彼岸過迄

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三

第 41 章
須永すながの話はなしは敬太郎けいたろうの予期よきしたよりも遥かはるかに長かっながかった。
―― 僕ぼくの父ちちは早くはやく死んしんだ。
僕ぼくがまだ親子おやこの情愛じょうあいをよく解しかいしない子供こどもの頃ころに突然とつぜん死んしんでしまった。
僕ぼくは子こがないから、自分じぶんの血ちを分けわけた温おんたかい肉にくの塊りかたまりに対するたいする情じょうは、今いまでも比較的ひかくてき薄いうすいかも知れしれないが、自分じぶんを生んうんでくれた親おやを懐かしいなつかしいと思うおもう心こころはその後そのあとだいぶ発達はったつした。
今いまの心こころをその時分じぶん持っもっていたならと考えるかんがえる事ことも稀まれではない。
一言ひとことでいうと、当時とうじの僕ぼくは父ちちにははなはだ冷淡れいたんだったのである。
もっとも父ちちもけっして甘いあまい方ほうではなかった。
今いまの僕ぼくの胸むねに映るうつる彼かれの顔かおは、骨ほねの高いたかい血色けっしょくの勝れすぐれない、親しみしたしみの薄いうすい、厳格げんかくな表情ひょうじょうに充ちみちた肖像しょうぞうに過ぎすぎない。
僕ぼくは自分じぶんの顔かおを鏡かがみの裏うらに見るみるたんびに、それが胸むねの中なかに収めおさめた父ちちの容貌ようぼうと大変たいへん似にているのを思い出しおもいだしては不愉快ふゆかいになる。
自分じぶんが父ちちと同じおなじ厭いやな印象いんしょうを、傍そばの人ひとに与えあたえはしまいかと苦くに病んやんで、そこで気きが引けるひけるばかりではない。
こんな陰欝いんうつな眉まゆや額がくが代表だいひょうするよりも、まだましな温おんたかい情愛じょうあいを、血ちの中なかに流しながしている今いまの自分じぶんから推しおして、あんなに冷酷れいこくに見えみえた父ちちも、心こころの底そこには自分じぶん以上いじょうに熱いあつい涙なみだを貯えたくわえていたのではなかろうかと考えるかんがえると、父ちちの記念きねんとして、彼かれの悪いわるい上皮じょうひだけを覚えおぼえているのが、子ことしていかにも情ないなさけない心持こころもちがするからである。
父ちちは死ぬしぬ二三にさん日ひ前まえ僕ぼくを枕元まくらもとに呼んよんで、「市蔵いちぞう、おれが死ぬしぬと御ご母さんははさんの厄介やっかいにならなくっちゃならないぞ。知っしってるか」と云っいった。
僕ぼくは生れうまれた時じから母ははの厄介やっかいになっていたのだから、今更いまさら改あらためためて父ちちからそれを聞かさきかされるのを妙みょうに思っおもった。
黙っだまって坐っすわっていると、父ちちは骨ほねばかりになった顔かおの筋すじを無理むりに動かすうごかすようにして、「今いまのように腕白わんぱくじゃ、御ご母さんははさんも構っかまってくれないぞ。もう少しすこしおとなしくしないと」と云っいった。
僕ぼくは母ははが今までいままで構っかまってくれたんだからこのままの僕ぼくでたくさんだという気きが充分じゅうぶんあった。
それで父ちちの小言こごとをまるで必要ひつようのない余計よけいな事ことのように考えかんがえて病室びょうしつを出でた。
父ちちが死んしんだ時じ母ははは非常ひじょうに泣いないた。
葬式そうしきが出るでる間際まぎわになって、僕ぼくは着物きものを着換えきかえさせられたまま、手持無沙汰てもちむさただから、一人ひとり縁側えんがわへ出でて、蒼いあおい空そらを覗き込むのぞきこむように眺めながめていると、白無垢しろむくを着きた母ははが何なんを思っおもったか不意ふいにそこへ出でて来きた。
