八
第 46 章
意地の強い僕は母を嬉しがらせるよりもなるべく自我を傷けないようにと祈った。
その結果千代子が僕の知らない間に、母から説き落されてはと掛念して、暗にそれを防ぐ分別をした。
母は彼女の生れ落ちた当初すでに僕の嫁ときめただけあって、多くある姪や甥の中で、取り分け千代子を可愛がった。
千代子も子供の時分から僕の家を生家のごとく心得て遠慮なく寝泊りに来た。
その縁故で、田口と僕の家が昔に比べると比較的疎くなった今日でも、千代子だけは叔母さん叔母さんと云って、生の親にでも逢いに来るような朗らかな顔をして、しげしげ出入をしていた。
単純な彼女は、自分の身を的に時々起る縁談をさえ、隠すところなく母に打ち明けた。
人の好い母はまたそれを素直に聞いてやるだけで、恨めしい眼つき一つも見せ得なかった。
僕の恐れる懇談は、こういう関係の深い二人の間に、いつ起らないとも限らなかったのである。
僕の分別というのはまずこの点に関して、当分母の口を塞いでおこうとする用心に過ぎなかった。
ところがいざ改たまって母にそれを切り出そうとすると、ただ自分の我を通すために、弱い親の自由を奪うのは残酷な子に違ないという心持が、どこにか萌すので、ついそれなりにしてやめる事が多かった。
もっとも年寄の眉を曇らすのがただ情ないばかりでやめたとも云われない。
これほど親しい間柄でさえ今まで思い切ったところを千代子に打ち明け得なかった母の事だから、たといこのままにしておいても、まあ当分は大丈夫だろうという考が、母に対する僕を多少抑えたのである。
それで僕は千代子に関して何という明瞭な所置も取らずに過ぎた。
もっともこういう不安な状態で日を送った時期にも、まるで田口の家と打絶えた訳ではなかったので、会には単に母の喜こぶ顔を見るだけの目的をもって内幸町まで電車を利用した覚さえあったのである。
そういうある日の晩、僕は久しぶりに千代子から、習い立ての珍らしい手料理を御馳走するからと引止められて、夕飯の膳についた。
いつも留守がちな叔父がその日はちょうど内にいて、食事中例の気作な話をし続けにしたため、若い人の陽気な笑い声が障子に響くくらい家の中が賑わった。
飯が済んだ後で、叔父はどういう考か、突然僕に「市さん久しぶりに一局やろうか」と云い出した。
僕はさほど気が進まなかったけれどもせっかくだから、やりましょうと答えて、叔父と共に別室へ退いた。
二人はそこで二三番打った。
固より下手と下手の勝負なので、時間のかかるはずもなく、碁石を片づけてもまだそれほど遅くはならなかった。
二人は煙草を呑みながらまた話を始めた。
その時僕は適当な機会を利用してわざと叔父に「千代子さんの縁談はまだ纏まりませんか」と聞いた。
それは固より僕が千代子に対して他意のないという事を示すためであった。
がまた一方では、一日も早くこの問題の解決が着けば、自分も安心だし、千代子も幸福だと考えたからである。
すると叔父はさすがに男だけあって、何の躊躇もなくこう云った。
――「いやまだなかなかそう行きそうもない。だんだんそんな話を持って来てくれるものはあるが、何しろむずかしくって弱る。その上調べれば調べるほど面倒になるだけだし、まあ大抵のところで纏まるなら纏めてしまおうかと思ってる。――縁談なんてものは妙なものでね。今だから御前に話すが、実は千代子の生れたとき、御前の御母さんが、これを市蔵の嫁に欲しいってね――生れ立ての赤ん坊をだよ」 叔父はこの時笑いながら僕の顔を見た。
「母は本気でそう云ったんだそうです」「本気さ。姉さんはまた正直な人だからね。実に好い人だ。今でも時々真面目になって叔母さんにその話をするそうだ」 叔父は再び大きな声を出して笑った。
僕ははたして叔父がこう軽くこの事件を解釈しているなら、母のために少し弁じてやろうかと考えた。
が、もしこれが世慣れた人の巧妙な覚らせぶりだとすれば、一口でも云うだけが愚だと思い直して黙った。
叔父は親切な人でまた世慣れた人である。
彼のこの時の言葉はどちらの眼で見ていいのか、僕には今もって解らない。
ただ僕がその時以来千代子を貰わない方へいよいよ傾いたのは事実である。