彼岸過迄

9/58

九

第 9 章
敬太郎けいたろうは微笑びしょうせざるを得とくなかった。
しかしそれよりもおかしく感じかんじたのは、森本もりもとの形容けいようした大風おおふうの勢いきおいであった。
彼かれらの一行いっこうが測量そくりょうの途次とじ茫々ぼうぼうたる芒ぼう原はらの中なかで、突然とつぜん面めんも向けむけられないほどの風かぜに出会っであった時じ、彼かれらは四よんつ這になって、つい近所きんじょの密林みつりんの中なかへ逃げ込んにげこんだところが、一抱いちほうも二に抱かかえもある大木たいぼくの枝えだも幹みきも凄まじいすさまじい音おとを立てたてて、一度いちどに風かぜから痛いた振らふられるので、その動揺どうようが根ねに伝わっつたわって、彼かれらの踏んふんでいる地面じめんが、地震じしんの時じのようにぐらぐらしたと云ういうのである。
「それじゃたとい林はやしの中なかへ逃げ込んにげこんだところで、立ったっている訳わけに行かいかないでしょう」と敬太郎けいたろうが聞くきくと、「無論むろん突伏しつっぷしていました」という答こたえであったが、いくら非道いひどい風かぜだって、土つちの中なかに張っちょうった大木たいぼくの根ねが動いうごいて、地震じしんを起すおこすほどの勢いきおいがあろうとは思えおもえなかったので、敬太郎けいたろうは覚えおぼえず吹き出しふきだしてしまった。
すると森本もりもともまるで他事たじのように同じくおなじく大きなおおきな声こえを出しだして笑いわらい始めはじめたが、それがすむと、急きゅうに真面目まじめになって、敬太郎けいたろうの口くちを抑えるおさえるような手つきてつきをした。
「おかしいが本当ほんとうです。どうせ常識じょうしき以下いかに飛び離れとびはなれた経験けいけんをするくらいの僕ぼくだから、不ふ中なか用ようにゃあ違いないが本当ほんとうです。――もっともあなた見みたいに学がくのあるものが聞きゃききゃあ全くまったく嘘うそのような話はなしさね。だが田川たがわさん、世の中よのなかには大風おおふうに限らかぎらず随分ずいぶん面白いおもしろい事ことがたくさんあるし、またあなたなんざあその面白いおもしろい事ことにぶつかろうぶつかろうと苦労くろうして御ご出でなさる御ご様子ようすだが、大学だいがくを卒業そつぎょうしちゃもう駄目だめですよ。いざとなると大抵たいていは自分じぶんの身分みぶんを思いおもいますからね。よしんば自分じぶんでいくら身みを落すおとすつもりでかかっても、まさか親おやの敵討かたきうちじゃなしね、そう真剣しんけんに自分じぶんの位地いちを棄てすてて漂浪ひょうろうするほどの物もの数奇すうきも今いまの世よにはありませんからね。第だい一いち傍そばがそうさせないから大丈夫だいじょうぶです」 敬太郎けいたろうは森本もりもとのこの言葉ことばを、失意しついのようにもまた得意とくいのようにも聞いきいた。
そうして腹はらの中なかで、なるほど常つね調ちょう以上いじょうの変っかわった生活せいかつは、普通ふつうの学士がくしなどには送れおくれないかも知れしれないと考えかんがえた。
ところがそれを自分じぶんにさえ抑えおさえたい気きがするので、わざと抵抗ていこうするような語気ごきで、「だって、僕ぼくは学校がっこうを出でたには出でたが、いまだに位置いちなどは無いないんですぜ。あなたは位置いち位置いちってしきりに云ういうが。――実際じっさい位置いちの奔走ほんそうにも厭々いやしてしまった」と投げ出すなげだすように云っいった。
すると森本もりもとは比較的ひかくてき厳粛げんしゅくな顔かおをして、「あなたのは位置いちがなくってある。僕ぼくのは位置いちがあって無いない。それだけが違うちがうんです」と若いわかいものに教えるおしえる態度たいどで答えこたえた。
けれども敬太郎けいたろうにはこの御籤みくじめいた言葉ことばがさほどの意義いぎを齎さもたらさなかった。
二人ふたりは少しすこしの間ま煙草たばこを吹かしふかして黙っだまっていた。
「僕ぼくもね」とやがて森本もりもとが口くちを開いひらいた。
「僕ぼくもね、こうやって三さん年ねん越こし、鉄道てつどうの方ほうへ出でているが、もう厭いやになったから近々ちかぢか罷めようやめようと思うおもうんです。もっとも僕ぼくの方ほうで罷めやめなけりゃ向うむこうで罷めるやめるだけなんだからね。三さん年ねん越こしと云やいやあ僕ぼくにしちゃ長いながい方ほうでさあ」 敬太郎けいたろうは罷めるやめるが好かろうよかろうとも罷めやめないが好かろうよかろうとも云わいわなかった。
自分じぶんが罷めやめた経験けいけんも罷めやめられた閲歴えつれきもないので、他ほかの進退しんたいなどはどうでも構わかまわないような気きがした。
ただ話はなしが理りに落ちおちて面白くおもしろくないという自覚じかくだけあった。
森本もりもとはそれと察しさっしたか、急きゅうに調子ちょうしを易えかえて、世間せけん話はなしを快活かいかつに十じゅう分ぶんほどした後あとで、「いやどうも御馳走ごちそうでした。――とにかく田川たがわさん若いわかいうちの事ことですよ、何なんをやるのも」と、あたかも自分じぶんが五十ごじゅうぐらいの老人ろうじんのようなことを云っいって帰っかえって行っいった。
それから一いち週間しゅうかんばかりの間ま、田川たがわは落ちついおちついて森本もりもとと話すはなす機会きかいを有ゆうたなかったが、二人ふたり共とも同じおなじ下宿げしゅくにいるのだから、朝あさか晩ばんに彼かれの姿すがたを認めみとめない事ことはほとんど稀まれであった。
顔かおを洗うあらう所ところなどで落ち合うおちあう時じ、敬太郎けいたろうは彼かれの着きている黒襟くろえりの掛っかかったドテラどてらが常つねに目めについた。
彼かれはまた襟えり開かいの広いひろい新調しんちょうの背広せびろを着きて、妙みょうな洋杖すてっきを突いついて、役所やくしょから帰るかえるとよく出でて行っいった。
その洋杖すてっきが土間どまの瀬戸物せともの製せいの傘かさ入いりに入れいれてあると、ははあ先生せんせい今日きょうは宅たくにいるなと思いおもいながら敬太郎けいたろうは常つねに下宿げしゅくの門もんを出入でいりした。
するとその洋杖すてっきがちゃんと例れいの所ところに立てたててあるのに、森本もりもとの姿すがたが不意ふいに見えみえなくなった。
9/58