田口たぐちや松本まつもとを始めはじめ、供ともに立つたつものはみんな向むかいの方ほうで混雑こんざつしていたので、傍そばには誰だれも見えみえなかった。
母ははは突然とつぜん自分じぶんの坊主頭ぼうずあたまへ手てを載せのせて、泣き腫らしなきはらした眼めを自分じぶんの上うえに据えすえた。
そうして小さいちいさい声こえで、「御ご父さんちちさんが御ご亡くなりなくなりになっても、御ご母さんははさんが今までいままで通りとおり可愛かわいがって上げるあげるから安心あんしんなさいよ」と云っいった。
僕ぼくは何なんとも答えこたえなかった。
涙なみだも落さおとさなかった。
その時じはそれですんだが、両親りょうしんに対するたいする僕ぼくの記憶きおくを、生長せいちょうの後あとに至っいたって、遠くとおくの方ほうで曇らすくもらすものは、二人ふたりのこの時じの言葉ことばであるという感じかんじがその後そのあとしだいしだいに強くつよく明らかあきらかになって来きた。
何なんの意味いみもつける必要ひつようのない彼かれらの言葉ことばに、僕ぼくはなぜ厚いあつい疑惑ぎわくの裏打うらうちをしなければならないのか、それは僕ぼく自身じしんに聞いきいて見みてもまるで説明せつめいがつかなかった。
時々ときどきは母ははに向っむかって直じかに問いとい糺しただして見みたい気きも起っおこったが、母ははの顔かおを見るみると急きゅうに勇気ゆうきが摧けくだけてしまうのが例れいであった。
そうして心こころの中なかのどこかで、それを打ち明けうちあけたが最後さいご、親しいしたしい母子ぼしが離れ離れはなればなれになって、永久えいきゅう今いまの睦ぼくましさに戻るもどる機会きかいはないと僕ぼくに耳語じごくものが出でて来きた。
それでなくても、母ははは僕ぼくの真面目まじめな顔かおを見守っみまもって、そんな事ことがあったっけかねと笑いわらいに紛らしまぎらしそうなので、そう剥ぐはぐらかされた時じの残酷ざんこくな結果けっかを予想よそうすると、とても口くちへ出さだされた義理ぎりじゃないと思い直しおもいなおしては黙っだまっていた。
僕ぼくは母ははに対したいしてけっして柔順じゅうじゅんな息子むすこではなかった。
父ちちの死ぬしぬ前まえに枕元まくらもとへ呼びつけよびつけられて意見いけんされただけあって、小さいちいさいうちからよく母ははに逆らっさからった。
大きくおおきくなって、女親おんなおやだけになおさら優しくやさしくしてやりたいという分別ぶんべつができた後あとでも、やっぱり彼女かのじょの云ういう通りとおりにはならなかった。
この二三にさん年ねんはことに心配しんぱいばかりかけていた。
が、いくら勝手かってを云い合っいいあっても、母子ぼしは生れうまれて以来いらいの母子ぼしで、この貴たかとい観念かんねんを傷つけきずつけられた覚さとしは、重手おもでにしろ浅手あさでにしろ、まだ経験けいけんした試しためしがないという考えかんがえから、もしあの事ことを云いいい出しだして、二人ふたり共とも後悔こうかいの瘢痕はんこんを遺さのこさなければすまない瘡くさを受けうけたなら、それこそ取返しとりかえしのつかない不幸ふこうだと思っおもっていた。
この畏怖いふの念ねんは神経質しんけいしつに生れうまれた僕ぼくの頭あたまで拵らえるこしらえるのかも知れしれないとも疑っうたがって見みた。
けれども僕ぼくにはそれが現在げんざいよりも明らかあきらかな未来みらいとして存在そんざいしている事ことが多かっおおかった。
だから僕ぼくはあの時じの父ちちと母ははの言葉ことばを、それなり忘れわすれてしまう事ことができなかったのを、今いまでも情なくなさけなく感ずるかんずるのである。
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