彼岸過迄

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九

第 57 章
市し蔵くらが帰っかえった後あとでも、しばらくは彼かれの事ことが変へんに気きにかかった。
暗いくらい秘密ひみつを彼かれの頭あたまに判はんで押しおした以上いじょう、それから出るでる一切いっさいの責任せきにんは、当然とうぜん僕ぼくが背負っせおって立たたたなければならない気きがしたからである。
僕ぼくは姉あねに会っかいって、彼女かのじょの様子ようすを見みもし、また市し蔵くらの近況きんきょうを聞きききもしたくなった。
茶の間ちゃのまにいた妻つまを呼んよんで、相談そうだんかたがた理由りゆうを話すはなすと、存外ぞんがい物ものに驚ろかおどろかない妻つまは、あなたがあんまり余計よけいなおしゃべりをなさるからですよと云っいって、始めはじめはほとんど取り合わとりあわなかったが、しまいに、なんで市しさんに間ま違いがあるもんですか、市しさんは年ねんこそ若いわかいが、あなたよりよっぽど分別ぶんべつのある人ひとですものと、独りひとりで受合っうけあっていた。
「すると市し蔵くらの方ほうで、かえっておれの事ことを心配しんぱいしている訳わけになるんだね」「そうですとも、誰だれだってあなたの懐手ふところでばかりして、舶来はくらいのパイプぱいぷを銜えくわえているところを見れみれば、心配しんぱいになりますわ」 そのうち子供こどもが学校がっこうから帰っかえって来きて、家いえの中なかが急きゅうに賑やかにぎやかになったので、市し蔵くらの事ことはつい忘れわすれたぎり、夕方ゆうがたまでとうとう思い出すおもいだす暇ひまがなかった。
そこへ姉あねが自分じぶんの方ほうから突然とつぜん尋ねたずねて来きた時じは、僕ぼくも覚えおぼえず冷れいりとした。
姉あねはいつもの通りとおり、家族かぞくの集まっあつまっている真中まなかに坐っすわって、無沙汰むさたの詫わびやら、時候じこうの挨拶あいさつやらを長々しくながながしく妻つまと交換こうかんしていた。
僕ぼくもそこに座ざを占めしめたまま動くうごく機会きかいを失っうしなった。
「市し蔵くらが明日あすから旅行りょこうするって云ういうじゃありませんか」と僕ぼくは好いよい加減かげんな時分じぶんに聞き出しききだした。
「それについてね……」と姉あねはやや真面目まじめになって僕ぼくの顔かおを見みた。
僕ぼくは姉あねの言葉ことばを皆みなまで聞かきかずに、「なに行きいきたいなら行かしいかしておやんなさい。試験しけんで頭あたまをさんざん使っつかった後あとだもの。少しすこしは楽らくもさせないと身体しんたいの毒どくになるから」とあたかも市し蔵くらの行動こうどうを弁護べんごするように云っいった。
姉あねは固よりもとより同じおなじ意見いけんだと答えこたえた。
ただ彼かれの健康状態けんこうじょうたいが旅行りょこうに堪えるこたえるかどうかを気遣うきづかうだけだと告げつげた。
最後さいごに僕ぼくの見るみるところでは大丈夫だいじょうぶなのかと聞いきいた。
僕ぼくは大丈夫だいじょうぶだと答えこたえた。
妻つまも大丈夫だいじょうぶだと答えこたえた。
姉あねは安心あんしんというよりも、むしろ物もの足りたりない顔かおをした。
僕ぼくは姉あねの使うつかう健康けんこうという言葉ことばが、身体しんたいに関係かんけいのない精神上せいしんじょうの意味いみを有っあっているに違いないと考えかんがえて、腹はらの中なかで一種いっしゅの苦痛くつうを感じかんじた。
姉あねは僕ぼくの顔つきかおつきから直覚ちょっかく的まとに影響えいきょうを受けうけたらしい心細こころぼそさを額がくに刻んきざんで、「恒ひさしさん、先刻せんこく市し蔵くらがこちらへ上っのぼった時じ、何なんか様子ようすの変っかわったところでもありゃしませんでしたかい」と聞いきいた。
「何なんそんな事ことがあるもんですか。やっぱり普通ふつうの市し蔵くらでさあ。ねえ御ご仙せん」「ええちっとも違っちがっておいでじゃありません」「わたしもそうかと思うおもうけれども、何なんだかこの間このまから調子ちょうしが変へんでね」「どんななんです」「どんなだと云わいわれるとまた話しはなしようもないんだが」「全くまったく試験しけんのためだよ」と僕ぼくはすぐ打ち消しうちけした。
「姉さんあねさんの神経しんけいですよ」と妻つまも口くちを出しだした。
僕ぼくらは夫婦ふうふして姉あねを慰さめなぐさめた。
姉あねはしまいにやや納得なっとくしたらしい顔つきかおつきをして、みんなと夕食ゆうしょくを共ともにするまで話し込んはなしこんだ。
帰るかえる時じには散歩さんぽがてら、子供こどもを連れつれて電車でんしゃまで見送っみおくったが、それでも気きがすまないので、子供こどもを先さきへ返しかえして、断わることわる姉あねの傍そばに席せきを取っとったなり、とうとう彼女かのじょの家いえまで来きた。
僕ぼくは幸いさいわい二に階かいにいた市し蔵くらを姉あねの前まえに呼び出しよびだした。
御ご母さんははさんが御前ごぜんの事ことを大層たいそう心配しんぱいしてわざわざ矢来やらいまで来きたから、今いまおれがいろいろに云っいってようやく安心あんしんさせたところだと告げつげた。
したがって旅行りょこうに出すだすのは、つまり僕ぼくの責任せきにんなんだから、なるべく年寄としよりに心配しんぱいをかけないように、着いついたら着いついた所ところから、立つたつなら立つたつ所ところから、また逗留とうりゅうするなら逗留とうりゅうする所ところから、必ずかならず音信おんしんを怠たらおこたらないようにして、いつでも用ようができしだいこっちから呼び返すよびかえす事ことのできる注意ちゅういをしたら好かろうよかろうと云っいった。
市し蔵くらはそのくらいの面倒めんどうなら僕ぼくに注意ちゅういされるまでもなくすでに心得こころえていると答えこたえて、彼かれの母ははの顔かおを見みながら微笑びしょうした。
僕ぼくはこれで幾分いくぶんか姉あねの心こころを柔らげやわらげ得とくたものと信じしんじて十一じゅういち時じ頃ころまた電車でんしゃで矢来やらいへ帰っかえって来きた。
僕ぼくを迎むかえに玄関げんかんに出でた妻つまは、待ちまちかねたように、どうでしたと尋ねたずねた。
僕ぼくはまあ安心あんしんだろうよと答えこたえた。
実際じっさい僕ぼくは安心あんしんしたような心持こころもちだったのである。
で、明るあかる日ひは新橋しんばしへ見送りみおくりにも行かいかなかった。
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