彼岸過迄

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十

第 30 章
「実じつは田口たぐちさんからは何になんにも伺うかがいがわずに参っまいったのですが、今いま御ご使いつかいになった高等こうとう遊民ゆうみんという言葉ことばは本当ほんとうの意味いみで御ご用いもちいなのですか」「文字もじ通りとおりの意味いみで僕ぼくは遊民ゆうみんですよ。なぜ」 松本まつもとは大きなおおきな火鉢ひばちの縁えんへ両肱りょうひじを掛けかけて、その一方いっぽうの先さきにある拳骨げんこつを顎あごの支えささえにしながら敬太郎けいたろうを見みた。
敬太郎けいたろうは初対面はつたいめんの客きゃくを客きゃくと感じかんじていないらしいこの松本まつもとの様子ようすに、なるほど高等こうとう遊民ゆうみんの本ほん色いろがあるらしくも思っおもった。
彼かれは煙草たばこ道楽どうらくと見えみえて、今日きょうは大きなおおきな丸いまりい雁首がんくびのついた木製もくせいの西洋せいようパイプぱいぷを口くちから離さはなさずに、時々ときどき思い出しおもいだしたような濃いこい煙けむりを、まだ火ひの消えきえていない証拠しょうことして、狼煙のろしのごとくぱっぱっと揚げあげた。
その煙けむりが彼かれの顔かおの傍そばでいつの間まにか消えきえて行くいく具合ぐあいが、どこにも締りしまりを設けるもうける必要ひつようを認めみとめていないらしい彼かれの眼鼻めはなと相待そうたいって、今までいままで経験けいけんした事ことのない一種いっしゅ静かしずかな心持こころもちを敬太郎けいたろうに与えあたえた。
彼かれは少しすこし薄くうすくなりかかった髪かみを、頭あたまの真中まなかから左右さゆうへ分けわけているので、平たいひらたい頭あたまがなおの事こと尋常じんじょうに落ちついおちついて見えみえた。
彼かれはまた普通ふつう世間せけんの人ひとが着きないような茶色ちゃいろの無地むじの羽織はおりを着きて、同じおなじ色いろの上うえ足袋たびを白しろの上うえに重ねかさねていた。
その色いろがすぐ坊主ぼうずの法衣ほういを聯想れんそうさせるところがまた変へんに特別とくべつな男おとこらしく敬太郎けいたろうの眼めに映っうつった。
自分じぶんで高等こうとう遊民ゆうみんだと名乗るなのるものに会っかいったのはこれが始めはじめてではあるが、松本まつもとの風采ふうさいなり態度たいどなりが、いかにもそう云ういう階級かいきゅうの代表者だいひょうしゃらしい感じかんじを、少しすこし不意ふいを打たうたれた気味きみの敬太郎けいたろうに投げ込んなげこんだのは事実じじつであった。
「失礼しつれいながら御ご家族かぞくは大勢おおぜいでいらっしゃいますか」 敬太郎けいたろうは自からみずから高等こうとう遊民ゆうみんと称するしょうする人ひとに対したいして、どういう訳わけかまずこういう問もんがかけて見みたかった。
すると松本まつもとは「ええ子供こどもがたくさんいます」と答えこたえて、敬太郎けいたろうの忘れわすれかかっていたパイプぱいぷからぱっと煙けむりを出しだした。
「奥さんおくさんは……」「妻つまは無論むろんいます。なぜですか」 敬太郎けいたろうは取り返しとりかえしのつかない愚ぐな問もんを出しだして、始末しまつに行かいかなくなったのを後悔こうかいした。
相手あいてがそれほど感情かんじょうを害しがいした様子ようすを見せみせないにしろ、不思議ふしぎそうに自分じぶんの顔かおを眺めながめて、解決かいけつを予期よきしている以上いじょうは、何なんとか云わいわなければすまない場合ばあいになった。
