彼岸過迄

36/58

六

第 36 章
友引ともびきは善くよくないという御ご仙せんの説せつで、葬式そうしきを一いち日ひ延ばしのばしたため、家いえの中なかは陰気いんきな空気くうきの裡りに常つねよりは賑わっにぎわった。
七ななつになる嘉吉かきつという男の子おとこのこが、いつもの陣じん太鼓たいこを叩いたたいて叱らしかられた後あと、そっと千代子ちよこの傍そばへ来きて、宵子よいこさんはもう帰っかえって来きないのと聞いきいた。
須永すながが笑いわらいながら、明日あすは嘉吉かきつさんも焼場やきばへ持っもって行っいって、宵子よいこさんといっしょに焼いやいてしまうつもりだと調ちょう戯たわむれうと、嘉吉かきつはそんなつもりなんか僕ぼく厭いやだぜと云いいいながら、大きなおおきな眼めをくるくるさせて須永すながを見みた。
咲子さきこは、御ご母さんははさんわたしも明日あす御ご葬式そうしきに行きいきたいわと御ご仙せんにせびった。
あたしもねと九きゅうつになる重子しげこが頼んたのんだ。
御ご仙せんはようやく気きがついたように、奥おくで田口たぐち夫婦ふうふと話はなしをしていた夫おっとを呼んよんで、「あなた、明日あすいらしって」と聞いきいた。
「行くいくよ。御前ごぜんも行っいってやるが好いよい」「ええ、行くいく事ことにきめてます。小供こどもには何なんを着せきせたらいいでしょう」「紋付もんつけでいいじゃないか」「でも余よまり模様もようが派手はでだから」「袴はかまを穿けはけばいいよ。男の子おとこのこは海軍かいぐん服ふくでたくさんだし。御前ごぜんは黒紋くろもん付ふだろう。黒いくろい帯おびは持っもってるかい」「持っもってます」「千代子ちよこ、御前ごぜんも持っもってるなら喪服もふくを着きて供ともに立ったっておやり」 こんな世話せわを焼いやいた後あとで、松本まつもとはまた奥おくへ引返しひきかえした。
千代子ちよこもまた線香せんこうを上げあげに立ったった。
棺ひつぎの上うえを見るみると、いつの間まにか綺麗きれいな花環はなわが載せのせてあった。
「いつ来きたの」と傍そばにいる妹いもうとの百ひゃく代だいに聞いきいた。
百ひゃく代だいは小さなちいさな声こえで「先刻せんこく」と答えこたえたが、「叔母おばさんが小供こどものだから、白いしろい花はなだけでは淋しいさびしいって、わざと赤いあかいのを交ぜまぜさしたんですって」と説明せつめいした。
姉あねと妹いもうとはしばらくそこに並んならんで坐っすわっていた。
十じゅう分ぶんばかりすると、千代子ちよこは百ひゃく代だいの耳みみに口くちを付けつけて、「百代ひゃくだいさんあなた宵子よいこさんの死顔しにがおを見みて」と聞いきいた。
百ひゃく代だいは「ええ」と首肯しゅこうずいた。
「いつ」「ほら先刻せんこく御ご棺ひつぎに入れるいれる時じ見みたんじゃないの。なぜ」 千代子ちよこはそれを忘れわすれていた。
妹いもうとがもし見みないと云っいったら、二人ふたりで棺ひつぎの葢おおいをもう一遍いちぺん開けようあけようと思っおもったのである。
「御ご止しよしなさいよ、怖いこわいから」と云っいって百ひゃく代だいは首くびをふった。
晩ばんには通夜つや僧そうが来きて御ご経きょうを上げあげた。
千代子ちよこが傍そばで聞いきいていると、松本まつもとは坊ぼうさんを捕まえつかまえて、三さん部ぶ経きょうがどうだの、和讃わさんがどうだのという変へんな話はなしをしていた。
その会話かいわの中なかには親鸞しんらん上人しょうにんと蓮如れんにょ上人しょうにんという名ながたびたび出でて来きた。
十じゅう時じ少しすこし廻っまわった頃ころ、松本まつもとは菓子かしと御布施ごふせを僧そうの前まえに並べならべて、もう宜しいよろしいから御ご引取ひきとり下さいくださいと断わっことわった。
坊ぼうさんの帰っかえった後あとで御ご仙せんがその理由りゆうを聞くきくと、「何なん坊ぼうさんも早くはやく寝ねた方ほうが勝手かってだあね。宵子よいこだって御ご経きょうなんか聴くきくのは嫌いやだよ」とすましていた。
千代子ちよこと百代子ひゃくだいしは顔かおを見合せみあわせて微笑びしょうした。
あくる日あくるひは風かぜのない明らかあきらかな空そらの下したに、小しょういさな棺ひつぎが静かしずかに動いうごいた。
路端みちばたの人ひとはそれを何なんか不可思議ふかしぎのものでもあるかのように目送もくそうした。
松本まつもとは白張しらはりの提灯ちょうちんや白木しろきの輿こしが嫌いやだと云っいって、宵子よいこの棺ひつぎを喪も車くるまに入れいれたのである。
その喪も車くるまの周囲しゅういに垂れたれた黒いくろい幕まくが揺れるゆれるたびに、白しろ綸子りんずの覆ふくをした小さなちいさな棺ひつぎの上うえに飾っかざった花環はなわがちらちら見えみえた。
そこいらに遊んあそんでいた子供こどもが駆け寄っかけよって来きて、珍らしめずらしそうに車くるまを覗き込んのぞきこんだ。
車くるまと行き逢っゆきあった時じ、脱帽だつぼうして過ぎすぎた人ひともあった。
寺てらでは読経どきょうも焼香しょうこうも形式けいしき通りとおり済んすんだ。
千代子ちよこは広いひろい本堂ほんどうに坐っすわっている間ま、不思議ふしぎに涙なみだも何なんも出でなかった。
叔父叔母おじおばの顔かおを見みてもこれといって憂うれいに鎖ささされた様子ようすは見えみえなかった。
焼香しょうこうの時じ、重子しげこが香こうをつまんで香炉こうろの裏うらへ燻るくすぶるのを間違えまちがえて、灰はいを一撮みいちつまみ取っとって、抹香まっこうの中なかへ打ち込んうちこんだ折おりには、おかしくなって吹き出しふきだしたくらいである。
式しきが果てはててから松本まつもとと須永すながと別べつに一二いちに人ひと棺ひつぎにつき添っつきそって火葬場かそうじょうへ廻っまわったので、千代子ちよこはほかのものといっしょにまた矢来やらいへ帰っかえって来きた。
車くるまの上うえで、切なせつなさの少しすこし減っへった今いまよりも、苦しいくるしいくらい悲しかっかなしかった昨日きのう一昨いっさく日ひの気分きぶんの方ほうが、清くきよくて美びくしい物ものを多量たりょうに含んふくんでいたらしく考えかんがえて、その時じ味わっあじわった痛烈つうれつな悲哀ひあいをかえって恋しくこいしく思っおもった。
36/58