五
第 35 章
手頃な屏風がないので、ただ都合の好い位置を択って、何の囲いもない所へ、そっと北枕に寝かした。
今朝方玩弄にしていた風船玉を茶の間から持って来て、御仙がその枕元に置いてやった。
顔へは白い晒し木綿をかけた。
千代子は時々それを取り除けて見ては泣いた。
「ちょっとあなた」と御仙が松本を顧みて、「まるで観音様のように可愛い顔をしています」と鼻を詰らせた。
松本は「そうか」と云って、自分の坐っている席から宵子の顔を覗き込んだ。
やがて白木の机の上に、櫁と線香立と白団子が並べられて、蝋燭の灯が弱い光を放った時、三人は始めて眠から覚めない宵子と自分達が遠く離れてしまったという心細い感じに打たれた。
彼らは代る代る線香を上げた。
その煙の香が、二時間前とは全く違う世界に誘ない込まれた彼らの鼻を断えず刺戟した。
ほかの子供は平生の通り早く寝かされた後に、咲子という十三になる長女だけが起きて線香の側を離れなかった。
「御前も御寝よ」「まだ内幸町からも神田からも誰も来ないのね」「もう来るだろう。好いから早く御寝」 咲子は立って廊下へ出たが、そこで振り回って、千代子を招いた。
千代子が同じく立って廊下へ出ると、小さな声で、怖いからいっしょに便所へ行ってくれろと頼んだ。
便所には電灯が点けてなかった。
千代子は燐寸を擦って雪洞に灯を移して、咲子といっしょに廊下を曲った。
帰りに下女部屋を覗いて見ると、飯焚が出入の車夫と火鉢を挟んでひそひそ何か話していた。
千代子にはそれが宵子の不幸を細かに語っているらしく思われた。
ほかの下女は茶の間で来客の用意に盆を拭いたり茶碗を並べたりしていた。
通知を受けた親類のものがそのうち二三人寄った。
いずれまた来るからと云って帰ったのもあった。
千代子は来る人ごとに宵子の突然な最後をくり返しくり返し語った。
十二時過から御仙は通夜をする人のために、わざと置火燵を拵らえて室に入れたが、誰もあたるものはなかった。
主人夫婦は無理に勧められて寝室へ退ぞいた。
その後で千代子は幾度か短かくなった線香の煙を新らしく継いだ。
雨はまだ降りやまなかった。
夕方芭蕉に落ちた響はもう聞こえない代りに、亜鉛葺の廂にあたる音が、非常に淋しくて悲しい点滴を彼女の耳に絶えず送った。
彼女はこの雨の中で、時々宵子の顔に当てた晒を取っては啜泣をしているうちに夜が明けた。
その日は女がみんなして宵子の経帷子を縫った。
百代子が新たに内幸町から来たのと、ほかに懇意の家の細君が二人ほど見えたので、小さい袖や裾が、方々の手に渡った。
千代子は半紙と筆と硯とを持って廻って、南無阿弥陀仏という六字を誰にも一枚ずつ書かした。
「市さんも書いて上げて下さい」と云って、須永の前へ来た。
「どうするんだい」と聞いた須永は、不思議そうに筆と紙を受取った。
「細かい字で書けるだけ一面に書いて下さい。後から六字ずつを短冊形に剪って棺の中へ散らしにして入れるんですから」 皆な畏こまって六字の名号を認ためた。
咲子は見ちゃ厭よと云いながら袖屏風をして曲りくねった字を書いた。
十一になる男の子は僕は仮名で書くよと断わって、ナムアミダブツと電報のようにいくつも並べた。
午過になっていよいよ棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さしておやりな」と云った。
千代子は泣きながら返事もせずに、冷たい宵子を裸にして抱き起した。
その背中には紫色の斑点が一面に出ていた。
着換が済むと御仙が小さい珠数を手にかけてやった。
同じく小さい編笠と藁草履を棺に入れた。
昨日の夕方まで穿いていた赤い毛糸の足袋も入れた。
その紐の先につけた丸い珠のぶらぶら動く姿がすぐ千代子の眼に浮んだ。
みんなのくれた玩具も足や頭の所へ押し込んだ。
最後に南無阿弥陀仏の短冊を雪のように振りかけた上へ葢をして、白綸子の被をした。