめている間まに、今いまにも降りふり出すだすだろうという掛かかり念ねんをどこかへ失なっうしなって、こんな落ちついおちついた空そらの下したにいる自分じぶんが、なぜこんな落ちつかおちつかない真似まねを好んこのんでやるのだろうと偶然ぐうぜん考えかんがえた。
同時どうじにすべての責任せきにんが自分じぶんの今いま突いついている竹たけの洋杖すてっきにあるような気きがした。
彼かれは例れいのごとく蛇へびの頭あたまを握っにぎって、寒ささむさに対するたいする欝憤うっぷんを晴らすはらすごとくに、二三にさん度どそれを烈しくはげしく振っふった。
その時じ待ちまち佗びた人ひとの影法師かげほうしが揃っそろって洋食店ようしょくてんの門口かどぐちを出でた。
敬太郎けいたろうは何なんより先さきに女おんなの細長いほそながい頸くびを包むつつむ白いしろい襟巻えりまきに眼めをつけた。
二人ふたりはすぐと大通りおおどおりへ出でて、敬太郎けいたろうの向う側むこうがわを、先刻せんこくとは反対はんたいの方角ほうがくに、元もと来きた道みちへ引き返しひきかえしにかかった。
敬太郎けいたろうも猶予ゆうよなく向うむこうへ渡っわたった。
彼かれらは緩いゆりい歩調ほちょうで、賑やかにぎやかに飾っかざった店先みせさきを軒のきごとに覗くのぞくように足あしを運ばはこばした。
後あとから跟いて行くいく敬太郎けいたろうは是非ぜひ共とも二人ふたりに釣り合っつりあった歩きあるき方ほうをしなければならないので、その遅ち過ぎるすぎるのがだいぶ苦くになった。
男おとこは香こうの高いたかい葉巻はまきを銜えくわえて、行くいく行くいく夜よるの中なかへ微かかすかな色いろを立てるたてる煙けむりを吐いはいた。
それが風かぜの具合ぐあいで後あとから従じゅうがう敬太郎けいたろうの鼻はなを時々ときどき快かいろよく侵しおかした。
彼かれはその香こういを嗅ぎかぎ嗅ぎかぎ鈍いにぶい足並あしなみを我慢がまんして実直じっちょくにその跡あとを踏んふんだ。
男おとこは背せが高いたかいので後あとから見るみると、ちょっと西洋せいよう人ひとのように思わおもわれた。
それには彼かれの吹かしふかしている強いつよい葉巻はまきが多少たしょう錯覚さっかくを助けたすけた。
すると聯想れんそうがたちまち伴侶はんりょの方ほうに移っうつって、女おんなが旦那だんなから買っかって貰っもらった革かわの手袋てぶくろを穿めている洋よう妾めかけのように思わおもわれた。
敬太郎けいたろうがふとこういう空想くうそうを起しおこして、おかしいと思いおもいながらも、なお一人ひとりで興きょうを催しもよおしていると、二人ふたりは最前さいぜん待ち合わしまちあわした停留所ていりゅうしょの前まえまで来きてちょっと立ちどまったちどまったが、やがてまた線路せんろを横切っよこぎって向側むかいがわへ越しこした。
敬太郎けいたろうも二人ふたりのする通りとおりを真似まねた。
すると二人ふたりはまた美土代町みとしろまちの角かくをこちらから反対はんたいの側がわへ渡っわたった。
敬太郎けいたろうもつづいて同じおなじ側がわへ渡っわたった。
二人ふたりはまた歩きあるき出しだして南みなみへ動いうごいた。
角かくから半町はんちょうばかり来るくると、そこにも赤くあかく塗っぬった鉄てつの柱はしらが一いち本ほん立ったっていた。
二人ふたりはその柱はしらの傍そばへ寄っよって立ったった。
彼かれらはまた三田線みたせんを利用りようして南みなみへ、帰るかえるか、行くいくか、する人ひとだとこの時じ始めはじめて気きがついた敬太郎けいたろうは、自分じぶんも是非ぜひ同じおなじ電車でんしゃへ乗らのらなければなるまいと覚悟かくごした。
彼かれらは申し合せもうしあわせたように敬太郎けいたろうの方ほうを顧みかえりみた。
固よりもとより彼かれのいる方ほうから電車でんしゃが横町よこちょうを曲っきょくって来るくるからではあるが、それにしても敬太郎けいたろうは余りあまり好いよい心持こころもちはしなかった。
彼かれは帽子ぼうしの鍔つばをひっくり返しひっくりかえして、ぐっと下したへおろして見みたり、手てで顔かおを撫でなでて見みたり、なるべく軒下のきしたへ身みを寄せよせて見みたり、わざと変へんな見当けんとうを眺めながめて見みたりして、電車でんしゃの現われるあらわれるのをつらく待ちまち佗びた。