「あなたのような方ほうが、普通ふつうの人間にんげんと同じおなじように、家庭的かていてきに暮しくらして行くいく事ことができるかと思っおもってちょっと伺っうかがったまでです」「僕ぼくが家庭的かていてきに……。なぜ。高等こうとう遊民ゆうみんだからですか」「そう云ういう訳わけでも無いないんですが、何なんだかそんな心持こころもちがしたからちょっと伺うかがいがったのです」「高等こうとう遊民ゆうみんは田口たぐちなどよりも家庭的かていてきなものですよ」 敬太郎けいたろうはもう何なんも云ういう事ことがなくなってしまった。
彼かれの頭脳ずのうの中なかでは、返事へんじに行き詰まっいきづまった困却こんきゃくと、ここで問題もんだいを変えようかえようとする努力どりょくと、これを緒口いとぐちに、革かわの手袋てぶくろを穿めた女おんなの関係かんけいを確かめたしかめたい希望きぼうが三さんついっしょに働はたらけらくので、元もとからそれほど秩序ちつじょの立ったっていない彼かれの思想しそうになおさら暗いくらい影かげを投げなげた。
けれども松本まつもとはそんな事ことにまるで注意ちゅういしない風かぜで、困っこまった敬太郎けいたろうの顔かおを平気へいきに眺めながめていた。
もしこれが田口たぐちであったなら手際てぎわよく相手あいてを打ち据えるうちすえる代りかわりに、打ち据えるうちすえるとすぐ向うむこうから局面きょくめんを変えかえてくれて、相手あいてに見み苦るにがるしい立ち往生たちおうじょうなどはけっしてさせない鮮やかあざやかな腕うでを有っあっているのにと敬太郎けいたろうは思っおもった。
気きはおけないが、人ひとを取扱とりあつかいかう点てんにおいて、全くまったく冴えさえた熟練じゅくれんを欠いかいている松本まつもとの前まえで、敬太郎けいたろうは図らはからず二人ふたりの相違そういを認めみとめたような気きがしていると、松本まつもとは偶然ぐうぜん「あなたはそういう問題もんだいを考えかんがえて見みた事ことがないようですね」と聞いきいてくれた。
「ええまるで考えかんがえていません」「考えるかんがえる必要ひつようはありませんね。一人ひとりで下宿げしゅくしている以上いじょうは。けれどもいくら一人ひとりだって、広いひろい意味いみでの男おとこ対たい女おんなの問題もんだいは考えるかんがえるでしょう」「考えるかんがえると云ういうよりむしろ興味きょうみがあるといった方ほうが適当てきとうかも知れしれません。興味きょうみなら無論むろんあります」
十一じゅういち
二人ふたりは人間にんげんとして誰だれしも利害りがいを感ずるかんずるこの問題もんだいについてしばらく話しはなした。
けれども年歯ねんしの違いだか段だんの違いだか、松本まつもとの云ういう事ことは肝心かんじんの肉にくを抜いぬいた骨組ほねぐみだけを並べならべて見せるみせるようで、敬太郎けいたろうの血ちの中なかまで這入りはいり込んこんで来きて、共ともに流れながれなければやまないほどの切実せつじつな勢いきおいをまるで持っもっていなかった。
その代りかわり敬太郎けいたろうの秩序ちつじょ立たたたない断片的だんぺんてきの言葉ことばも口くちを出るでるとすぐ熱ねつを失っうしなって、少しすこしも松本まつもとの胸むねに徹らとおらないらしかった。
こんな縁遠いえんどおい話はなしをしている中なかで、ただ一いちつ敬太郎けいたろうの耳みみに新らしくあたらしく響いひびいたのは、露西亜ろしあの文学者ぶんがくしゃのゴーリキごーりきとかいう人ひとが、自分じぶんの主張しゅちょうする社会主義しゃかいしゅぎとかを実行じっこうする上うえに、資金しきんの必要ひつようを感じかんじて、それを調達ちょうたつのため細君さいくん同伴どうはんで亜米利加あめりかへ渡っわたった時じの話はなしであった。
その時じゴーリキごーりきは大変たいへんな人気にんきを一身いっしんに集めあつめて、招待しょうたいやら驩迎やらに忙殺ぼうさつされるほどの景気けいきのうちに、自分じぶんの目的もくてきを苦くもなく着々ちゃくちゃくと進行しんこうさせつつあった。
