彼岸過迄

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七

第 17 章
森本もりもとが下宿げしゅくへ置き去りおきざりにして行っいった荷物にもつの始末しまつについては義理ぎりにも何なんとか書き添えかきそえなければすまなかった。
しかしその処置しょちのつけ方ほうを亭主ていしゅに聞くきくのは厭いやだし、聞かきかなければ委細いさいの報道ほうどうはできるはずはなし、敬太郎けいたろうは筆ふでの先さきを宙ちゅうに浮かしうかしたまま考えかんがえていたが、とうとう「あなたの荷物にもつは、僕ぼくから主人しゅじんに話しはなして、どうでも彼かれの都合つごうの宜いよいように取り計らわとりはからわせろとの御ご依頼いらいでしたが、あなたの千里眼せんりがんの通りとおり、僕ぼくが何になんにも云わいわない先さきに、雷獣らいじゅうの方ほうで勝手にかってに取計とりはからいってしまったようですからさよう御承知ごしょうちを願いねがいます。梅うめの盆栽ぼんさいを下さるくださるという事ことですが、これは影かげも形かたちも見えみえないようですから、頂きいただきません。ただ御礼ごれいだけ申し述べもうしのべておきます。それから」とつづけておいて、また筆ふでを休めやすめた。
敬太郎けいたろうはいよいよ洋杖すてっきのところへ来きたのである。
根ねが正直しょうじきな男おとこだから、あの洋杖すてっきはせっかくの御ご覚さとし召めしだから、ちょうだいして毎日まいにち散歩さんぽの時じ突いついて出でますなどと空々しいそらぞらしい嘘うそは吐けはけず、と言っいって御ご親切しんせつはありがたいが僕ぼくは貰いもらいませんとはなおさら書けかけず。
仕方しかたがないから、「あの洋杖すてっきはいまだに傘かさ入いりの中なかに立ったっています。持主もちぬしの帰るかえるのを毎日まいにち毎夜まいよ待ち暮しまちくらしているごとく立ったっています。雷獣らいじゅうもあの蛇へびの頭あたまへは手てを触れるふれる事ことをあえてしません。僕ぼくはあの首くびを見るみるたびに、彫刻家ちょうこくかとしてのあなたの手腕しゅわんに敬服けいふくせざるを得とくないです」と好よしみ加減かげんな御世辞ごせじを並べならべて、事実じじつを暈すぼかす手段しゅだんとした。
状袋じょうぶくろへ名宛なあてを書くかくときに、森本もりもとの名前なまえを思い出そうおもいだそうとしたが、どうしても胸むねに浮ばうかばないので、やむを得とくず大連だいれん電気でんき公園こうえん内うち娯楽ごらく掛りかかり森もり本様ほんようとした。
今までいままでの関係かんけい上うえ主人しゅじん夫婦ふうふの眼めを憚からはばからなければならない手紙てがみなので、下女げじょを呼んよんでポストぽすとへ入れいれさせる訳わけにも行かいかなかったから、敬太郎けいたろうはすぐそれを自分じぶんの袂たもとの中なかに蔵しぞうした。
彼かれはそれを持っもって夕食ゆうしょく後あと散歩さんぽかたがた外そとへ出かけるでかける気きで寒いさむい梯子段はしごだんを下したまで降りふり切るきると、須永すながから電話でんわが掛っかかった。
今日きょう内幸町うちさいわいちょうから従妹じゅうまいが来きての話はなしに、叔父おじは四五しご日ひ内うちに用事ようじで大阪おおさかへ行くいくかも知れしれないそうだから、余りあまり遅くおそくなってはと思っおもって、立つたつ前まえに会っかいって貰えもらえまいかと電話でんわで聞いきいて見みたら、宜しいよろしいという返事へんじだから、行くいく気きならなるべく早くはやく行っいった方ほうがよかろう。
もっとも電話でんわの上うえに咽喉のどが痛いいたいので、詳しいくわしい話はなしはできなかったから、そのつもりでいてくれというのが彼かれの用よう向むかいであった。
敬太郎けいたろうは「どうもありがとう。じゃなるべく早くはやく行くいくようにするから」と礼れいを述べのべて電話でんわを切っきったが、どうせ行くいくなら今夜こんやにでも行っいって見ようみようという気きが起っおこったので、再びふたたび三さん階かいへ取っとって返しかえしてこの間ま拵らえこしらえたセルせるの袴はかまを穿いはいた上うえ、いよいよ表ひょうへ出でた。
曲り角まがりかどへ来きてポストぽすとへ手紙てがみを入れるいれる事ことは忘れわすれなかったけれども、肝心かんじんの森本もりもとの安否あんぴはこの時じすでに敬太郎けいたろうの胸むねに、ただ微かかすかな火気かきを残すのこすのみであった。
それでも状袋じょうぶくろが郵便ゆうびん函ばこの口くちを滑っすべって、すとんと底そこへ落ちおちた時じは、受取人うけとりにんの一いち週間しゅうかん以内いないに封ふうを披くひらく様ようを想見そうけんして、満更まんざら悪いわるい心持こころもちもしまいと思っおもった。
それから電車でんしゃへ乗るのるまではただ一直線いちちょくせんにすたすた歩いあるいた。
考かんがえも一直線いちちょくせんに内幸町うちさいわいちょうの方ほうを向いむかいていたが、電車でんしゃが明神下みょうじんしたへ出るでる時分じぶん、何気なんげなく今しがたいましがた電話でんわ口くちで須永すながから聞いきいた言葉ことばを、頭あたまの内うちで繰り返しくりかえして見るみると、覚えおぼえずはっと思うおもうところが出でて来きた。
須永すながは「今日きょう内幸町うちさいわいちょうからイトコいとこが来きて」とたしかに云っいったが、そのイトコいとこが彼かれの叔父おじさんの子こである事ことは疑ううたがうまでもない。
しかしその子こが男おとこであるか女おんなであるかは不完全ふかんぜんな日本語にっぽんごのまるで関係かんけいしないところである。
「どっちだろう」 敬太郎けいたろうは突然とつぜん気きにし始めはじめた。
もしそれが男おとこだとすれば、あの後姿うしろすがたの女おんなについての手がかりてがかりにはならない。
したがって女おんなは彼かれの好奇心こうきしんを徒らいたずらに刺戟しげきしただけで、ちっとも動いうごいて来きない。
しかしもし女おんなだとすると、日ひといい時刻じこくといい、須永すながの玄関げんかんから上りのぼり具合ぐあいといい、どうも自分じぶんより一足先いちそくさきへ這入っはいったあの女おんならしい。
想像そうぞうと事実じじつを継ぎ合わせるつぎあわせる事ことに巧みたくみな彼かれは、そうと確かめたしかめないうちに、てっきりそうときめてしまった。
こう解釈かいしゃくした時じ彼かれは、今までいままで泡立っあわだっていた自分じぶんの好奇心こうきしんに幾分いくぶんの冷水れいすいを注しさしたような満足まんぞくを覚えるおぼえると共ともに、予期よきしたよりも平凡へいぼんな方角ほうがくに、手がかりてがかりが一いちつできたと云ういうつまらなさをも感じかんじた。
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