四
第 14 章
それで約一時間ほど須永と話す間にも、敬太郎は位地とか衣食とかいう苦しい問題を自分と進んで持ち出しておきながら、やっぱり先刻見た後姿の女の事が気に掛って、肝心の世渡りの方には口先ほど真面目になれなかった。
一度下座敷で若々しい女の笑い声が聞えた時などは、誰か御客が来ているようだねと尋ねて見ようかしらんと考えたくらいである。
ところがその考えている時間が、すでに自然をぶち壊す道具になって、せっかくの問が間外れになろうとしたので、とうとう口へ出さずにやめてしまった。
それでも須永の方ではなるべく敬太郎の好奇心に媚びるような話題を持ち出した気でいた。
彼は自分の住んでいる電車の裏通りが、いかに小さな家と細い小路のために、賽の目のように区切られて、名も知らない都会人士の巣を形づくっているうちに、社会の上層に浮き上らない戯曲がほとんど戸ごとに演ぜられていると云うような事実を敬太郎に告げた。
まず須永の五六軒先には日本橋辺の金物屋の隠居の妾がいる。
その妾が宮戸座とかへ出る役者を情夫にしている。
それを隠居が承知で黙っている。
その向う横町に代言だか周旋屋だか分らない小綺麗な格子戸作りの家があって、時々表へ女記者一名、女コック一名至急入用などという広告を黒板へ書いて出す。
そこへある時二十七八の美くしい女が、襞を取った紺綾の長いマントをすぽりと被って、まるで西洋の看護婦という服装をして来て職業の周旋を頼んだ。
それが其家の主人の昔し書生をしていた家の御嬢さんなので、主人はもちろん妻君も驚ろいたという話がある。
次に背中合せの裏通りへ出ると、白髪頭で廿ぐらいの妻君を持った高利貸がいる。
人の評判では借金の抵当に取った女房だそうである。
その隣りの博奕打が、大勢同類を寄せて、互に血眼を擦り合っている最中に、ねんね子で赤ん坊を負ったかみさんが、勝負で夢中になっている亭主を迎に来る事がある。
かみさんが泣きながらどうかいっしょに帰ってくれというと、亭主は帰るには帰るが、もう一時間ほどして負けたものを取り返してから帰るという。
するとかみさんはそんな意地を張れば張るほど負けるだけだから、是非今帰ってくれと縋りつくように頼む。
いや帰らない、いや帰れといって、往来の氷る夜中でも四隣の眠を驚ろかせる。
…… 須永の話をだんだん聞いているうちに、敬太郎はこういう実地小説のはびこる中に年来住み慣れて来た須永もまた人の見ないような芝居をこっそりやって、口を拭ってすましているのかも知れないという気が強くなって来た。
固よりその推察の裏には先刻見た後姿の女が薄い影を投げていた。
「ついでに君の分も聞こうじゃないか」と切り込んで見たが、須永はふんと云って薄笑いをしただけであった。
その後で簡単に「今日は咽喉が痛いから」と云った。
さも小説は有っているが、君には話さないのだと云わんばかりの挨拶に聞えた。
敬太郎が二階から玄関へ下りた時は、例の女下駄がもう見えなかった。
帰ったのか、下駄箱へしまわしたのか、または気を利かして隠したのか、彼にはまるで見当がつかなかった。
表へ出るや否や、どういう料簡か彼はすぐ一軒の煙草屋へ飛び込んだ。
そうしてそこから一本の葉巻を銜えて出て来た。
それを吹かしながら須田町まで来て電車に乗ろうとする途端に、喫煙御断りという社則を思い出したので、また万世橋の方へ歩いて行った。
彼は本郷の下宿へ帰るまでこの葉巻を持たすつもりで、ゆっくりゆっくり足を運ばせながらなお須永の事を考えた。
その須永はけっしていつものように単独には頭の中へは這入って来なかった。
考えるたびにきっと後姿の女がちらちら跟いて来た。
しまいに「本郷台町の三階から遠眼鏡で世の中を覗いていて、浪漫的探険なんて気の利いた真似ができるものか」と須永から冷笑かされたような心持がし出した。