ところが彼かれの本国ほんごくから伴れつれて来きた細君さいくんというのが、本当ほんとうの細君さいくんでなくて単にたんに彼かれの情婦じょうふに過ぎすぎないという事実じじつがどこからか曝露ばくろした。
すると今までいままで狂熱きょうねつに達したっしていた彼かれの名声めいせいが、たちまちどさりと落ちおちて、広いひろい新大陸しんたいりくに誰だれ一人ひとりとして彼かれと握手あくしゅするものが無くなっなくなってしまったので、ゴーリキごーりきはやむを得とくずそのまま亜米利加あめりかを去っさった。
というのが筋すじであった。
「露西亜ろしあと亜米利加あめりかではこれだけ男女だんじょ関係かんけいの解釈かいしゃくが違うちがうんです。ゴーリキごーりきのやりくちは露西亜ろしあならほとんど問題もんだいにならないくらい些細ささいな事件じけんなんでしょうがね。下らしたらない」と松本まつもとは全くまったく下らしたらなそうな顔かおをした。
「日本にっぽんはどっちでしょう」と敬太郎けいたろうは聞いきいて見みた。
「まあ露西亜ろしあ派はでしょうね。僕ぼくは露西亜ろしあ派はでたくさんだ」と云っいって、松本まつもとはまた狼煙のろしのような濃いこい煙けむりをぱっと口くちから吐いはいた。
ここまで来きて見るみると、この間まの女おんなの事ことを尋ねるたずねるのが敬太郎けいたろうに取っとって少しすこしも苦くにならないような気きがし出しだした。
「せんだっての晩ばん神田かんだの洋食店ようしょくてんで私わたくしはあなたに御ご目めにかかったと思うおもうんですが」「ええ会いあいましたね。よく覚えおぼえています。それから帰りかえりにも電車でんしゃの中なかで会っかいったじゃありませんか。君きみも江戸えど川かわまで乗っのったようだが、あすこいらに下宿げしゅくでもしているんですか。あの晩ばんは雨あめが降っふって困っこまったでしょう」 松本まつもとははたして敬太郎けいたろうを記憶きおくしていた。
それを初めはじめから口くちに出すだすでもなく、今いまになってようやく気きがついたふりをするでもなく、話しはなしてもよし話さはなさないでもよしと云っいった風かぜの態度たいどが、無邪気むじゃきから出るでるのか、度胸どきょうから出るでるのか、または鷹揚おうような彼かれの生れつきうまれつきから出るでるのか、敬太郎けいたろうにはちょっと判断はんだんしかねた。
「御ご伴ともがおありのようでしたが」「ええ別嬪べっぴんを一人ひとり伴れつれていました。あなたはたしか一人ひとりでしたね」「一人ひとりです。あなたも御ご帰りかえりには御ご一人ひとりじゃなかったですか」「そうです」 ちょっとはきはき進んすすんだ問答もんどうはここへ来きてぴたりととまってしまった。
松本まつもとがまた女おんなの事ことを云いいい出すだすかと思っおもって待っまっていると、「あなたの下宿げしゅくは牛込うしごめですか、小石川こいしかわですか」とまるで無関係むかんけいの問もんを敬太郎けいたろうはかけられた。
「本郷ほんごうです」 松本まつもとは腑ふに落ちおちない顔かおをして敬太郎けいたろうを見みた。
本郷ほんごうに住んすんでいる彼かれが、なぜ江戸えど川かわの終点しゅうてんまで乗っのったのか、その説明せつめいを聞きききたいと云わいわぬばかりの松本まつもとの眼つきめつきを見みた時じ、敬太郎けいたろうは面倒めんどうだからここで一いちつ心持こころもちよく万事ばんじを打ち明けうちあけてしまおうと決心けっしんした。
もし怒らおこられたら、詫わびまるだけで、詫わびまって聞かきかれなければ、御辞儀ごじぎを叮嚀ていねいにして帰れかえれば好かろうよかろうと覚悟かくごをきめた。