間まもなく一いち台だい来きた。
敬太郎けいたろうはわざと二人ふたりの乗っのった後あとから這入っはいって、嫌疑けんぎを避けようさけようと工夫くふうした。
それでしばらく後あとの方ほうにぐずぐずしていると、女おんなは例れいの長いながいコートこーとの裾すそを踏まえふまえないばかりに引き摺っひきずって車掌しゃしょう台だいの上うえに足あしを移しうつした。
しかしあとから直じか続くつづくと思っおもった男おとこは、案外あんがい上るのぼる気色けしきもなく、足あしを揃えそろえたまま、両手りょうてを外套がいとうの隠いん袋ふくろに突き差しつきさして立ったっていた。
敬太郎けいたろうは女おんなを見送りみおくりに男おとこがわざわざここまで足あしを運んはこんだのだという事ことにようやく気きがついた。
実じつをいうと、彼かれは男おとこよりも女おんなの方ほうに余計よけい興味きょうみを持っもっていたのである。
男おとこと女おんながここで分れるわかれるとすれば、無論むろん男おとこを捨てすてて女おんなの先途せんどだけを見届けみとどけたかった。
けれども自分じぶんが田口たぐちから依託いたくされたのは女おんなと関係かんけいのない黒いくろい中折なかおれ帽ぼうを被っかぶった男おとこの行動こうどうだけなので、彼かれは我慢がまんして車台しゃだいに飛び上がるとびあがるのを差し控えさしひかえた。
三十六さんじゅうろく
女おんなは車台しゃだいに乗っのった時じ、ちょっと男おとこに目礼もくれいしたが、それぎり中なかへ這入っはいってしまった。
冬ふゆの夜よるの事ことだから、窓まど硝子がらすはことごとく締め切っしめきってあった。
女おんなはことさらにそれを開けあけて内うちから首くびを出すだすほどの愛嬌あいきょうも見せみせなかった。
それでも男おとこはのっそり立ったって、車くるまの動くうごくのを待っまっていた。
車くるまは動きうごき出しだした。
二人ふたりの間まに挨拶あいさつの交換こうかんがもう必要ひつようでないと認めみとめたごとく、電力でんりょくは急いいそいで光るひかる窓まどを南みなみの方ほうへ運び去っはこびさった。
男おとこはこの時じ口くちに銜えくわえた葉巻はまきを土つちの上うえに投げなげた。
それから足あしの向むかいを変えかえてまた三ツ角みっつかくの交叉こうさ点てんまで出るでると、今度こんどは左ひだりへ折れおれて唐物とうぶつ屋やの前まえでとまった。
そこは敬太郎けいたろうが人ひとに突き当らつきあたられて、竹たけの洋杖すてっきを取り落しとりおとした記憶きおくの新らしいあたらしい停留所ていりゅうしょであった。
彼かれは男おとこの後あとを見え隠れみえかくれにここまで跟いて来きて、また見みたくもない唐物とうぶつ屋やの店先みせさきに飾っかざってある新柄しんがらの襟えり飾かざりだの、絹きぬ帽ぼうだの、変りかわり縞しまの膝掛ひざかけだのを覗き込みのぞきこみながら、こう遠慮えんりょをするようでは、探偵たんていの興きょうも覚めるさめるだけだと考えかんがえた。
女おんながすでに離れはなれた以上いじょう、自分じぶんの仕事しごとに飽が来きたと云っいってはすまないが、前まえ同様どうようであるべき窮屈きゅうくつの程度ていどが急きゅうに著るきるしく感ぜかんぜられてならなかった。
彼かれの依頼いらいされたのは中折なかおれの男おとこが小川おがわ町まちで降りふりてから二に時間じかん内うちの行動こうどうに限らかぎられているのだから、もうこれで偵察ていさつの役目やくめは済んすんだものとして、下宿げしゅくへ帰っかえって寝ようねようかとも思っおもった。
そこへ男おとこの待っまっている電車でんしゃが来きたと見えみえて、彼かれは長いながい手てで鉄てつの棒ぼうを握るにぎるや否いなや瘠せやせた身体しんたいを体からだよくとまり切らきらない車台しゃだいの上うえに乗せのせた。
今までいままで躊躇ちゅうちょしていた敬太郎けいたろうは急きゅうにこの瞬間しゅんかんを失なっうしなってはという気きが出でたので、すぐ同じおなじ車台しゃだいに飛び上っとびあがった。
車内しゃないはそれほど込みこみあっていなかったので、乗客じょうきゃくは自由じゆうに互たがいの顔かおを見合うみあう余裕よゆうを充分じゅうぶん持っもっていた。
