彼岸過迄

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七

第 27 章
田口たぐちは硯箱すずりばこと巻紙まきがみを取り寄せとりよせて、さらさらと紹介状しょうかいじょうを書きかき始めはじめた。
やがて名宛なあてを認めみとめ終るおわると、「ただ通りとおり一遍いちぺんの文言もんごんだけ並べならべておいたらそれで好いよいでしょう」と云いいいながら、手焙てあぶりの前まえに翳しかざした手紙てがみを敬太郎けいたろうに読んよんで聞かきかせた。
その中なかには書いかいた当人とうにんの自白じはくしたごとく、これといって特別とくべつの注意ちゅういに価あたいする事ことは少しすこしも出でて来きなかった。
ただこの者ものは今年ことし大学だいがくを卒業そつぎょうしたばかりの法学ほうがく士しで、ことによると自分じぶんが世話せわをしなければならない男おとこだから、どうか会っかいって話はなしをしてやってくれとあるだけだった。
田口たぐちは異存いぞんのない敬太郎けいたろうの顔かおを見届けみとどけた上うえで、すぐその巻紙まきがみをぐるぐると巻いまいて封筒ふうとうへ入れいれた。
それからその表ひょうへ松本まつもと恒三こうぞう様ようと大きくおおきく書いかいたなり、わざと封ふうをせずに敬太郎けいたろうに渡しわたした。
敬太郎けいたろうは真面目まじめになって松本まつもと恒三こうぞう様ようの五ご字じを眺めながめたが、肥っふとった締りしまりのない書体しょたいで、この人ひとがこんな字じを書くかくかと思うおもうほど拙つたならしくできていた。
「そう感心かんしんしていつまでも眺めながめていちゃあいけない」「番地ばんちが書いかいてないようですが」「ああそうか。そいつは私わたくしの失念しつねんだ」 田口たぐちは再びふたたび手紙てがみを受け取っうけとって、名宛なあての人ひとの住所じゅうしょと番地ばんちを書き入れかきいれてくれた。
「さあこれなら好いよいでしょう。不味くまずくって大きなおおきなところは土橋どばしの大おお寿司すし流りゅうとでも云ういうのかな。まあ役やくに立ちたちさえすればよかろう、我慢がまんなさい」「いえ結構けっこうです」「ついでに女おんなの方ほうへも一いち通つう書きかきましょうか」「女おんなも御存じごぞんじなのですか」「ことによると知っしってるかも知れしれません」と答えこたえた田口たぐちは何なんだか意味いみのありそうに微笑びしょうした。
「御ご差支さしつかえさえなければ、おついでに一いち本ほん書いかいていただいても宜しゅうよろしゅうございます」と敬太郎けいたろうも冗談じょうだん半分はんぶんに頼んたのんだ。
「まあ止しよした方ほうが安全あんぜんでしょうね。あなたのような年ねんの若いわかい男おとこを紹介しょうかいして、もし間ま違いでもできると責任せきにん問題もんだいだから。浪漫ろまん―何なんとか云ういうじゃありませんか、あなたのような人ひとの事ことを。私ゃわたしゃ学問がくもんがないから、今頃いまごろ流行るはやるハイカラはいからな言葉ことばを直じか忘れわすれちまって困るこまるが、何なんとか云いいいましたっけね、あの、小説家しょうせつかの使うつかう言葉ことばは。……」 敬太郎けいたろうはまさかそりゃこう云ういう言葉ことばでしょうと教えるおしえる気きにもなれなかった。
ただエヘヘえへへと馬鹿ばかみたように笑っわらっていた。
そうして長居ながいをすればするほど、だんだん非道くひどく冷かさひやかされそうなので、心こころの内うちでは、この一段落いちだんらくがついたら、早くはやく切り上げきりあげて帰ろうかえろうと思っおもった。
彼かれは田口たぐちのくれた紹介状しょうかいじょうを懐ふところに収めおさめて、「では二三にさん日ひ内うちにこれを持っもって行っいって参りまいりましょう。その模様もようでまた伺うかがいがう事ことに致しいたしますから」と云いいいながら、柔かいやわらかい座蒲団ざふとんの上うえを滑り下りすべりおりた。
田口たぐちは「どうも御苦労ごくろうでした」と叮嚀ていねいに挨拶あいさつしただけで、ロマンチックろまんちっくもコスメチックこすめちっくもすっかり忘れわすれてしまったという顔つきかおつきをして立ち上ったちのぼった。
敬太郎けいたろうは帰り途かえりみちに、今いま会っかいった田口たぐちと、これから会おうあおうという松本まつもとと、それから松本まつもとを待ち合わしまちあわした例れいの恰好かっこのいい女おんなとを、合せあわせたり離しはなしたりしてしきりにその関係かんけいを考えかんがえた。
そうして考えれかんがえれば考えるかんがえるほど一いち歩あゆみずつ迷宮めいきゅうの奥おくに引き込まひきこまれるような面白味おもしろみを感じかんじた。
今いま日田ひた口くちでの獲物えものは松本まつもとという名前なまえだけであるが、この名前なまえがいろいろに錯綜さくそうした事実じじつを自分じぶんのために締め括っしめくくっている妙みょうな嚢のうのように彼かれには思えるおもえるので、そこから何なんが出るでるか分らわからないだけそれだけ彼かれには楽みたのしみが多かっおおかった。
田口たぐちの説明せつめいによると、近きん寄悪いわるい人ひとのようにも聞こえるきこえるが、彼かれの見みたところでは田口たぐちより数すう倍ばい話しはなしがしやすそうであった。
彼かれは今日きょう田口たぐちから得とくた印象いんしょうのうちに、人ひとを取扱うとりあつかう点てんにかけてなるほど老練ろうれんだという嘆美たんびの声こえを見出しみだした上うえ、人物じんぶつとしてもどこか偉えらそうに思わおもわれる点てんが、時々ときどき彼かれの眼めを射るいるようにちらちら輝やいかがやいたにもかかわらず、その前まえに坐っすわっている間ま、彼かれは始終しじゅう何物なにものにか縛らしばられて自由じゆうに動けうごけない窮屈きゅうくつな感じかんじを取り去るとりさる事ことができなかった。
絶えたえず監視かんしの下したに置かおかれたようなこの状態じょうたいは、一時いちじ性せいのものでなくって、いくら面会めんかいの度数どすうを重ねかさねても、けっして薄らぐうすらぐ折おりはなかろうとまで彼かれには見えみえたくらいである。
彼かれはこういう風かぜに気きのおける田口たぐちと反対はんたいの側がわに、何なんでも遠慮えんりょなく聞いきいて怒らおこられそうにない、話し声はなしごえその物もののうちにすでに懐かし味なつかしあじの籠っこもったような松本まつもとを想像そうぞうしてやまなかった。
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