「実じつはあなたの後あとを跟けつけてわざわざ江戸えど川かわまで来きたのです」と云っいって松本まつもとの顔かおを見るみると、案外あんがいにも予期よきしたほどの変化へんかも起らおこらないので、敬太郎けいたろうはまず安心あんしんした。
「何なんのために」と松本まつもとはほとんどいつものような緩いゆりい口調くちょうで聞き返しききかえした。
「人ひとから頼またのまれたのです」「頼またのまれた? 誰だれに」 松本まつもとは始めはじめて、少しすこし驚いおどろいた声こえの中なかに、並なみより強いつよいアクセントあくせんとを置いおいて、こう聞いきいた。
十二じゅうに
「実じつは田口たぐちさんに頼またのまれたのです」「田口たぐちとは。田口たぐち要作ようさくですか」「そうです」「だって君きみはわざわざ田口たぐちの紹介状しょうかいじょうを持っもって僕ぼくに会いあいに来きたんじゃありませんか」 こう一句いっく一句いっく問いつめといつめられて行くいくよりは、自分じぶんの方ほうで一いちと思いおもいに今までいままでの経過けいかを話しはなしてしまう方ほうが楽らくな気きがするので、敬太郎けいたろうは田口たぐちの速達そくたつ便びんを受取っうけとって、すぐ小川おがわ町まちの停留所ていりゅうしょへ見張みはりに出でた冒険ぼうけんの第だい一いち節ふし目めから始めはじめて、電車でんしゃが江戸えど川かわの終点しゅうてんに着いついた後あとの雨あめの中なかの立往生りっおうじょうに至るいたるまでの顛末てんまつを包まつつまず打ち明けうちあけた。
固よりもとよりただ筋すじの通るとおるだけを目的もくてきに、誇張こちょうは無論むろん布衍ふえんの煩わしわずらわしさもできる限りできるかぎり避けさけたので、時間じかんがそれほどかからなかったせいか、松本まつもとは話はなしの進行しんこうしている間ま一口ひとくちも敬太郎けいたろうを遮ぎらさえぎらなかった。
話はなしが済んすんでからも、直じかとは声こえを出すだす様子ようすは見えみえなかった。
敬太郎けいたろうは主人しゅじんのこの沈黙ちんもくを、感情かんじょうを害しがいした結果けっかではなかろうかと推察すいさつして、怒りいかり出さだされないうちに早くはやく詫わびまるに越しこした事ことはないと思い定めおもいさだめた。
すると主人しゅじんの方ほうから突然とつぜん口くちを利ききき始めはじめた。
「どうもけしからん奴やつだね、あの田口たぐちという男おとこは。それに使わつかわれる君きみもまた君きみだ。よっぽどの馬鹿ばかだね」 こういった主人しゅじんの顔かおを見るみると、呆れ返っあきれかえっている風かぜは誰だれの目めにも着くつくが、怒気どきを帯びおびた様子ようすは比較的ひかくてきどこにも現われあらわれていないので、敬太郎けいたろうはむしろ安心あんしんした。
この際さい馬鹿ばかと呼ばよばれるぐらいの事ことは、彼かれに取っとって何なんでもなかったのである。
「どうも悪いわるい事ことをしました」「詫わびまって貰いもらいたくも何なんともない。ただ君きみが御ご気の毒きのどくだから云ういうのですよ。あんな者ものに使わつかわれて」「それほど悪いわるい人ひとなんですか」「いったい何なんの必要ひつようがあって、そんな愚ぐな事ことを引き受けひきうけたのです」 物もの数奇すうきから引き受けひきうけたという言葉ことばは、この場合ばあいどうしても敬太郎けいたろうの口くちへは出でて来きなかった。
彼かれはやむを得とくず、衣ころも食しょく問題もんだいの必要ひつよう上うえどうしても田口たぐちに頼らたよらなければならない事情じじょうがあるので、面白くおもしろくないとは知りしりながら、つい承諾しょうだくしたのだという風かぜな答こたえをした。