敬太郎けいたろうは箱ばこの中なかに身体しんたいを入れるいれると同時どうじに、すでに席せきを占めしめた五六ごろく人ひとから一度いちどに視線しせんを集めあつめられた。
そのうちには今いま坐っすわったばかりの中折なかおれの男おとこのも交っかっていたが、彼かれの敬太郎けいたろうを見みた眼めのうちには、おやという認識にんしきはあったが、つけ覘われているなという疑惑ぎわくはさらに現われあらわれていなかった。
敬太郎けいたろうはようやく伸び伸びのびのびした心持こころもちになって、男おとこと同じおなじ側がわを択っよって腰こしを掛けかけた。
この電車でんしゃでどこへ連れつれて行かいかれる事ことかと思っおもって軒先のきさきを見るみると、江戸川えどかわ行こうと黒くくろく書いかいてあった。
彼かれは男おとこが乗り換えのりかえさえすれば、自分じぶんも早速さっそく降りるおりるつもりで、停留所ていりゅうしょへ来るくるごとに男おとこの様子ようすを窺がった。
男おとこは始終しじゅう隠いん袋ふくろへ手てを突き込んつきこんだまま、多くおおくは自分じぶんの正面しょうめんかわが膝ひざの上うえかを見みていた。
その様子ようすを形容けいようすると、何になんにも考えかんがえずに何なんか考え込んかんがえこんでいると云ういう風かぜであった。
ところが九きゅう段だん下したへかかった頃ころから、長いながい首くびを時々ときどき伸ばしのばして、ある物ものを確かめたしかめたいように、窓まどの外そとを覗きのぞき出しだした。
敬太郎けいたろうもつい釣り込まつりこまれて、見み悪いわるい外そとを透かすすかすように眺めながめた。
やがて電車でんしゃの走るはしる響ひびきの中なかに、窓まど硝子がらすにあたって摧けくだける雨あめの音おとが、ぽつりぽつりと耳元みみもとでし始めはじめた。
彼かれは携えたずさえている竹たけの洋杖すてっきを眺めながめて、この代りかわりに雨傘あまがさを持っもって来れこればよかったと思い出しおもいだした。
彼かれは洋食店ようしょくてん以後いご、中折なかおれを被っかぶった男おとこの人柄ひとがらと、世の中よのなかにまるで疑ぎをかけていないその眼つきめつきとを注意ちゅういした結果けっか、この時じふと、こんな窮屈きゅうくつな思いおもいをして、いらざる材料ざいりょうを集めるあつめるよるも、いっそ露骨ろこつにこっちから話しかけはなしかけて、当人とうにんの許諾きょだくを得とくた事実じじつだけを田口たぐちに報告ほうこくした方ほうが、今更いまさら遅蒔おそまきのようでも、まだ気きが利いきいていやしないかと考えかんがえて、自分じぶんで自分じぶんを彼かれに紹介しょうかいする便法べんぽうを工夫くふうし始めはじめた。
そのうち電車でんしゃはとうとう終点しゅうてんまで来きた。
雨あめはますます烈しくはげしくなったと見えみえて、車くるまがとまるとざあという音おとが急きゅうに彼かれの耳みみを襲っおそった。
中折なかおれの男おとこは困っこまったなと云いいいながら、外套がいとうの襟えりを立てたてて洋よう袴はかまの裾すそを返しかえした。
敬太郎けいたろうは洋杖すてっきを突きつきながら立ち上ったちのぼった。
男おとこは雨あめの中なかへ出るでると、直寄なおよりって来るくる俥くるま引いんを捕まえつかまえた。
敬太郎けいたろうも後れおくれないように一いち台だい雇っやとった。
車夫しゃふは梶棒かじぼうを上げあげながら、どちらへと聞いきいた。
敬太郎けいたろうはあの車くるまの後あとについて行けいけと命じめいじた。
車夫しゃふはへいと云っいってむやみに馳はせけ出しけだした。
一筋ひとすじ道みちを矢来やらいの交番こうばんの下したまで来るくると、車夫しゃふは又また梶棒かじぼうをとめて、旦那だんなどっちへ行くいくんですと聞いきいた。
男おとこの乗っのった車くるまはいくら幌ほろの内うちから延びのび上っのぼっても影かげさえ見えみえなかった。
敬太郎けいたろうは車上しゃじょうに洋杖すてっきを突っ張っつっぱったまま、雨あめの音おとのする中なかで方角ほうがくに迷っまよった。
報告ほうこく
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