彼岸過迄

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二

第 32 章
「実じつは僕ぼくも雨あめの降るふる日ひに行っいって断らことわられた一人ひとりなんだが……」と敬太郎けいたろうが云いいい出しだした時じ、須永すながと千代子ちよこは申し合せもうしあわせたように笑いわらい出しだした。
「君きみも随分ずいぶん運うんの悪いわるい男おとこだね。おおかた例れいの洋杖すてっきを持っもって行かいかなかったんだろう」と須永すながは調ちょう戯たわむれい始めはじめた。
「だって無理むりだわ、雨あめの降るふる日ひに洋杖すてっきなんか持っもって行けいけったって。ねえ田川たがわさん」 この理り攻めせめの弁護べんごを聞いきいて、敬太郎けいたろうも苦笑くしょうした。
「いったい田川たがわさんの洋杖すてっきって、どんな洋杖すてっきなの。わたしちょっと見みたいわ。見せみせてちょうだい、ね、田川たがわさん。下したへ行っいって見みて来きても好くよくって」「今日きょうは持っもって来きません」「なぜ持っもって来きないの。今日きょうはあなたそれでも好いよい御ご天気てんきよ」「大事だいじな洋杖すてっきだから、いくら好いよい御ご天気てんきでも、ただの日ひには持っもって出でないんだとさ」「本当ほんとう?」「まあそんなものです」「じゃ旗日はたびにだけ突いついて出るでるの」 敬太郎けいたろうは一人ひとりで二人ふたりに当っあたっているのが少しすこし苦しくくるしくなった。
この次つぎ内幸町うちさいわいちょうへ行くいく時じは、きっと持っもって行っいって見せるみせるという約束やくそくをしてようやく千代子ちよこの追窮ついきゅうを逃れのがれた。
その代りかわり千代子ちよこからなぜ松本まつもとが雨あめの降るふる日ひに面会めんかいを謝絶しゃぜつしたかの源みなもと因いんを話しはなして貰うもらう事ことにした。
―― それは珍らしくめずらしく秋あきの日ひの曇っくもった十一じゅういち月つきのある午うま過すぎであった。
千代子ちよこは松本まつもとの好きすきな雲丹うにを母ははからことづかって矢来やらいへ持っもって来きた。
久しぶりひさしぶりに遊んあそんで行こういこうかしらと云っいって、わざわざ乗っのって来きた車くるままで返しかえして、緩かんくり腰こしを落ちつけおちつけた。
松本まつもとには十三じゅうさんになる女おんなを頭あたまに、男おとこ、女おんな、男おとこと互たがい違いに順序じゅんじょよく四よん人ひとの子こが揃っそろっていた。
これらは皆みな二につ違いちがいに生れうまれて、いずれも世間せけん並なみに成長せいちょうしつつあった。
家庭かていに華やかはなやかな匂においを着けるつけるこの生き生きいきいきした装飾そうしょく物ものの外そとに、松本まつもと夫婦ふうふは取っとって二につになる宵子よいこを、指環ゆびわに嵌めはめた真珠しんじゅのように大事だいじに抱いいだいて離さはなさなかった。
彼女かのじょは真珠しんじゅのように透明とうめいな青白いあおじろい皮膚ひふと、漆うるしのように濃いこい大きなおおきな眼めを有っあって、前の年まえのとしの雛ひなの節句せっくの前まえの宵よいに松本まつもと夫婦ふうふの手てに落ちおちたのである。
千代子ちよこは五ご人ひとのうちで、一番いちばんこの子こを可愛かわいがっていた。
来るくるたんびにきっと何なんか玩具がんぐを買っかって来きてやった。
ある時じは余りあまり多量たりょうに甘いあまいものをあてがって叔母おばから怒らおこられた事ことさえある。
すると千代子ちよこは、大事だいじそうに宵子よいこを抱いいだいて縁側えんがわへ出でて、ねえ宵子よいこさんと云っいっては、わざと二人ふたりの親しいしたしい様子ようすを叔母おばに見せみせた。
叔母おばは笑いわらいながら、何なんだね喧嘩けんかでもしやしまいしと云っいった。
松本まつもとは、御前ごぜんそんなにその子こが好きすきなら御祝いおいわいの代りかわりに上げるあげるから、嫁よめに行くいくとき持っもっておいでと調ちょう戯たわむれった。
その日ひも千代子ちよこは坐るすわると直じか宵子よいこを相手あいてにして遊びあそび始めはじめた。
宵子よいこは生れうまれてからついぞ月代さかやきを剃っそった事ことがないので、頭あたまの毛けが非常ひじょうに細くほそく柔かにこやかに延びのびていた。
そうして皮膚ひふの青白いあおじろいせいか、その髪かみの色いろが日光にっこうに照らさてらされると、潤沢じゅんたくの多いおおい紫むらさきを含んふくんでぴかぴか縮れ上っちぢれあがっていた。
「宵子よいこさんかんかん結っけつって上げあげましょう」と云っいって、千代子ちよこは鄭てい寧ねいにその縮れ毛ちぢれげに櫛くしを入れいれた。
それから乏しいとぼしい片鬢かたびんを一いち束たば割いさいて、その根元ねもとに赤いあかいリボンりぼんを括りくくりつけた。
宵子よいこの頭あたまは御供ごくのように平らたいらに丸くまるく開いひらいていた。
彼女かのじょは短かいみじかい手てをやっとその御供ごくの片隅かたすみへ乗せのせて、リボンりぼんの端はしを抑えおさえながら、母ははのいる所ところまでよたよた歩いあるいて来きて、イボンイボンと云っいった。
母ははがああ好くよくかんかんが結えゆわえましたねと賞めるほめると、千代子ちよこは嬉しうれしそうに笑いわらいながら、子供こどもの後姿うしろすがたを眺めながめて、今度こんどは御ご父さんちちさんの所ところへ行っいって見せみせていらっしゃいと指図さしずした。
宵子よいこはまた足元あしもとの危ないあぶない歩きあるきつきをして、松本まつもとの書斎しょさいの入口いりぐちまで来きて、四よんつ這になった。
彼女かのじょが父ちちに礼れいをするときには必ずかならず四よんつ這になるのが例れいであった。
彼女かのじょはそこで自分じぶんの尻しりをできるだけ高くたかく上げあげて、御供ごくのような頭あたまを敷居しきいから二三にさん寸すんの所ところまで下げさげて、またイボンイボンと云っいった。
書見しょけんをちょっとやめた松本まつもとが、ああ好いよい頭あたまだね、誰だれに結っけつって貰っもらったのと聞くきくと、宵子よいこは頸くびを下げさげたまま、ちいちいと答えこたえた。
ちいちいと云ういうのは、舌したの廻らまわらない彼女かのじょの千代子ちよこを呼ぶよぶ常つねの符ふ徴しるしであった。
後あとに立ったって見みていた千代子ちよこは小さいちいさい唇くちびるから出るでる自分じぶんの名前なまえを聞いきいて、また嬉しうれしそうに大きなおおきな声こえで笑っわらった。
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