「衣ころも食しょくに困るこまるなら仕方しかたがないが、もう止しよした方ほうがいいですよ。余計よけいな事ことじゃありませんか、寒いさむいのに雨あめに降らふられて人ひとの後あとを跟けるつけるなんて」「私わたくしも少しすこし懲りこりました。これからはもうやらないつもりです」 この述懐じゅっかいを聞いきいた松本まつもとは何なんとも云わいわず、ただ苦笑いにがわらいをしていた。
それが敬太郎けいたろうには軽蔑けいべつの意味いみにも憐愍れんびんの意味いみにも取れるとれるので、彼かれはいずれにしてもはなはだ肩身かたみの狭いせまい思おもうをした。
「あなたは僕ぼくに対したいしてすまん事ことをしたような風かぜをしているが、実際じっさいそうなのですか」 根本こんぽん義ぎに溯そぼったらそれほどに感じかんじていない敬太郎けいたろうもこう聞かきかれると、行こうがかり上うえそうだと思わおもわざるを得とくなかった。
またそう答えこたえざるを得とくなかった。
「じゃ田口たぐちへ行っいってね。この間ま僕ぼくの伴れつれていた若いわかい女おんなは高等こうとう淫売いんばいだって、僕ぼく自身じしんがそう保証ほしょうしたと云っいってくれたまえ」「本当ほんとうにそういう種類しゅるいの女おんななんですか」 敬太郎けいたろうはちょっと驚ろかさおどろかされた顔かおをしてこう聞いきいた。
「まあ何なんでも好いよいから、高等こうとう淫売いんばいだと云っいってくれたまえ」「はあ」「はあじゃいけない、たしかにそう云わいわなくっちゃ。云えいえますか、君きみ」 敬太郎けいたろうは現代げんだいに教育きょういくされた青年せいねんの一人ひとりとして、こういう意味いみの言葉ことばを、年長者ねんちょうしゃの前まえで口くちにする無遠慮むえんりょを憚かるはばかるほどの男おとこではなかった。
けれども松本まつもとが強いつよいてこの四よん字じを田口たぐちの耳みみへ押し込もうおしこもうとする奥底おくそこには、何なんか不愉快ふゆかいなある物ものが潜んひそんでいるらしく思わおもわれるので、そう軽々しいかるがるしい調子ちょうしで引き受けるひきうける気きも起らおこらなかった。
彼かれが挨拶あいさつに困っこまってむずかしい顔かおをしていると、それを見みた松本まつもとは、「何なん、君きみ心配しんぱいしないでもいいですよ。相手あいてが田口たぐちだもの」と云っいったが、しばらくしてやっと気きがついたように、「君きみは僕ぼくと田口たぐちとの関係かんけいをまだ知らしらないんでしたね」と聞いきいた。
敬太郎けいたろうは「まだ何になんにも知りしりません」と答えこたえた。
十三じゅうさん
「その関係かんけいを話すはなすと、君きみが田口たぐちに向っむかってあの女おんなの事ことを高等こうとう淫売いんばいだと云ういう勇気ゆうきが出で悪くわるくなるだけだからつまり僕ぼくには損そんになるんだが、いつまで罪つみもない君きみを馬鹿ばかにするのも気の毒きのどくだから、聞かしきかして上げようあげよう」 こういう前置ぜんちを置いおいた上うえ、松本まつもとは田口たぐちと自分じぶんが社会的しゃかいてきにどう交渉こうしょうしているかを説明せつめいしてくれた。
その説明せつめいは最ももっとも簡単かんたんにすむだけに最ももっとも敬太郎けいたろうを驚ろかしおどろかした。
それを一言ひとことでいうと、田口たぐちと松本まつもとは近いちかい親類しんるいの間柄あいだがらだったのである。
松本まつもとに二人ふたりの姉あねがあって、一人ひとりが須永すながの母はは、一人ひとりが田口たぐちの細君さいくん、という互たがいの縁続きえんつづきを始めはじめて呑み込んのみこんだ時じ、敬太郎けいたろうは、田口たぐちの義弟ぎていに当るあたる松本まつもとが、叔父おじという資格しかくで、彼かれの娘むすめと時間じかんを極めてきわめて停留所ていりゅうしょで待ち合わしまちあわした上うえ、ある料理店りょうりてんで会食かいしょくしたという事実じじつを、世間せけんの出来事できごとのうちで最ももっとも平凡へいぼんを極めきわめたものの一いちつのように見みた。
