九
第 29 章
ところが昨日と違って、門を潜っても、子供の鳴らす太鼓の音は聞こえなかった。
玄関にはこの前目に着かなかった衝立が立っていた。
その衝立には淡彩の鶴がたった一羽佇ずんでいるだけで、姿見のように細長いその格好が、普通の寸法と違っている意味で敬太郎の注意を促がした。
取次には例の下女が現われたには相違ないが、その後から遠慮のない足音をどんどん立てて二人の小供が衝立の影まで来て、珍らしそうな顔をして敬太郎を眺めた。
昨日に比べるとこれだけの変化を認めた彼は、最後にどうぞという案内と共に、硝子戸の締まっている座敷へ通った。
その真中にある金魚鉢のように大きな瀬戸物の火鉢の両側に、下女は座蒲団を一枚ずつ置いて、その一枚を敬太郎の席とした。
その座蒲団は更紗の模様を染めた真丸の形をしたものなので、敬太郎は不思議そうにその上へ坐った。
床の間には刷毛でがしがしと粗末に書いたような山水の軸がかかっていた。
敬太郎はどこが樹でどこが巌だか見分のつかない画を、軽蔑に値する装飾品のごとく眺めた。
するとその隣りに銅鑼が下っていて、それを叩く棒まで添えてあるので、ますます変った室だと思った。
すると間の襖を開けて隣座敷から黒子のある主人が出て来た。
「よくおいでです」と云ったなり、すぐ敬太郎の鼻の先に坐ったが、その調子はけっして愛嬌のある方ではなかった。
ただどこかおっとりしているので、相手に余り重きを置かないところが、かえって敬太郎に楽な心持を与えた。
それで火鉢一つを境に、顔と顔を突き合わせながら、敬太郎は別段気がつまる思もせずにいられた。
その上彼はこの間の晩、たしかに自分の顔をここの主人に覚えられたに違ないと思い込んでいたにもかかわらず、今会って見ると、覚えているのだか、いないのだか、平然としてそんな素振は、口にも色にも出さないので、彼はなおさら気兼の必要を感じなくなった。
最後に主人は昨日雨天のため面会を謝絶した理由も言訳も一言も述べなかった。
述べたくなかったのか、述べなくっても構わないと認めていたのか、それすら敬太郎にはまるで判断がつかなかった。
話は自然の順序として、紹介者になった田口の事から始まった。
「あなたはこれから田口に使って貰おうというのでしたね」というのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。
それから彼のいまだかつて考えた事もない、社会観とか人生観とかいうこむずかしい方面の問題を、時々持ち出して彼を苦しめた。
彼はその時心のうちで、この松本という男は世に著われない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理窟をちらちらと閃めかされた。
そればかりでなく、松本は田口を捕まえて、役には立つが頭のなっていない男だと罵しった。
「第一ああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立った考のできる閑がないから駄目です。あいつの脳と来たら、年が年中摺鉢の中で、擂木に攪き廻されてる味噌見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」 敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで悪体を吐くのかさっぱり訳が分らなかった。
けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、毫も毒々しいところだの、小悪らしい点だのの見えない事であった。
彼の罵しる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきを具えた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。
ただ一種変った人だという感じが新たに刺戟を受けるだけであった。
「それでいて、碁を打つ、謡を謡う。いろいろな事をやる。もっともいずれも下手糞なんですが」「それが余裕のある証拠じゃないでしょうか」「余裕って君。――僕は昨日雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民でないからです。いくら他の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」