彼岸過迄

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一

第 21 章
眼めが覚めるさめると、自分じぶんの住みすみ慣れなれた六ろく畳たたみに、いつもの通りとおり寝ねている自分じぶんが、敬太郎けいたろうには全くまったく変へんに思わおもわれた。
昨日きのうの出来事できごとはすべて本当ほんとうのようでもあった。
また纏まりまとまりのない夢ゆめのようでもあった。
もっと綿密めんみつに形容けいようすれば、「本当ほんとうの夢ゆめ」のようでもあった。
酔っよいった気分きぶんで町まちの中なかに活動かつどうしたという記憶きおくも伴なっともなっていた。
それよりか、酔っよいった気分きぶんが世の中よのなかに充ち充ちみちみちていたという感じかんじが一番いちばん強かっつよかった。
停留所ていりゅうしょも電車でんしゃも酔っよいった気分きぶんに充ちみちていた。
宝石商ほうせきしょうも、革かわ屋やも、赤あかと青あおの旗振りはたふりも、同じおなじ空気くうきに酔っよいっていた。
薄青いうすあおいペンキぺんき塗ぬりの洋食店ようしょくてんの二に階かいも、そこに席せきを占めしめた眉まゆの間まに黒子ほくろのある紳士しんしも、色いろの白いしろい女おんなも、ことごとくこの空気くうきに包まつつまれていた。
二人ふたりの話しはなしに出でて来るくる、どこにあるか分らわからない所ところの名なも、男おとこが女おんなにやる約束やくそくをした珊瑚さんごの珠たまも、みんな陶然とうぜんとした一種いっしゅの気分きぶんを帯びおびていた。
最ももっともこの気分きぶんに充ちみちて活躍かつやくしたものは竹たけの洋杖すてっきであった。
彼かれがその洋杖すてっきを突いついたまま、幌ほろを打つうつ雨あめの下したで、方角ほうがくに迷っまよった時じの心持こころもちは、この気分きぶんの高潮たかしおに達したっした幕まく前まえの一区いちく切せつとして、ほとんど狐きつねから取り憑かとりつかれた人ひとの感じかんじを彼かれに与えあたえた。
彼かれはその時じ店みせの灯あかりで佗びしくわびしく照らさてらされたびしょ濡れびしょぬれの往来おうらいと、坂さかの上うえに小さくちいさく見えるみえる交番こうばんと、その左手ひだりてにぼんやり黒くくろくうつる木立こだちとを見廻しみまわして、はたしてこれが今日きょうの仕事しごとの結末けつまつかと疑ぐっうたぐった。
彼かれはやむを得とくず車夫しゃふに梶棒かじぼうを向け直さむけなおさせて、思いおもいも寄らよらない本郷ほんごうへ行けいけと命じめいじた事ことを記憶きおくしていた。
彼かれは寝ねながら天井てんじょうを眺めながめて、自分じぶんに最ももっとも新らしいあたらしい昨日きのうの世界せかいを、幾いく順じゅんとなく眼めの前まえに循環じゅんかんさせた。
彼かれは二に日ひ酔よいの眼めと頭あたまをもって、蚕かいこの糸いとを吐くはくようにそれからそれへと出でてくるこの記念きねんの画がを飽かあかず見つめみつめていたが、しまいには眼め先さきに漂ようただようふわふわした夢ゆめの蒼蠅さばえさに堪えこらえなくなった。
それでも後あとから後あとからと向うむこうで独りひとり勝手にかってに現われあらわれて来るくるので、彼かれは正気せいきでありながら、何なんかに魅入られみいられたのではなかろうかと云ういう疑ぎさえ起しおこした。
彼かれはこの浅いあさい疑ぎに関聯かんれんして、例れいの洋杖すてっきを胸むねに思い浮べおもいうかべざるを得とくなかった。
昨日きのうの男おとこも女おんなも彼かれの眼めには絵えを見るみるほど明らかあきらかであった。
容貌ようぼうは固よりもとより服装ふくそうから歩きあるきつきに至るいたるまでことごとく記憶きおくの鏡かがみに判はん切りきりと映っうつった。
それでいて二人ふたりとも遠くとおくの国くににいるような心持こころもちがした。
遠くとおくの国くににいながら、つい近くちかくにあるものを見るみるように、鮮やかあざやかな色いろと形かたちを備えそなえて眸ひとみを侵しおかして来きた。
この不思議ふしぎな影響えいきょうが洋杖すてっきから出でたかも知れしれないという神経しんけいを敬太郎けいたろうはどこかに持っもっていた。
彼かれは昨夕さくゆう法外ほうがいな車賃くるまちんを貪どんぼられて、宿やどの門口かどぐちを潜っもぐった時じ、何なん心なくこころなくその洋杖すてっきを持っもったまま自分じぶんの室むろまで帰っかえって来きて、これは人ひとの目めに触れるふれる所ところに置くおくべきものでないという顔かおをして、寝るねる前まえに、戸棚とだなの奥おくの行李こうりの後あとへ投げ込んなげこんでしまったのである。
今朝けさは蛇へびの頭あたまにそれほどの意味いみがないようにも思わおもわれた。
ことにこれから田口たぐちに逢っあって、探偵たんていの結果けっかを報告ほうこくしなければならないと云ういう実際じっさい問題もんだいの方ほうが頭あたまに浮いういて来るくると、なおさらそういう感じかんじが深くふかくなった。
彼かれは一日いちにちの午後ごごから宵よいへかけて、妙みょうに一種いっしゅの空気くうきに酔わさよわされた気分きぶんで活動かつどうした自覚じかくはたしかにあるが、いざその活動かつどうの結果けっかを、普通ふつうの人間にんげんが処世しょせい上うえに利用りようできるように、筋すじの立ったった報告ほうこくに纏めるまとめる段だんになると、自分じぶんの引き受けひきうけた仕事しごとは成せい効しこうしているのか失敗しっぱいしているのかほとんど分らわからなかった。
したがって洋杖すてっきの御蔭みかげを蒙っこうむっているのか、いないのかも判然はんぜんしなかった。
床ゆかの中なかで前後ぜんごをくり返しくりかえした敬太郎けいたろうには、まさしくその御蔭みかげを蒙っこうむっているらしくも見えみえた。
またけっしてその御蔭みかげを蒙っこうむっていないようにも思わおもわれた。
彼かれはともかくも二に日ひ酔よいの魔まを払い落しはらいおとしてからの事ことだと決心けっしんして、急きゅうに夜着よぎを剥ぐはぐって跳ね起きはねおきた。
それから洗面所せんめんしょへ下りくだりて氷るこおるほど冷めさめたい水みずで頭あたまをざあざあ洗っあらった。
これで昨日きのうの夢ゆめを髪の毛かみのけの根本こんぽんから振い落しふるいおとして、普通ふつうの人間にんげんに立ち還ったちかえったような気きになれたので、彼かれは景気けいきよく三さん階かいの室むろに上っのぼった。
そこの窓まどを潔ぎよくいさぎよく明け放しあけはなした彼かれは、東向ひがしむきに直立ちょくりつして、上野うえのの森もりの上うえから高くたかく射すさす太陽たいようの光ひかりを全身ぜんしんに浴びあびながら、十じゅう遍へんばかり深呼吸しんこきゅうをした。
こう精神せいしん作用さようを人間並にんげんなみに刺戟しげきした後あとで、彼かれは一服いっぷくしながら、田口たぐちへ報告ほうこくすべき事柄ことがらの順序じゅんじょや条項じょうこうについて力めりきめて実際的じっさいてきに思慮しりょを回らしまわらした。
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