それを込み入っこみいった文ぶんでも隠しかくしているように、一生懸命いっしょうけんめいに自分じぶんの燃やしもやした陽炎かげろうを散らつかちらつかせながら、後あとを追かけおいかけて歩いあるいたのが、さもさも馬鹿馬鹿しくばかばかしくなって来きた。
「御嬢ごじょうさんは何なんでまたあすこまで出張っしゅっちょうっていたんですか。ただ私わたくしを釣るつるためなんですか」「何なん須永すながへ行っいった帰りかえりなんです。僕ぼくが田口たぐちで話しはなしていると、あの子こが電話でんわをかけて、四よん時半じはん頃ころあすこで待ち合せまちあわせているから、ちょっと帰りかえりに降りふりてくれというんです。面倒めんどうだから止そうよそうと思っおもったけれども、是非ぜひ何なんとかかとかいうから、降りふりたところがね。今朝けさ御ご父さんちちさんから聞いきいたら、叔父おじさんが御歳暮ごせいぼに指環ゆびわを買っかってやると云っいっていたから、停留所ていりゅうしょで待ち伏せまちぶせをして、逃さのがさないようにいっしょに行っいって買っかって貰えもらえと云わいわれたから先刻せんこくからここで待っまっていたんだって、人ひとの知りしりもしないのに、一人ひとりで勝手かってな請求せいきゅうを持ち出しもちだしてなかなか動かうごかない。仕方しかたがないから、まあ西洋せいよう料理りょうりぐらいでごまかしておこうと思っおもって、とうとう宝亭たからていへ連れ込んつれこんだんです。――実じつに田口たぐちという男おとこは箆棒べらぼうだね。わざわざそれほどの手数てすうをかけて、何なんもそんな下らしたらない真似まねをするにも当らあたらないじゃないか。騙さだまされた君きみよりもよっぽど田口たぐちの方ほうが箆棒べらぼうですよ」 敬太郎けいたろうには騙さだまされた自分じぶんの方ほうが遥かはるかに愚物ぐぶつに思わおもわれた。
そうと知っしったら、探偵たんていの結果けっかを報告ほうこくする時じにも、もう少しすこしは手加減てかげんが出来できたものをと、自からみずから赧いあかい顔かおもしなければならなかった。
「あなたはまるで御承知ごしょうちない事ことなんですね」「知るしるものかね、君きみ。いくら高等こうとう遊民ゆうみんだって、そんな暇ひまの出るでるはずがないじゃありませんか」「御嬢ごじょうさんはどうでしょう。多分たぶん御存じごぞんじなんだろうと思いおもいますが」「そうさ」と云っいって松本まつもとはしばらく思案しあんしていたが、やがて判はん切せつした口調くちょうで、「いや知るしるまい」と断言だんげんした。
「あの箆棒べらぼうの田口たぐちに、一いちつ取柄とりえがあると云えいえば云わいわれるのだが、あの男おとこはね、いくら悪戯いたずらをしても、その悪戯いたずらをされた当人とうにんが、もう少しすこしで恥はじを掻きかきそうな際どいきわどい時じになると、ぴたりととめてしまうか、または自分じぶんがその場ばへ出でて来きて、当人とうにんの体面たいめんにかかわらない内うちに綺麗きれいに始末しまつをつける。そこへ行くいくと箆棒べらぼうには違いないが感心かんしんなところがあります。つまりやりかたは悪辣あくらつでも、結末けつまつには妙みょうに温かいあたたかい情じょうの籠っこもった人間にんげんらしい点てんを見せみせて来るくるんです。今度こんどの事ことでもおそらく自分じぶん一人ひとりで呑み込んのみこんでいるだけでしょう。君きみが僕ぼくの家いえへ来きなかったら、僕ぼくはきっとこの事件じけんを知らしらずに済むすむんだったろう。自分じぶんの娘むすめにだって、君きみの馬鹿ばかを証明しょうめいするような策略さくりゃくを、始めはじめから吹聴ふいちょうするほど無慈悲むじひな男おとこじゃない。だからついでに悪戯いたずらも止せよせばいいんだがね、それがどうしても止せよせないところが、要するようするに箆棒べらぼうです」 田口たぐちの性格せいかくに対するたいする松本まつもとのこういう批評ひひょうを黙っだまって聞いきいていた敬太郎けいたろうは、自分じぶんの馬鹿ばかな振舞ふるまいを顧みるかえりみる後悔こうかいよりも、自分じぶんを馬鹿ばかにした責任者せきにんしゃを怨むうらむよりも、むしろ悪戯いたずらをした田口たぐちを頼もしいたのもしいと思うおもう心こころが、わが胸むねの裏うらで一番いちばん勝かちを制しせいしたのを自覚じかくした。
が、はたしてそういう人ひとならば、なぜ彼かれの前まえに出でて話はなしをしている間まに、あんな窮屈きゅうくつな感じかんじが起るおこるのだろうという不審ふしんも自ずとおのずと萌さきざさない訳わけに行かいかなかった。
「あなたの御ご話はなしでだいぶ田口たぐちさんが解っわかって来きたようですが、私わたくしはあの方ほうの前まえへ出るでると、何なんだか気きが落ちつかおちつかなくって変へんに苦しいくるしいです」「そりゃ向うむこうでも君きみに気きを許さゆるさないからさ」
十四じゅうよん
こう云わいわれて見るみると、田口たぐちが自分じぶんに気きを許しゆるしていない眼め遣けんやら言葉つきことばつきやらがありありと敬太郎けいたろうの胸むねに、疑ぎもない記憶きおくとして読まよまれた。
けれども田口たぐちほどの老巧ろうこうのものに、何なんで学校がっこうを出でたばかりの青臭いあおくさい自分じぶんが、それほど苦くになるのか、敬太郎けいたろうは全くまったく合点がてんが行かいかなかった。
彼かれは見みた通りとおりのままの自分じぶんで、誰だれの前まえへ出でても通用つうようするものと今までいままで固くかたく己れおのれを信じしんじていたのである。
彼かれはただかような青年せいねんとして、他ほかに憚からはばかられたり気きをおかれたりする資格しかくさえないように自分じぶんを見縊っみくびっていただけに、経験けいけんの程度ていどの違うちがう年長者ねんちょうしゃから、自分じぶんの思わくおもわくと違うちがう待遇たいぐうを受けるうけるのをむしろ不思議ふしぎに考え出しかんがえだした。
「私わたくしはそんな裏表うらおもてのある人間にんげんと見えみえますかね」「どうだか、そんな細かいこまかい事ことは初めてはじめて会っかいっただけじゃ分らわからないですよ。しかしあっても無くっなくっても、僕ぼくの君きみに対するたいする待遇たいぐうにはいっこう関係かんけいがないからいいじゃありませんか」「けれども田口たぐちさんからそう思わおもわれちゃ……」「田口たぐちは君きみだからそう思うおもうんじゃない、誰だれを見みてもそう思うおもうんだから仕方しかたがないさ。ああして長いながい間人まおとを使っつかってるうちには、だいぶ騙さだまされなくっちゃならないからね。たまに自然しぜんそのままの美びくしい人間にんげんが自分じぶんの前まえに現われあらわれて来きても、やっぱり気きが許せゆるせないんです。それがああ云ういう人ひとの因果いんがだと思えおもえばそれで好いよいじゃないか。田口たぐちは僕ぼくの義兄ぎけいだから、こう云ういうと変へんに聞えるきこえるが、本来ほんらいは美質びしつなんです。けっして悪いわるい男おとこじゃない。ただああして何なん年ねんとなく事業じぎょうの成功せいこうという事ことだけを重じゅうに眼中がんちゅうに置いおいて、世の中よのなかと闘かっているものだから、人間にんげんの見方みかたが妙みょうに片寄っかたよって、こいつは役やくに立つたつだろうかとか、こいつは安心あんしんして使えるつかえるだろうかとか、まあそんな事ことばかり考えかんがえているんだね。ああなると女おんなに惚れほれられても、こりゃ自分じぶんに惚れほれたんだろうか、自分じぶんの持っもっている金きんに惚れほれたんだろうか、すぐそこを疑ぐらうたぐらなくっちゃいられなくなるんです。美人びじんでさえそうなんだから君きみ見みたいな野郎やろうが窮屈きゅうくつな取扱とりあつかいを受けるうけるのは当然とうぜんだと思わおもわなくっちゃいけない。そこが田口たぐちの田口たぐちたるところなんだから」 敬太郎けいたろうはこの批評ひひょうで田口たぐちという男おとこが自分じぶんにも判はん切せつ呑み込めのみこめたような気きがした。
けれどもこういう風かぜに一々いちいち彼かれを肯わうけがわせるほどの判断はんだんを、彼かれの頭あたまに鉄てつ椎しいで叩き込むたたきこむように入れいれてくれる松本まつもとはそもそも何者なにものだろうか、その点てんになると敬太郎けいたろうは依然いぜんとして茫漠ぼうばくたる雲くもに対するたいする思おもうがあった。
批評ひひょうに上らのぼらない前まえの田口たぐちでさえ、この男おとこよりはかえって活きつきた人間にんげんらしい気きがした。
同じおなじ松本まつもとについて見みても、この間まの晩ばん神田かんだの洋食屋ようしょくやで、田口たぐちの娘むすめを相手あいてにして珊瑚樹さんごじゅの珠たまがどうしたとかこうしたとか云っいっていた時じの方ほうが、よっぽど活きつきて動いうごいていた。
今いま彼かれの前まえに坐っすわっているのは、大きなおおきなパイプぱいぷを銜えくわえた木像もくぞうの霊れいが、口くちを利くきくと同じおなじような感じかんじを敬太郎けいたろうに与えるあたえるだけなので、彼かれはただその人ひとの本体ほんたいを髣髴ほうふつするに苦しむくるしむに過ぎすぎなかった。
彼かれが一方いっぽうでは明瞭めいりょうな松本まつもとの批評ひひょうに心服しんぷくしながら、一方いっぽうでは松本まつもとの何者なにものなるかをこういう風かぜに考えかんがえつつ、自分じぶんは頭脳ずのうの悪いわるい、直覚ちょっかくの鈍いにぶい、世間せけん並なみ以下いかの人物じんぶつじゃあるまいかと疑りうたぐり始めはじめた時じ、この漠然ばくぜんたる松本まつもとがまた口くちを開いひらいた。
「それでも田口たぐちが箆棒べらぼうをやってくれたため、君きみはかえって仕合しあいをしたようなものですね」「なぜですか」「きっと何なんか位置いちを拵らえこしらえてくれますよ。これなりで放っはなっておきゃ田口たぐちでも何なんでもありゃしない。それは責任せきにんを持っもって受合っうけあって上げあげても宜いよい。が、つまらないのは僕ぼくだ。全くまったく探偵たんていのされ損そんだから」 二人ふたりは顔かおを見合せみあわせて笑っわらった。
敬太郎けいたろうが丸いまりい更紗さらさの座蒲団ざふとんの上うえから立ち上がったちあがった時じ、主人しゅじんはわざわざ玄関げんかんまで送っおくって出でた。
そこに飾っかざってあった墨絵すみえの鶴つるの衝立ついたての前まえに、瘠せやせた高いたかい身体しんたいをしばらく佇たたずまいずまして、靴くつを穿くはく敬太郎けいたろうの後姿うしろすがたを眺めながめていたが、「妙みょうな洋杖すてっきを持っもっていますね。ちょっと拝見はいけん」と云っいった。
そうしてそれを敬太郎けいたろうの手てから受取っうけとって、「へえ、蛇へびの頭あたまだね。なかなか旨くうまく刻こくってある。買っかったんですか」と聞いきいた。
「いえ素人しろうとが刻こくったのを貰っもらったんです」と答えこたえた敬太郎けいたろうは、それを振りふりながらまた矢来やらいの坂さかを江戸えど川かわの方ほうへ下っしたった。
雨あめの降るふる日ひ
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